髪を梳く温かい指先と冷めたジンジャーレモネード
『2LDK二重奏』(https://ncode.syosetu.com/n5580gt/)のスピンオフというより今作が本編です。一年前のエピソードを二人中心に書いてみました。
『カメラ一台のロマンス』第五弾です!
銘尾友朗さま主催『冬の煌めき企画』参加作品です。
あとがきにキャラ紹介あります。
水曜の十九時。ナレーションの収録が終わり、いつも通りスタッフに「お疲れ様でした」と挨拶してスタジオを出ると、冷たい風に驚く。この時期になると肌寒いどころではない。私はコートのボタンを一つ閉めて襟で首元を覆った。
どんよりとした気持ちを抱えたまま、駅まで俯いて歩く。よくこのテンションでバラエティ番組のナレーションが出来たものだ。あたし偉い。ただリテイクがいつもより多かったのは、昨日の出来事に少なくともショックがあるのか。
そんなことを考えて歩いていると、駅が見える。そして、ICカードを出そうとしたところで見知った人影を見つけた。見知った、というかほぼ毎日顔を合わせる男だけど。
小走りで男に近づいて「やあ、おかえり」というと同時に、口元を覆う不織布から零れた息が眼鏡を曇らせる。曇りが晴れる前に「ああ、ムギ」と短く返ってきた。
「もう終わり?」
彼が聞いてきたので「うん」と返した。それきり二人とも黙って、ホームへの階段を上がった。
彼――クマとは高校を卒業してから七年ぶりに再会して、そこからたまに会って食事をするようになった。その一年後、私が実家から突然引っ越しを迫られていたところに彼がルームシェアを申し出た。
『麦田』
『なに? 熊切』
『俺と付き合いあって、俺のことそれなりにわかってるなら、俺が突然ぶっ飛んだこと言うってこともわかってるよな?』
『ん? うん。え、なになに??』
『俺と一緒に住まない?』
こうして私たちのルームシェアが始まった。
生活リズムも性格も違うけど、金銭感覚や食の嗜好が似ていることと、お互い波長が合っていることもあって、なんだかんだ四年以上も同居生活が続いている。クマは料理と適度な節約が上手いから、私の代わりに料理と家計の管理を一手に受けてくれている。
そして、クマはあんまり笑わないし、喋らない。でも、高校の弓道部時代からそれを気まずいと思ったことはなかった。会話の割合がちょうどいいのか、クマが聞き役に回ってくれるからかは分からないけど。
かといって、クマがわかりにくい男なのかと言われたらそうでもない。感情やストレスが動作に出るから何があったのかは何となく感じ取れる。今は眉がぺしょりと下がって、溜息のように呼吸が深い。そして、
「どうした? ムギ」
「クマこそ」
心配の矛先を防ぐ為に、自分より相手を気に掛ける。っていうか私も顔に出てた? やだなあ。
厚着していても鳥肌が立つくらい寒いホームで、私はクマを落ち込んでいる原因を察した。私と同じ理由かも知れない。
「クマ、もしかしてあたしと同じ?」
「後で聞いて。今出したらヤバい」
彼が冷気を塞ぐように、首元のネックウォーマーを整えた。平気そうに見えて切羽詰まっているようなので「わかった」と言って踏み込まないようにした。
それからはマンションに着くまで、ぽつぽつと日常会話だけしていた。ネットスーパーの受け取り時間を確認して、夕飯は高カロリーなものをリクエストして、インターネットテレビで見ていたアニメをどこまで見たのかを話して。
「ただいま」
「ただいまー」
玄関で靴を揃えて部屋に上がると、クマはキッチンで、私は洗面所で手洗いとうがいをした。
私がコートを脱いで、リビングでお気に入りのビーズクッションに埋もれていると、クマも上半身の装備を自室に投げてキッチンに戻ってきた。勢いよく冷蔵庫を開けて、私のリクエストが叶いそうな食材を出していく。いつも着けているグレーのエプロンが無いあたり、奴は相当余裕がないらしい。
いつもより乱暴な調理音を聞きながら、昨日送られてきたメッセージを眺める。吹き出しの中に打たれた最後の言葉は、私の胸に靄を作っていく。
「ムギ」
私を呼ぶ、ぶっきらぼうだけど柔らかいテノールを聞いた。
「ああ、うん」
食欲をそそる辛い匂いがする。二人で選んだダイニングテーブルに並んでいたのは、玉ねぎとわかめの味噌汁、ほうれん草とにんじんのナムル、そしてメインは豚バラ肉をたくさん使った豚キムチ丼だった。豚キムチ丼に関しては私の方が盛りがいい。
「いただきます」
「いただきます」
二人で同時に箸を取り、重く溜息。深く息を吸って、
「「あーーーーー!!! バッカみてえ!!!!」」
二人同時に叫んだ。
がたりと椅子に座り直す音が響いた。
「もーーーホンッッットにさあ! 何が『俺より彼を取るんだ』だよクッソムカつくーーー!!! お前が告白してきたとき言ったろうが!!!」
「俺もだよ! 『私といるときも麦田さんのこと考えてるじゃない』って! 生活する場所が一緒なんだから気にかけて当然だろ!?」
「ホントだよ! 嫌なら最初から『友達を大切にしてる麦田さんが好きなんです』なんて言ってくんな!!!」
「俺らバカにされてるよ!!!」
「ホントだよ! そうやって言えばOKすると思ってんだよ!!!」
食べ物を口に入れて、飲み込んで、フラれたことをぎゃあぎゃあと盛大に愚痴る大人ふたり。家の中で良かった。外でこんなことやってたら白い目で見られる。
昨日、私とクマは恋人にフラれた。
私は友人として付き合いがあった後輩と半年間付き合っていた。お芝居が大好きで、誰からも愛されて、笑顔が似合う三つ年下のイケメン。彼は『常に自分を優先しろ』とわがままを言ったわけじゃない。私の生活を尊重してくれる優しい子だったけど、無理をさせていたのかも知れない。ただ、最初に忠告しておいたことを引き合いに出されて、別れを切り出されたことは納得できなかった。
クマが付き合っていたのは、会社の別部署に所属している若い女の子だった。一度だけ顔を見たことがあるけど、ショートカットと眼鏡が似合う爽やかな美人で、おっとりというよりサバサバした雰囲気だった。クマも私と同じ理由でフラれて、それでも、彼女の全てを否定しているわけじゃないことも、私と一緒だった。
元恋人への不満を吐き出しきった頃には、食器はもう空になっていた。
「はー! ごちそうさま、クマ! 美味しかった」
「味分かってないだろお前」
「いやいや、ちゃんと味わってたって」
「嘘つけ。お前ニシキヘビみたいだった」
「ニシキヘビ!? 丸飲み?」
「ふふふっ! そう」
くつくつと笑うクマは、一緒に生活していてもなかなか見ない。私が「洗うね」と食器を下げながら言うと、「おう頼むわ」と穏やかな声が返ってきた。
洗い物をしながら、スイッチを入れた電気ポットがお湯を沸かす音を聞いていた。ポコポコと水が温度を上げるなか、冷水を使って洗い物をしている私の手は冷えていく。クマはリビングのビーズクッションに身体を預けてアニメを見ている。
クマはアニメが好きだ。家にいる半日は合計しても数分しか喋らないくせに、アニメを見ている時は声帯を普段の五割増しで機能させる。
今はディストピア世界に立ち向かうレジスタンスの戦いを描いた作品にハマっているらしく、シリアスな作品であっても、登場人物の行動にツッコミを入れたりもしている。そして時々、「あ」とか「え?」とか感情が判別できない声を出す。
「え? なんで?」
唐突に疑問の声が聞こえて、視線をリビングに移す。「なにがあ?」と聞いてみても、声の主はテレビにしか視線を向けていない。それでも返事は返ってきた。
「いや、副隊長が犠牲になったけど、誰か一人子ども抱っこしてればシェルター入れただろって思って」
「いや、キャラ達がぎゅうぎゅうになってるのビジュアル的に良くないでしょうよ」
「いや確かにそうだけど、人命とビジュアルどっち取るよ?」
「アニメだったらビジュアルだよ」
というしょうもない会話が私たちの間で週に三回はある。
レモン汁と蜂蜜を大さじ二杯、生姜を小さじ一杯。マグカップに入れた黄金比にお湯を注げば、レモネードが完成した。
画面の中のレジスタンスが悲しみに打ちひしがれているのを見ながら、ローテーブルにマグカップを二つ置く。容量が大きくて、ころりと丸いフォルムをした色違いのこれらは、私が雑貨店で一目惚れして買ったものだ。
「ありがとう」
「うん」
外側がエバーグリーンに塗られたマグカップを取って、クマがぶっきらぼうに礼を言った。画面の向こうの青年たちが悲しみを乗り越える姿を観ながら飲む甘い黄色は、想定内の甘酸っぱい味がする。
あたしさ、どこで間違えたと思う?
ひとりごとのように溢した私の声に「何?」と柔らかいテノールが返ってきた。
「いい子だったんだよ。あたしに勿体ないくらい。どこかで『あなたが一番大事だよ』って言って、あの子を包み込むような行動をしてれば、こんな形にはなってなかったかな?」
クマは「さあ」とこぼして、マグカップに口をつけた。
「ただ、ムギは自分に嘘吐けないから」
「そっか。どのみち結婚とか、長い恋愛は無かったかもね」
ビスケット色をしたマグカップの底を撫でると、その丸さがささくれだった心を少し宥めた。
私は、納得のいく別れ方じゃなかったとはいえ、彼に申し訳ないことをしたと後悔と罪悪感が少なからずある。でも、クマはどうだろう。
「クマは、あの子と別れて、なんか気持ちに変化とかあった?」
「いや、なんで?」
「あんた来るもの拒まないから」
「ああ」
アニメはエンディングが流れている。まあストリーミングだからまた次の話やるんだけど。リモコンで音を消して、マグカップを置いたクマが大きく息を吐いた。
「うん、俺が悪かったんだよ」
「あの子を好きじゃなかった?」
「違う」
クマが間を置いて、「うん」と自分の言葉を整理するように言った。
「トモカは高嶺の花で、魅力的なところはいっぱいあったよ。美人で優秀だけど、それを鼻にかけないし、気持ちのいい性格だから、トモカを狙ってたやつは他にもいっぱいいた」
「うん……」
「でも俺が好きになれたのは、あの子の体だけだったんだよ」
「真剣に言ってるトコ悪いけど、言ってること普通にクソ」
「自覚はあるから許して」
「ああ、おっけー」
クマは無口でぶっきらぼうだけど、嫌なことや自分が許せないことはハッキリと主張するし、助けを求めたら絶対に手を差し伸べる。特別ルックスがいいわけでもないし、笑いもしない。面白い話もしないけど、そんな言動をとる。それと、弓道の大会では結果を必ず出していた。だから高校の部活では後輩に遠くから憧れられて、他校にもファンがいた。
その性格は社会人になってからも変わっていないようで、仕事も出来るからアプローチも少なくない。だってバレンタイン前後に高級なチョコレートやらお酒やらを大きい紙袋二つ分持って帰ってきといて「モテない」はないだろ。
さらにこいつは“来る者は拒まず”だから、夜中や朝に甘いシャンプーの匂いをさせて帰ってきたりもあった。
こいつが付き合っていた女の子は、こいつのベールを剥がしたかった女の一人なんだろう。
「クマ、もっかい聞く」
「……なに?」
「クマ、あの子のこと好きだった?」
ローテーブルに置いたレモネードには、おろした生姜が底で沈んでいる。クマはビーズクッションに座り直して、少し考えるように間を置いた。
「うん……隣で笑った顔とか、俺にくっついて蕩けた顔するの見て……嬉しい気持ちは、」
あった、けど。
迷っているようだった。『好き』だという気持ちがあった自覚も、フラれてショックを受けた自覚もない。普段は声を張らない男が、さっきまで納得できずに私と叫んでいたのに。
この生活が手放せないくせに、恋愛は別でしたい。結局は周囲に贅沢だと言われるんだ。私もクマも。
マグカップを揺らして中身を軽く撹拌してから飲むと、生姜の香りを強く感じる。
「なんかさ、」
「なに?」
「しばらく男はいいや」
「俺もいい」
考えるの疲れた、と体を伸ばすクマの後ろ髪に触れる。硬くて黒い髪は、少しチクチクした。「なんかこちょばしいわ」というクマに「ごめん」と返すけど、手を放す気はない。
「でもクマちゃんは恋愛はなくても抱きはしそう」
「そりゃ仕事のことばっかでも疲れるし、女の一人や二人は抱くよ」
「まあ間違いないわ」
本心をそのまま話すクマが可笑しくて、ビーズクッションの上で体を震わせて笑う。
曖昧で安定した生活が、どうしようもなくあったかくて、やわらかい。
そのあと、アニメも甘い黄色も、消化されることはなかった。
ありがとうございました。
キャラ紹介
麦田繭里…32歳。ナレーションやゲームを中心に活動するフリーランスの売れっ子声優。付き合っていた後輩声優にフラれた。端正な顔立ちで、いわゆる『美人すぎるナレーター』。視力が悪く、眼鏡をしている。クールなルックスとは裏腹に天然で基本テンションは高い。冗談かと思うほど大量に食う。社交的でおしゃべり好きなので高校時代からモテ期が止まらない。
熊切隆亮…32歳。ホワイト企業で社内SEをしているサラリーマン。付き合っていた若い同僚にフラれた。NOと言える無口。中学時代、好きな女の子に「笑い方怖い」と言われてから笑顔が苦手。でもたまに自然に笑える。10代の頃は太っていたが、現在は15kg痩せてマッチョ体型。営業部の華やかなイケメン同僚に隠れてわからないがリアコ製造機。