第2話 最後の楽園
しずしずと清流が流れてゆく。
僅かに森の魔力が宿っているのか、川面は翡翠色の光を跳ねていた。ノーラは水筒で川の水を組み上げると、なるべく野花を踏まないように歩いていた。
この幻獣の森の木々や花々に至るまで、殆どが希少種だと言われている。ノーラが今避けたその花も、好事家にとっては垂涎モノなのだとか。
故にこの禁猟区には度々、密猟者が訪れる。
ここはカーヴァンズ大陸の東。多くの国境に隣接はするものの、現在は山岳国家マグメイルの統治下にある広大な太古の森『カルラの樹海』。
かつて大地に繁栄と衰退をもたらした神鳥カルラの最期の地とされるこの場所は、多くの幻獣たちが住まう楽園の一つである。
幻獣とは、端的に言えば超越種と言って差し支えない。
わかりやすく言えばドラゴンであったり、乙女の前にしか姿を現さないユニコーンであったり。ダンの元の世界では伝説となったその生き物たちは、この世界では確かに存在するのだ。
「そのおじいちゃん、落ち着いた?」
ノーラがそろりそろりと近づくと、アースドラゴンを撫でていたダンがゆっくりと頷いた。
「さっすが同族。心得ているのね」
「私はただのトカゲだ。しかし彼は私のことを救世主だか何かと言っている。困ったものだ」
「救世主じゃないの。現にこうやって不埒者をやっつけて、幻獣たちを救っているし」
ダンは水筒を受け取ると、アースドラゴンの口をぺしぺしと叩く。やがてアースドラゴンの口が少しだけ開くと、ダンはそこへ水を流し込んだ。
『生き返るようだ』
響くような声が聞こえてきた。アースドラゴンの声だろう。幻獣は人語を解する種も多くいる。
「森の老人よ。今から背の銛を抜く。痛いが我慢できるな?」
『やってくれ翠の勇者よ。これで死んでは死にきれん』
「血が多く出る。気を張るのだ」
ダンがアースドラゴンの背に乗る。手を伸ばしノーラを引き上げると、深々と刺さった龍狩りのハープーンへ手をかけた。
「いつでもいいよ」
「すぐに済まそう。いくぞ!」
ダンは握る手にあらん限りの力を込める。めきめきめき、とハープーンの返しが肉を引き裂く。アースドラゴンは悲鳴を上げていたが、ノーラがその間に治癒魔法を唱え続ける。
ハープーンの刃は禍々しいものだった。獲物の肉を傷つけ、引き裂き、そして蝕むだけに作られたもの。ヒトの中にある劣悪な嗜虐性に、鉄の体を与えたならば、きっとこうなるのだろうとダンは思った。
「ノーラ」
「もうすぐ」
ノーラの呪文が結びに入る。わずかな間を置いて、彼女の両腕に魔法陣が構築される。くるくると回る魔法陣はひとりでに彼女の手を離れると、アースドラゴンの傷口にペタリと張り付いた。
するとどうだろう。どくどくと、痛々しく流れていた龍の血は時間が逆巻きするように戻ってゆく。みるみるうちに傷は治り、跡さえ残らなかった。
「これで大丈夫」
『おお、おお……なんと温かい。感謝するぞ森の美しき人。その御業、まさしく古代エルフのもの。若き身ながら、魔に敬虔であるとは』
足元が振動した。アースドラゴンが歓喜の雄叫びをあげようとしているようだ。ダンはアースドラゴンの額に優しく触れて「待った」をかける。
「森の老人。その声は身体に障る。今は安静にしてくれ」
『翠の勇者がそう言うなら、そうしよう。心から感謝する』
「よかったよかった。じゃあねおじいちゃん」
ノーラが優しく患部を撫でると、ひょいと降りて伸びをする。ダンも傷ついたアースドラゴンの傷に障らないように静かに降りて、テキパキと荷物をまとめた。
「このハープーンはどうする?」
「持ち帰って工房に持っていきましょう。溶かして再利用すればまだ使えるわ」
「しっかりしてるな」
『……すまぬ美しき人。それに翠の勇者よ。その銛は我が貰っておきたい』
珍しいことではなかった。龍種とは元来、宝を護る存在でもある。宝石や、時にはこんなものまでを収集するというのはダンも聞いていた。
「だが、これは貴方を貫いた銛だ」
『我にとっては、勇者に引き抜かれた誉でもある。長寿種は思い出に貪欲なのだ』
ノーラを見ると呆れたとばかりに肩をすくめていたが、仕方ないと頷いた。
「それではここに置いておく。森のご老人、達者で」
『ありがたい。生涯の宝としよう。勇者に幸多からんことを。神鳥カルラの雄風があらんことを』
そう言うとアースドラゴンはすぐに眠りについたようで、岩のように動かなくなった。
「勇者だってよ、ダン」
「ただのトカゲだ。龍種は皆、大袈裟に言うから恥ずかしい」
「そうかな?」
「そうさ。人殺しが勇者であるものかよ」
「いいじゃない。誰もやらない事を黙々とやる。ステキだと思うよ」
「それは君に捧げる言葉だ。私はただの人殺し……あいた!」
ぎゅむ、と。ノーラがダンの尻尾を踏んづけた。
「それは反則だと言っただろう」
「いい加減それやめてよ。ダンはよくやってる!」
「だが」
「……これは法律で決められた立派な仕事よ。堂々としてよ。ナメられるでしょ!」
不意に。
その面影が、あの上官に重なる。
『馬鹿者。屍山血河の上に立つこの世で今更、人殺しも人殺さないもありゃしないだろう。敵の額に弾をねじ込めば、それだけ貴様は英雄なのだ。私も、そして部下もな』
「解ってる? おーい、ダン?」
ハッとして視界が戻る。あの赤く焼けた空の下、黒煙と悲鳴がそこらじゅうで上がる砂塵の都市から、宝石を散りばめたように美しい緑の森へと。
ノーラはぴょんぴょんと飛び跳ねて、金の髪を揺らしている。時々仕草も幼い一六〇センチ半ばほどのエルフの上司は、本当に自分より長生きしているのかわからない。
「ダン? どうしたの? もしかして凄く痛かった?」
「いや。いい気付けになった。ありがとうノーラ。君に言われると救われる」
ご機嫌取りではない。ダンの本心だった。
「ま、まぁわかってるならいいのよ? ほ、ほら、本部に報告しなきゃ!」
途端にノーラの顔が赤くなる。それを悟られないようにか、彼女は振り向いて顔を隠し、モニモニと頬を揉んでいた。
そんな彼女の心の機微をダンは当然理解しているが、あえて口に出さないでいる。ダンにとってノーラは命の恩人であり、この世界に生きるための繋がりであり、何より仕事の相棒だったからだ。
誰であろうとも、それが美の女神であろうとも、側に立つ相棒へ色恋沙汰を挟んではいけない。ダンが昔から徹している、自分への掟だった。
ノーラはたしかに美女で、ストイックなダンでさえクラッとくる事もある。しかし年齢と経験の割には幼く見えるので、ダンは恋愛目線より保護者目線でノーラを見る方が優っていた。
ノーラはパンパンと頬を叩くと、急にふふんと得意げな顔になる。
「ダン、なんか今日は気分がいいみたい。お酒おごってあげる」
「それは楽しみだ」
どうやら機嫌を直してくれたらしい。今度はもう少しポジティブにいかなければと、ダンは反省していた。