ゼウス・ラズ
ヘルメス・サイラスは地面を軽く蹴ると、履いていた翼の靴で、はるか上空に浮かぶオリュンポスへと飛ぶように駆け上がって行った。
ほぼ中央に位置するゼウス神殿まで来ると、その勢いのまま裏手から最上階へ一気に向かう。
バチバチバチッ
サイラスが最上階の窓に足を掛けようとした瞬間、窓枠をぐるんと電流が走り、火花を散らした。
「あっ…ぶな~!!」
間一髪、体を翻し通り抜けると、部屋の真ん中に置かれた一人掛けの大きなソファーに頬杖をついて、つまらなそうに座っている青年を睨み付けた。
「服が焦げたじゃないか!」
目にかかる長めの前髪に刈り込んだ襟足。鈍い金髪に、金の眼をした青年は、柊の葉の装飾を施された金の輪っかをぼうっと見つめながら、抑揚のない声で呟くように問いかける。
「…道草を食うのは、楽しかったかい?」
「ええ、とてもね!」
「…それは何より」
この部屋の主ゼウス・ラズは輪っかをぽすんと頭に乗せると、うとうとと眠そうな目を向けて口元を綻ばせた。
コンコン…
「失礼致します」
その時、ドアがノックされ、夜空色の肩までの髪に、金の瞳をくりくりと輝かせたお腹の大きな女性が入室してきた。
「ラズ様、お菓子を焼いてきたのでお茶に……
まぁ!お兄様お帰りなさいませ!」
入ってきたのはゼウスの妻であり、ヘルメスの妹。『最高神の妻』の称号を持つマリィ・マイアだった。
髪や目の色は同じでも、中性的な美しさをしたサイラスと違い童顔で可愛らしい顔立ちをしていた。
マリィのお腹はパンパンに膨らんでいて、いつお産が始まってもおかしくなさそうだ。
「良かった、やっとお戻りになられたのね!
ラズ様ったら、お兄様がお止めしてくれないとちっとも休憩なさらないのだもの。
倒れてしまわれるんじゃないかと、私、心配で心配で…」
サイラスの姿を認めると、捲し立てるように訴え始めたマリィの肩を、いつの間にか近くにきていたラズがそっと止めた。
「…サイラスは仕事で出掛けていたんだ。…その仕事を頼んだのも、私だよ」
後ろから抱き込むように、焼き菓子のかごを持つマリィの両手を包む。
「ラズ様」
マリィは嬉しそうに頬を染めて、肩越しにラズを見上げた。
「…またこんな事をして。…何かあったらどうするんだい?」
「あら、大丈夫よ。侍女や料理番の者達も一緒だもの」
「…それでもね。火を使ったりするだろう?……キミに万一の事があったら、………私は悲しいよ?」
そう言われてしまうとマリィには反論のしようがない。
「も~~~ぅ、ラズ様ったら!
お兄様の前でやめてくださいっっ!
お菓子、お二人で召し上がってくださいね」
マリィは嬉しいやら恥ずかしいやら、頬を真っ赤に染めるとパタパタ走り去ってしまった。
ラズは彼女の出ていった扉を虚ろに見つめると、小さく息を吐いた。
「まったく忙しない。いつになったら『最高神の妻』という自覚ができるやら」
サイラスはそう言って、困ったように笑う。
代々、ゼウスの妻に選出されてきたズュギア一族は長らく女児に恵まれておらず、ラズの花嫁候補はなかなか決まらなかった。
その為、幼い頃からラズに恋心を抱いていた妹のマリィをサイラスがゴリ推ししたのだ。
「…良い。お前がフォローしてくれるだろう?」
ラズは昔から色恋に興味がない子どもだった。そんな事よりも親友のサイラスとオリュンポス中を駆け回り、木登りや釣りをしたりする方がが好きで、余程有意義だと思っていた。イタズラをして怒った大人に追いかけ回されるのも楽しくてたまらなかった。
けれど、ゼウスの直系として子孫は残さねばならない身。
理解はしていたが、どんなに美しい娘をあてがわれても興味は持てなかった。
───だったら親友の選んだ子でいい。
ラズはサイラスが妹のマリィを女として愛していることにも気付いていた…
サイラスに菓子のかごをぐいと押し付け、先程とは別の応接用のソファーへどさりと崩れるように座る。
サイラスは手際よくお茶を淹れてラズの目の前に差し出すと、ラズはとろんと眠そうな目を向けて受け取った。
ティーカップからはフィバーフューの香りがする。頭痛持ちのラズの為に、いつもサイラスが淹れてくれるハーブティーだ。
香りを肺一杯に吸い込んでから一口口に含んだ。
「……ふぅ。落ち着く」
「苦いけどね」
くすくすとイタズラっぽく笑っているが、最近はかなり飲みやすく淹れてくれるようになっている。
「…気分の問題よ」
ラズはふふっと意味ありげに微笑むと、突如目付きを鋭くし雰囲気をガラリと変えた。
ラズが仕事モードに入ったのを確認すると、サイラスも対面のソファーに座る。
「ヘリコン山中にはぐれの巨人属が一人住み着いているようです。旅人が襲われて困っていると…」
「キュクロープスなら保護。そうでなければ討伐。アフロディテを向かわせろ」
「次。テーバイにサテュロスが増え過ぎて悪さをしているようです。」
「イタズラが過ぎる問題児共か。統率する者が隠れて数百年たつからな。仕方ない、アポロンに『一任する』と伝えろ」
奴らの崇拝するディオニュソスがいてくれれば言うことを聞くのだが、先代が亡くなって400年余り。
「酒神の血は耐えてしまったのだろうか」
「どうでしょう?地上に住み着く事で寿命は縮み、人間と交わって神血もどんどん薄まってましたからね」
サイラスは部屋の片隅に置かれたディオニュソスの杖をチラリと見た。
ディオニュソスの血を濃く引き、神力を持つものが現れると、この杖は白蛇となり主の元へ向かうのだが…
もう400年ここにある。
「考えてもディオニュソスは生まれません。次いきますよ?」
サイラスは、その後もポンポンと報告を続けていった。
「最後にですが…」
サイラスが勿体ぶって言葉を切った。
「海神ポセイドンはレイエス嬢を跡継ぎに指名しました。こちらが公示です」
向かい側に座ったラズに、フワッと文書を飛ばす。
───これを最初に報告すべきではないか?
確認すると、確かにポセイドン本人の文字でそう書かれていた。
長男のカイエウスは体が弱く、物静かな青年。対して妹のレイエスは聡明で、海四柱とやりあえる腕前の槍術の使い手。カリスマ的な魅力も持ち合わせており人望も厚い。
「ふむ…ハデスとデメテルには?」
「先に届けてきました」
「そうか。気が利くな」
ポセイドンの住む海底神殿から地上を通り、天空にあるオリュンポスでゼウスに報告してから、また地上と地下冥界へ…
というのは、いくら風よりも早く走れる翼の靴を履いたヘルメスでも大変だ。
陸海空を股にかけたフルマラソンはごめん被りたい。
「アレース遊撃隊はどこにいる?」
「そちらにも報告済み。継承式にはちゃんと出席してくれるそうです」
戦神アレス率いる少数精鋭アレース遊撃隊は、個々にずば抜けた戦闘力を持つ戦闘狂集団。
ならず者の集まりで、戦を求めて勝手気ままに地上を流離っている。
「よく見付けられたな」
「これでも伝令神だからね。方法はいくらでも。
これ見せて固まっちゃったアレスの顔、ラズにも見せてやりたかったよ!」
アレスはレイエスを気に入っていた。
正式にポセイドンを襲名したら海底神殿に住まい、必要最低限の公式行事以外で顔を会わせる機会は、ほぼなくなるだろう。
「お前というヤツは…」
ラズは額に手をあてた。
「正式な通達の前に、風の噂とかで知っちゃったら可哀想でしょ?」
ニコニコ笑顔で爆弾を落とす、己れの腹心の顔なら容易に想像できてしまった…
「……明るい報告はないのか?」
思わずぽそりと呟くと、サイラスがピタリと止まった。
口元は弧を描いているが、目が全く笑えていない。
「えー?海神の代替わりって、おめでたい話題だと思うけど。
ラズだって、もうすぐ赤ちゃん生まれるでしょ?」
サイラスは口角だけを必死に持ち上げ、笑おうともがいている。
震えるのをごまかすように、マリィの置いていったかごを抱えて菓子を頬張っていく。
「ラズだって待ち遠しいでしょ?
最高神の世継ぎが生まれるんだ!
これ以上明るい話題があるか!?」
据わった目で訴える様は、痛々しい程必死で、明るいはずの話題も明るく聞こえない…
口に入れた菓子を咀嚼しようと、懸命に口を動かしているが飲み込めない。
飲み込めないまま、次々と口に詰め込んでいって喉を詰まらせた。
「ぐっ、ゲホゲホッ・・・カハッ」
ラズはサイラスの背中を叩いて菓子を吐き出させると、水差しから水を汲んでやった。
「…何をしているんだ、バカモノ。取らないから、ゆっくり食べろ」
「すみません…」
興奮したかと思えば、突然シュンと塞ぎこんでしまった。
マリィの話題はサイラスを不安定にする。
───そんなにマリィが好きか?
わかっているから聞かない。
きっと聞いたら、この男は壊れてしまうのだろう。
マリィの作った菓子は、サイラスがいつも一人で抱えて食べてしまう。
甘い物は好まないから、助かるけど。
自らの想いに蓋をして、マリィの想いを私に押し付けてきた。
結婚させてしまえば諦めがつくと思ったか?
女なんて煩わしいとしか思えないし、恋愛なんて更に興味がない。
それでも跡継ぎは必要だったからマリィを受け入れる事にした。
ヘタレなサイラスは妹に『愛してる』なんて言えないだろう。
どこぞの馬の骨にかっさらわれでもしたら、狂ってしまいそうな程に、サイラスは必死だった。
本人も自覚があるから、私に託してきたのだろう。
……いや。私の妻にしておけば、間接的にずっと近くに置いておけるからか?
「…くくく」
互いに利用しあう関係に、自嘲する。
それから私はサイラスの変わりに愛を囁いてやる事にした。
マリィは何も知らず、私に愛されていると思っている。平和なものだ…
───けど、やっぱり少しずつ狂ってきているのだろうな。
「なぁ、サイラス」
苦しそうに肩で息をするサイラスの頭上から、できるだけ平淡に声をかける。
「もうすぐ私とマリィの子が生まれる」
サイラスは私が何を言い出すのか、不思議そうに、泣き出しそうに黙って見つめてきた。
「マリィの腹から、波長の違う神力を2つ感じる。よく気を付けないとわからない程度の僅かなブレだが…
おそらく双子が生まれるだろう」
「双子?」
これを言ったら彼女は怒るだろう。
宥めるのは大変だろうが…
「…一人お前にやろう」
「ほ……ん…とに?………いい…のか?」
サイラスは目を大きく見開いて、掠れた声を絞り出す。
「…ああ。好きな方を選ぶといい」
───それでお前が正気を保てるなら。
オリュンポス十二神に名を連ねるヘルメスにも跡継ぎは必要だ。
サイラスは私と違って、子を成すのは無理だろう。
マリィはヘルメスの血筋だし、丁度いい。
それから10日程たった頃、ヘラ・マリィが双子の男児を出産した。
二人とも神族の証である透き通るようなキレイな金眼を持ち、十二神として申し分のない子達だった。
サイラスは双子の内、兄のリューを選んだ。
ヘルメス一族の特徴である尖耳をしていたからなのは間違いないが、よりマリィに似ている方を選んだのかは定かでない。