ある日常 Ⅱ
「緋海は、魔女のことをどう思う?」
地上へ戻るエレベーターの中で、荒井は苦しげに尋ねる。壁にもたれかかる彼女は、前髪が額に張り付いてしまうほどの玉のような汗をかいていた。
「私は、怖いよ」
化粧気のない顔は、そもそも化粧など必要ないだろう。その整った顔が、今にも倒れてしまいそうな白に染まっている。唯一の赤である唇でさえも、下唇は強く噛みしめられて白くなっていた。放っておけば、下唇を噛み切って新たな赤を流してしまいそうだ。
「荒井さんは、魔女を見たことが?」
噛み切る前に口を開かせようと、緋海は尋ねる。
「……あぁ。八年前だからちょうど今のお前と同じぐらいか」
八年前となると、生きている市民のほとんどが第三次魔女戦争の被害者だ。それをあまり知らないとなると、当時がまだ子供だった人間か、過去最速の終戦を迎えたため被害に遭わない場所にいた人間だろう。
「……俺は、見たことはないです」
対する緋海は当時一〇歳で、シオンの住宅区から少し離れた孤児院にいたこともあり魔女を目撃するには距離があった。住宅区の大半も被害を受けたが、中央区を主に魔女が襲っていたため、緋海の暮らしていた孤児院には被害が及ばなかった。
そもそもシオンの被害は、軍人やフェクター隊員たちの死傷のみ。建造物に関しては、全くの被害がなかったのだ。中央区の各区に在る広場に積み上げられた遺体の山、という異常を残して。
「私は見たよ。魔女も、殺し方も、父が死ぬ姿も」
女性ながらも強い言葉遣いと視線、そしてそれすらも霞みかねない実力を持つ彼女でさえ、そのトラウマの前には肩を抱きながら震えていた。か弱い女性という、彼女の隠している本性が表れてしまう。
「彼女が誰かを見ると、血が吹き上がるんだ。シオンを襲った『血の魔女』は、今も恐ろしくて仕方ない」
小隊長まで自力で上り詰めた彼女が、現役でありながらなお恐怖する。数多くの魔獣を叩き伏せてきた彼女でさえも、目撃してしまった魔女のことを考えるとこうも無力な人間に変わってしまう。そんな人間に、大鳳はあの魔女を見せたのだ。
「いくら私が強くなっても、アレに勝てるだけの要素が全く想像できない。得体が知れないの、魔女って連中は」
戦闘中の叱責のような指示や、毅然とした態度で隊員たちの前に立つ彼女から初めて聞くことになった弱音。こんなものを自分が聞かされてもいいものか、と緋海は少し申し訳なさを覚える。
いくら魔獣災害に立ち向かっている立場とはいえ、緋海はまだ一〇代。大人が恐怖する姿があまりに現実離れしていて、どう取り繕えばいいのか分からない。自分の人生がまだまだ短い経験でしかないことを思い知るが、どう足掻いても何も出来ない。
「緋海。お前は、魔女に恐怖するんじゃない。きっと斬れなくなる」
そう言われ、腰に差した漆黒の刀に指が触れていたことに気付く。彼女の恐怖が伝播したように、無意識に触れていたようだ。
「……魔女なんて大丈夫です。俺は強いですから」
彼女の言葉を聞いて、出るべきではない言葉が出てきてしまった。気休めにすらならない夢物語を口にしてしまったのは、魔女を見たことがない、魔女戦争を目の当たりにすることのなかった、『知らない』という強みのせいだろうか。
緋海の戯言に、先程までの弱い女性であった荒井は形を潜め、普段の気丈な彼女へ戻って嘲笑してみせた。普段の彼女になったのを見ていたかのように、エレベーターが地上へ到着した。ドアが開いて、フェクター本部のロビーが広がる。たった一〇数分の非現実を見た後で自分たちの日常風景を見ると、それが現実ではないように感じる。一瞬の浮世離れとでも言うべきか。
二人がほとんど同時に歩き出すと、詰まっていた互いの息がようやく深く吐き出された。重なった嘆息に、つい一緒に吹き出してしまう。
「いやなに、すまないな、あんな姿見せて」
「いえ。珍しいものが見れたので、うちの連中に自慢しておきます」
緋海の珍しい冗談に、荒井はじっと睨みつけて圧をかける。だがすぐに、先程の自身の姿に対して気を遣っているのだと気付いて、すぐに睨むのをやめた。同じ小隊長ではあるが、そもそも彼は年下の人間だ。そんな相手から気を遣われたとあれば、これ以上の醜態を晒すわけにはいかない。
「それより緋海。いい加減着替えてきたらどうだ?」
言われてから、今まで自分が制服のままだったことを思い出した。卒業式を終えて帰っている途中での出動となっただけに、あの隊員たちに囲まれていた時はとても浮いていたことだろう。そのまま隊員たちに用意されている宿舎へ帰ろうと考えてから、行くべき場所を思い出す。
「着替えたいんですけど、ちょっと寄る所があるので」
彼の出身を知っている荒井は、すぐにその場所に思い至り、なるほどと頷いてみせた。
「あまり遅くならんようにな。私はいいが、他の小隊長がうるさいぞ」
設けられてもいないのに、社会性を盾に活動する時間を考慮しろ、と注意してくるやつがいることを考えると不快感が表情に出てきてしまった。
「ま、そんな遅くならないんで大丈夫ですよ」