第十話 発覚⑤
《sideアンネ》
雨の勢いが弱い。それは、今のアタシ達が置かれている状況下では好機であった。
この館は森の奥、それも崖の上に聳え立っているので、天候が悪い時は村や街へ降りることも出来ない。本当は晴れの日が続いて、地面が固まったくらいに動き出すのがベストなんでしょうけれども……土砂降りの時に動くよりかはマシでしょうね。
事件が起こったことを、街の警備隊に報告しなければならない。最悪でも、近くの村まで行って、状況を伝えてもらうなりしてもらわなくちゃ。軽い検死は出来ても、犯人の確保や死体の処理もままならないわ。
最悪、この館には住めなくなるかもしれないけれど、もともと未練もないわ。ましてや、愛するエルマーも殺されてしまった以上、ここに居座る理由もない。さっさと逃げ出したいくらいだわ。
雨の勢いは弱まっているとはいえ、また強く降り出してしまうかもしれない。その前に行動しなくちゃね……。
テレーゼとマリウスは、少しの間泳がせていても大丈夫でしょう。約束を守り通す確証はないけれど、ヴィムの今後の扱いにも関わってくることは理解しているでしょうし。
リーゼに独自に調査を進められると厄介ね。彼女、好奇心で動くところあるし……。農具が凶器の可能性に気がつかれたら、ドーリスを処分させる口実がなくなってしまうかもしれない。
正直、犯人がヴィムでもそうでなくてもいいけれど、そこだけは何とかしたいわ。そのためにも、早く街に向かわないと。アタシはダイニングで読書をしていたヨハンネスに話しかける。
「ヨハンネス、アタシに着いてきてくれないかしら」
「何処へ行くつもりだ」
「雨の勢いが弱いわ。街か、近くの村に行けるかもしれない」
「ここから逃げる、と?」
「違うわよ。道を確認して、行けそうであれば貴方に助けを求めてきてほしいの。アタシよりも動けるでしょうし、神父様たってのお願いともあれば村の人達も手伝ってくれるでしょう」
アタシだって医者で、そこそこ人脈はある。けれども、聖職者のヨハンネスの方が早く対処してもらえるかもしれない。そんな希望があった。いくら聖職者らしからぬ彼でも、そういう価値のある部分は利用しないとね。
「……村人が助けてくれるかはさておき、お前の案には賛成だ。すぐに準備をしよう」
アタシの思惑に気付いているのかは分からないけれど、ヨハンネスはじとっ、と目を細めている。まぁ、承諾してくれたからよしとしましょう。
コートを着て、アタシとヨハンネスは館を出て、舗装された森の中を進んでいく。ずっと雨が降り続けていたせいで、歩くたびに泥が跳ねて靴が汚れていった。あぁもう、古い靴を出せばよかった。
それよりも腹が立つのは、アタシの先を行くあの男。アタシにはお構いなしで、ずんずんと歩いていく。
「ちょっと、そんな早く歩かないでよ」
「アンネが遅いのだ」
「はぁ~? どう考えても、このアタシに手を差し出すこともせず、ペースも合わせてくれないアンタのほうが悪いに決まってるでしょうが」
「自分はルッツやエルマーのような優しい男ではないのでね」
けれども、一応は立ち止まってくれた。そこで止まるなら、手を差し出してくれてもいいじゃない。もし転んだとしても、この男は手を差し伸べることもしないでしょうね。そういった意味で言えば、ジギスの方がまだ優しいわ。
まぁ、今に始まったことじゃないから、ヨハンネスからのこんな扱いに慣れているといえば慣れているのだけれど。ぬかるみに嵌らないように気を付けながら、ヨハンネスが待っているところまで急ぐ。
ようやく追いついた。そのタイミングで、ヨハンネスは言い放った。
「それに自分は、お前のことが好きではないからな」
「やだわ、本人を前にしてそれを言っちゃうの?」
「言うとも。それが事実なのだからね」
自慢じゃあないけれど、アタシはモテる。モテる……というか、そういう振る舞いが好きで得意なのだと思う。
けれども、ヨハンネスはアタシの誘いに応じたことがない。どころか、対応が辛辣である。アタシは、その理由を知っている。
「……まだ好きなの?」
単に、好きな人がいるのだ。
それも、十年近く片想いしている。
ヨハンネスは「さぁな」と鼻で笑っているが、そう言う時は大体肯定を意味している。やっぱり、まだあの女のことが好きなのね。
「アタシ以上にいい女なんていないでしょうに……そうね、純粋に腹立たしいわ」
本当に腹が立つ。よりによって、ヨハンネスの好きな女が……、
「テレーゼのどこがいいわけ?」
アタシの大嫌いな女だなんて。これじゃあまるで、アタシがテレーゼに負けたみたいじゃない。
「根暗で陰鬱、愛想笑いの一つも出来ない女のどこが、アタシより優れてるわけ?」
そうよ、アタシはテレーゼより美人で明るくて、笑顔を絶やさない存在。実際、アタシのことを褒めてくれる人はたくさんいる。館の住人だってそう。
それなのに、どうしてよりによってあの女なの? まったく理解が及ばないわ。
アタシの疑問に、ヨハンネスは淡々とした様子で言った。
「お前に語る義理はない。だがそうだな、支配欲というものがそそるのだよ」
「はぁ……? 何それ、俺色に染めてやる、ってやつ?」
「はっちゃけた言い方をするとそういうことだ」
「あはっ、気色悪っ」
いつだったか、エルマーも似たようなことを言っていたような気がするけれど、ヨハンネスが言うと背筋が凍りそうだわ。マジっぽいからかしら、こんな感情を向けられているなんて逆にいい気味、って感じもするけれど。
「まぁ、アンタがテレーゼを好きなことは、十年前から変わらないものね。じゃあ、いつになったら俺色に染めてやるわけ?」
「ふむ……考えたこともなかったな。距離感が掴めなくて、なかなか気乗りしなくてな」
「あら、そうだったの」
実は知っていた。
ヨハンネスは十年も前からテレーゼのことを好いているが、それらしい行動を起こしたことも、起こそうとした気配もない。恋愛に奥手、というわけではなさそうなのに、アタシからしたら不思議でならないわ。
……でも、だからこそ利用出来そうよね。
「ねぇ、ヨハンネス」
「何だ」
「今朝、テレーゼと話をしていたの。その時にね、まるで犯人を知っているかのような口振りだったのよ」
「ほう。で、誰なんだ」
「そこは言ってくれなかったのよ」
ヨハンネスは、テレーゼのことが好き。そしてテレーゼは、死んだルッツのことが好き。
テレーゼはそっちの話題になると動揺するし、血色の悪い顔が赤くなることは確認済み。ろくに経験もないんでしょうね、引くわ。
でも、それも使えそう。たとえば、無理矢理犯されたりすれば、あの女は立ち直れなくなる。少なくとも、あの女の弱みを一つ握ることが出来るわ。
ヨハンネスがこのアタシになびかないのは腹が立つけれど、そのおかげでテレーゼを傷付けることが出来るかもしれない。ついでに、犯人の名前を聞き出せる。いいことだらけね。
アタシはヨハンネスに語りかけるように、そして突き落とすかのように言葉を並べる。ちょっと無理矢理感もあるけれど、その気になってくれないと、この男は動こうとしないもの。
「ねぇ、アンタから、テレーゼに聞いてくれないかしら。ついでに、俺色に染めてやりなさいよ。さもないと、あの子の処女が他の野郎に奪われるかもしれないわよ」
「…………」
ヨハンネスは少し考えこむような素振りをとる。即座に却下しない辺り、実はそうとう焦っていたのかもしれないわね。
やがて、ヨハンネスは口を開いた。
「俺色に染めてやる、って……ハマったのか?」
「わりと」
って、そっちかい。
「で、どうするの?」
「お前の提案は甘美なものだが、お前がそれを進めてくる理由が分からんな。テレーゼに何かされたのか」
二つ返事で承諾すればいいものを……。アタシの中に若干の苛立ちが生まれるけれど、ここで焦って返答を急ぐのは望ましくないわね。あくまで、ヨハンネスの意思で行動させないと。
「あら、アンタが知らないはずがないじゃない。あの女は、人の旦那に手を出そうとした。ルッツで遊んでいた時も、ノリ気じゃなかった……どころか、傷の手当てなんかして点数稼ぎしてたわけよ」
本当に、鬱陶しい女ね。そこまでしてルッツに振り向いてほしかったのかしら。ルッツはたしかに、顔はよかったし教養もあっていい男だったけれど、優しいばかりで面白みのない男だった。
まぁ、死んだ人のことなんてどうでもいいけれど。
「よくもまぁ、そこまで彼女を目の敵に出来るな。テレーゼが恋心を寄せていたルッツを横取りした、の間違いだろう」
「チッ」
どうして知っているのよ。その言葉は何とか飲み込めたけれど、代わりに舌打ちが出てきてしまった。これ、肯定したことにならないわよね……まぁ、ヨハンネスに知られても困らないけれど。
「ルッツに手をあげた時点で、アンタもテレーゼも同罪よ」
「それを言うなら、殺されたジギスとエルマーもそうだな」
ヨハンネスの言葉に、アタシは同意も否定もしなかった。事実ではあるけれど、過ぎたことには執着しない主義なのよ、アタシは。代わりに、嘲笑うようにヨハンネスに言ってやる。
「じゃあ、次に死ぬのはアンタかもね」
「いいや、お前だな」
本当にこの男は……。
込み上げてくる苛立ちを飲み込んで、アタシは一度咳払いをした。
「……話を戻しましょう。テレーゼは間違いなく、犯人を知っている。おそらく、その動機もね。それを吐かせてほしいのよ。手段は選ばなくていいわ。暴力なり何なり、アンタの支配欲とやらに従ってやりなさい」
「…………」
ヨハンネスは、まだ悩んでいるらしい。何を悩む必要があるのかしら。アタシへの態度もムカつくけれど、この何を考えているのか分からないところが一番腹立つわ。
「先へ急ごう」
結局、ヨハンネスは答えを出さなかった。でも、そういう手もある、って掲示は出来た。それだけでも、ヨハンネスの中では大きな変化があったに違いない。
今夜にでも、もう一度けしかけてやろうかしら、と考えつつ、先に歩き始めたヨハンネスの後に続いて歩き始める。相変わらず歩くペースを緩めることもないし、手を差し伸べてくれることもなかったけれど、もう期待するのは止しましょう。そう区切りをつけて、アタシ達は森の中を進み続ける。
そして、村へと続く橋の前に到着した瞬間、息を飲んでしまった。
「ヨハンネス……ここに、橋があったのよね……」
確認するように、同じく戸惑っている様子のヨハンネスを横目で見上げる。
「そうだな。犯人はどうやら、自分達を逃がすつもりはないらしい」
橋が架かっていたはずのその場所には、何もなかった。アタシ達の前にあるのは、底が見えない崖。この悪天候の中でも村へ行く唯一の手段が、何者かの手によって消されてしまったのだ。