第一話 館の住人①
《sideアンネ》
森の奥深くに聳え立つ洋館は、かつて近隣の街を治めていた領主の邸宅だったという。領主の亡き後、十人程の人間が余裕を持って暮らせるということで、ルームシェア用の邸宅として取り壊されることなくこの地に残されている……と聞いた。
実際のところ、現在八人で暮らしていても不自由のない、むしろ広くてまだまだ余裕がある生活を送れている。
連日続く大雨のせいで、全ての部屋の暖炉に薪をくべていないと、あっという間に凍えてしまいそうになるのが欠点かしら。とはいえ、広い屋敷には八人が住んでいるので、役割分担をすればいいだけの話。不便に思う時こそあれど、この館に不満はない。
けれども、毎日薄暗い雲を浮かべている空は恨めしいと思う。村や街から離れたこの館の欠点がもう一つあった。天候が荒れると、出掛けることが困難になる。
「イヤねぇ、ここ一週間大雨続きよ」
窓の外に視線を向けながらそう呟く。その間にも雨はざぁざぁと強い音をたてながら、窓に水滴を張り付けていく。ついでに風も強いから、水滴のついた窓ががたがたと揺れてかなりうるさい。
住人の中には、こんな大雨と荒れ狂う風の音が好きだという変わり者もいるが、アタシは勿論好きじゃあない。
「毎日薄暗くて気分まで沈みそう。一日でいいから晴れてくれないかしら」
アタシは明るくて、暖かい陽の下で散歩するのが大好きだから、雨を好きに思ったことはないのだ。座っているソファーの肘掛けに頬杖をついて不満をこぼせば、隣に腰かけてきたエルマーが苦笑いを浮かべる。
エルマーとは、茶髪の男性の名前だ。アタシとは違って、癖ひとつないサラサラの髪が綺麗で、羨ましい。柔らかな桃色の瞳はどこまでも優しくて、いつもアタシをまっすぐに見つめてくれる。
そう、エルマーとはアタシの恋人。交際を始めてもう十年も経つけれど、結婚する気は今のところない。だって面倒なんだもの、結婚って。
「季節ですから仕方ありませんよ。あと一週間と経たないうちに雨雲も去ることでしょう」
「早く陽の光を浴びたいのよ。そろそろ頭からキノコが生えてきそうだわ」
そんな冗談を言うくらいには、連日の大雨でやることもなく退屈している。アタシはしがない医者として働いているけれど、呼び出しがない限りはこの館で過ごしているから、こんな悪天候が続く季節にはほぼ仕事の依頼が来ない。
隣に座っているエルマーも同様だ。彼は薬師を生業としているし、やはり依頼がない限り街や村に赴くことがない。
館に住む他の住人も、大半は依頼を受けて街や村に赴く職業の者が多い。例えば、アタシとエルマーの向かいのソファーに腰掛けている、黒髪の偉丈夫もそうだ。
彼はジギスヴァルト。元々は国軍兵士として働いていたが、今は引退して(主に商人からの)雇われ警護をしている。確かに剣の腕もたつし、ボディーガードや傭兵としてはもってこいの人物だ。
事実、山賊や獣が出ると言われているこの森で、アタシ達館の住人を守ってくれる頼りがいのある男だもの。
……まぁ、それも仕事が来なければ常に酒のことばかり考えているような、だらしのない男なのだけれども。
「じゃあ、気分転換に酒でも飲まねぇか。天気なんざ、誰にもどうにも出来ねぇもんだぜ。だが、気分は自分次第。そうだろ?」
「何が気分転換よ。アンタは毎日お酒を飲んでいるじゃない」
それらしいことを言っていても、結局は酒を飲みたいだけである。
領主が住んでいた邸宅だったこともあり、この館の地下には広いワインセラーも作られている。アタシ含めた住人達も酒が好きな人は多いから、それなりの量もある。ジギスが毎日浴びるように呑んでいても、全く減っていないのが現状だ。だからこそか、アタシの頭には名案中の名案が浮かび上がった。
「でも、いいわね。どうせなら皆でパーッと飲んじゃいましょうか」
実を言うと今月は禁酒しようと意気込んでいたのだけれど、ジギスの提案を無下にするのも忍びないわ。
それに、長年一緒に住んでいるとはいえ、全員が集まっている期間はそう長くはない。せっかく同じ屋根の下で暮らしているのだから、華やかなパーティーのように酒を飲んで、美味しい料理を食べて、朝まで騒ぐのもいいかもしれない。
アタシの名案中の名案を聞いたジギスは「よっしゃ!」と拳を握って喜びを噛み締めている。隣にいるエルマーもどこか楽しそうに笑みを浮かべながら、ソファーから腰を上げた。
「そうですね。僕は夕飯の準備をしてきますので……アンネ、よろしくお願いします」
アンネ、とはアタシの名前。そういえば言っていなかったわね。
アタシは普段医者として働いているアンネ。少しうねった真っ赤な髪と、バイオレットの瞳、眼鏡をかけていることが特徴かしら。余談かもしれないけれど、アタシは赤い色が好きだから、メイクも服装も赤を中心としているわ。
誰かに向けた心の中での自己紹介もそこそこに、アタシはジギスと一緒に館の住人を誘いに向かった。
※※※※
「我はいい。皆で楽しんで」
一番初めにやってきたのは占い師のテレーゼという女性のところだった。夜空のような青い髪と、月明かりのような黄色の瞳。顔色はあまり良いものとはいえないが、テレーゼにとっては至って普通のようだ。
そもそもテレーゼは、大人数で騒ぐことがあまり好きではないらしく、断られることは正直目に見えていた。それでも彼女を誘ったのは、以前開いたパーティーが終わりに差しかかった頃、ひょっこりと顔を覗かせてワインを一杯だけ呑んで楽しそうに笑っていたからだ。
もしかしたら照れているだけかもしれないし、一人だけ仲間外れにするのも可哀想だものね。だから、とりあえずだけでも誘いに来たのだけれど……。
「そんなこと言わずに、夕飯の延長線だと思って、ね?」
「お酒も弱いことを知っているはず。いらないわ」
そうバッサリと述べるなり、テレーゼは勢いよく扉を閉めてしまう。彼女は自分以外の誰かを部屋に入れることを嫌っており、押し入ることもはばかられた。
「もう、ノリの悪い子」
「まぁ今に始まったことじゃねぇだろ。潔く諦めようぜ。皆で騒いでたら、また顔覗かせに来るさ」
「……それもそうね」
テレーゼはいつもそうだ。人の輪から離れていると思えば、後々になって「何をしているの?」と、幼い子どものようにこちらを見てくる。普段はうじうじしているけれど、そういうところは可愛いと思う。
今回も、ひょっこりと姿を現すのだろうか。一応彼女が好きだと言っていたワインも用意しておこう、と密かに心の中で思った。
※※※※
次に訪れたのは、テレーゼの隣の部屋にいるリーゼロッテという女性の元だった。リーゼは昔事故に遭って、両足が思うように動かないとのこと。そのため少しだけ動かせる義足と、車椅子で生活を送っている。身体にその他の異常はないらしく、アタシが診る必要もなさそうだった。
リーゼもテレーゼ同様、酒は弱いと聞いている。しかし自分で自分の加減を知っているのか、酔い潰れているところを見たことがない。
誘いの言葉を口にすると、リーゼは亜麻色の髪をさらりと揺らしながら、くすくすと小さく笑った。
「アンネから誘われるとは珍しいこともあるね。禁酒月間中ではなかったのかな」
そういえばリーゼには話していたんだっけ、と思い出す。
本気で止めているのではなく、からかうかのような柔らかい声が耳に優しく届いた。リーゼは女性だが、その声は一般的よりも少し低くて男性のようにもとれるのだ。
「うっ……こ、こういうのはモチベーションの維持が大切なの。大雨続きで気持ちが落ち込みそうな時には、ルールに縛られずリフレッシュすることが大切なのよ」
ジギスではないけれど、そんな子どもじみた言い訳を並べる。隣でジギスは「人のこととやかく言えねぇじゃねぇか」とでも言いたげに、目をじっとりと細めていた。
リーゼはというと、丸眼鏡の向こうに見えるどこか濁りのある海色の瞳で、アタシと机を交互に見つめて頷いた。
「ふふっ、医者の君でもそんなことを言うんだね。もちろん、ぜひ参加させてもらうよ。締切が近いから、少し遅れてしまうかもしれないけれど」
リーゼは自称・しがない作家で、『リゼ』という作家名でたくさんの物語を紡いでいる。アタシも昔から彼女のファンで、その言葉を聞いて思わず身を乗り出してしまう。
「あら、もしかして新作?」
「あぁ駄目駄目。まだ見せられないよ」
テーブルの上に置かれていた原稿用紙を慌てて抱き締めるようにして、アタシに見えないように隠してしまった。
「そんなケチくさいこと言わないで、初めの部分だけでも見せてくれないかしら」
「駄目駄目、お楽しみだよ。ファンの君には特に、完成したものを見せたいんだ。これは、作家であるわたしの信条でもあるのだから、どうか守らせておくれ」
軽い気持ちでお願いしたのだけど、そこまで言われてしまっては引き下がることは出来ない。
「じゃあ期待して待っているわ。早く仕上げて、そして早く降りてきてよね」
アタシが身を引くと、リーゼは原稿用紙をテーブルの上に戻した。
「分かっているよ」
なんにしても、快く参加してくれそうで助かった。テレーゼに引き続いて断られてしまっては、流石のアタシでも落ち込んでしまう。
リーゼの部屋を出ると、着いてきているジギスが感心したような声を発した。
「アンネはよくあんな細かい字を読めるなぁ。俺は最初の三行で辞めちまったぜ」
自慢げに言うことではない。
若干の呆れを覚えつつ、次の目的地に向かいながら返答する。
「リーゼの作品はまだ読みやすい方よ。まぁ、アンタはまず絵本から始めたほうが良さそうかもしれないけれど」
「なんだと〜!?」
※※※※
館にはワインセラーの他にも、家畜を飼育する厩舎もある。とはいえ、現在厩舎と言いつつも飼っているのは馬や牛ではない。裏口から出てすぐにある厩舎の扉をぎぃぃ、と押し開けると、真っ先に見えてくるのが鋼鉄の檻。その中には、白い毛に覆われた巨大な獅子の姿があった。
初めの頃は足がすくみそうになっていたけれど、ちゃんと躾られていると分かった今では、少しだけだけど恐怖感が薄れたような気がする。とはいえ、いつ襲いかかってくるか分からない、というその恐怖感はやはり持っていないといけないと、調教師のヴィムは言っていた。
真っ白な獅子はドーリス、という名前らしく、普段は大人しく可愛い性格だという。なお、真偽のほどは定かではない。
「あ、アンネにジギスだ。ここに来るのは珍しいね」
ぱっと顔を上げてそう言ったのは、絵描きのマリウスだ。桃色の髪をショートボブに切り揃えた、可愛らしい印象の青年。彼の手元にはスケッチブックがあり、今の今まで絵を描いていたのだと察した。
マリウスがアンネとジギスに気が付くと、同様に、ドーリスに餌を与えていたヴィムも顔を上げる。鮮やかで毛先が跳ねた緑の髪に、左目には眼帯が付けられている。
「確かに、珍しいッスね。どうしたんスか?」
ヴィムとマリウスは同じ村の出身らしく、いつも一緒にいる。というよりも、マリウスがヴィムにべったりしているだけのようだが、仲睦まじいさまは見ていて心がほっこりするし、可愛らしいものだ。
そんな二人も立派な成人済み男性。当然お酒も飲めるし、何ならテレーゼやリーゼよりも強い。特にヴィムは、アタシやジギスに引けを取らないほどの酒豪だ。
二人に用件の旨を伝えると、二人揃って目を輝かせた。
「今日はお酒、たくさん飲んでいいの!? やったー!」
「そんな贅沢していいんスか?」
「いいのよ。皆館に篭りっきりだし、盛大に騒いで気分を入れ替えましょう」
「ずっと黙ってたけど、それ提案したの俺だよな」
流石にツッコミを入れられてしまったけれど、まぁいいじゃないの、と適当にいなしておく。ジギスのツッコミを聞いていないマリウスは顔を綻ばせてながら、ヴィムの隣でぴょんぴょんと跳ねていた。
「ボク、甘いやつ飲みたいな~!」
「オレは何でもいいッス。でも、出来たら熟成されたワインとかがいいな……なんて」
さっきは「贅沢していいの?」なんて聞いていたわりに、ちゃっかり贅沢をするつもりではないか。ニヤニヤと期待した隻眼で見つめられては、首を縦に振るしかない。
「分かったわ。用意しておくわね」
「アンネ、俺は樽でいくぞ!」
「それは飲み過ぎ。ダメよ」
「ちぇっ」
本当に酒のことしか考えていない男である。
ジギスなら樽でも余裕で飲み干してしまいそうだけれど、そんなことを許してしまっては今後もやりかねない。なので、彼に関しては厳しく節制させる必要があるはず。
館のダイニングに向かう途中でもごねていたジギスに、ネチネチと説教を垂れていると、向かいからエルマーが歩いて来た。どうやら一通りの下準備を終えたらしい。
「アンネ、あと一時間ほどで料理が揃います。それと、ヨハンネスにも伝えておきましたよ」
そういえばもう一人の住人、ヨハンネスの姿を見かけなかった。部屋の扉をノックした時にも返事がなかったので、てっきり寝ているのかと思っていたが、今日はエルマーと夕食の準備係だったらしい。どうりで探してもいないはずだ。
「ありがとう、分かったわ。他の皆にも伝えたから、すぐに集まるはずよ。……テレーゼ以外は」
そう付け足して言うと、エルマーはくすくすと笑う。彼もまたテレーゼの性格は知っているからだ。
再度夕食の準備をしに行ったエルマーを見送って、アタシとジギスは地下のワインセラーにワインを取りに向かう。
地下のワインセラーは適切な温度と湿度が保たれていて、基本的にアタシが管理している。酒好きのジギスでも、そういった細やかなことは苦手なんだから仕方がない。
それぞれが要望したもの、好みのものと、皆が飲めそうなものを何本か手に取って、ジギスに運ばせる。勿論、流石に彼一人には任せきれないので、アタシもケースに入れて運んだわ。ふふっ、アタシってば優しいわね。
広いワインセラーで、目当てのワインを探すのにかなり時間がかかってしまった。そして持ち運びもかなりの量になっていたし、長い螺旋階段をゆっくり上ったせいか、それなりに時間も要したみたい。
ダイニングに到着すると、すでに皆集まって準備を手伝っていた。この場にいないのは「行かない」と宣言したテレーゼと、執筆作業中のリーゼ。アタシ達もワインを置いて、手伝うことにする。
数十分後、エルマーとヨハンネスが料理を運んできたタイミングで、執筆作業を終えたらしいリーゼが姿を現した。「手伝えなくてすまないね。でも、タイミングは良かっただろう?」なんて言いながら。思わず笑ってしまったわ。
しかしテレーゼが来る様子はなかった。準備の最中、エルマーが改めて声をかけに行ったそうだが、相変わらず返事は「行かない」の一言だったそう。待っていても仕方ない、とテレーゼを除く住人達で乾杯して、夕食と軽いパーティーは始まったのだった。