ヘルメス・サイラス
山々に囲まれたのどかな牧草地で、自由に歩き回り草を食む羊の群れ。
やっと乳離れした子羊らはじゃれあって遊ぶのに忙しい。
丁度お昼時なので、羊飼い達は木陰で昼飯を広げ四方山話に花を咲かせていた。
「ニコスはまた捻挫らしいぞ」
「療養所の娘が目当てだろ?」
「ああ、あの子か。確かに顔は可愛いけど胸がなぁ~。オレは雑貨屋のエレネの方が…」
「バカだな、お前なんか相手にされるかよ!」
どんどん下世話な方へ盛り上がっていく年若い二人の会話を、サイラスは吊り目がちな金の瞳を涼しげに細めて静かに聞いていた。
夜空のように艶めく長い髪を緩く縛り、中性的な美しい顔立ちをしたサイラスは木に寄りかかって干し肉を噛っているだけなのにどこか優美さが漂って見える。
同じ羊飼いの様相をしていても、他の二人に比べると服も靴も杖もやけに上等で、明らかに不自然なのだが当たり前のようにそこに居た。
羊の毛刈りはいつ頃にしようか
大工の親方に孫が生まれた
来週は町でバザーがあるらしい
とりとめもなく移り変わってゆく話題に微笑を浮かべ、耳を傾ける。
───あまり益になりそうな情報はない……か。
「なぁ、サイは気になる子とかいないのか?」
「…げふっ!!」
たいした情報がないと判断すると、途端に飽きてしまったサイラス。
小さくなった干し肉の欠片をぱくりと口に放り込んだところで、突然話を振られて盛大にむせてしまった。
「ゲホゲホゲホッ………ぐぅ……」
「おっ?誰かいるんだな!」
「誰、誰!?」
その様子に二人が目を輝かせて詰め寄ってくる。
「………ふふふ…」
サイラスは手の甲で口を拭いながら眉尻を下げて力なく笑うと、雲1つなく晴れ渡る空を仰ぎ見た。
───来た。
辺りが急に陰りだし、牧草地全体が巨大な影に覆われていく。
「俺はね。今も昔もこれからも………だけだよ」
「……?誰だ?町の子か?」
「バカ、そりゃあ村長んとこの婆さん犬だ!」
立ち上がってズボンの埃を叩き居住まいを正すと、二人の間をゆったりとした足取りで通り抜ける。
空を見上げるサイラスの視線の先には、大地を抉りとったような巨大な土塊が浮かんでいた。
その上にはいくつもの神殿が並び、ひときわ高く聳え立つ聖火台からはごうごうと炎が吹き出しているのが見える。
「なんだ、サイ。もう休憩おわりか?」
「待ってくれよ。俺達も行くから」
二人には目の前に広がる異様な光景が、まるで見えていないかのようだ。
いや…本当に見えていなかった。
世界は我が物とでもいうように、悠々と空を進むこの土塊は、天空神殿オリュンポス。
神々が住まうこの地は、神の血を引く血族にしか見えないモノだった。
「たいした情報はなかったが…
なかなか楽しい時間を過ごさせてもらったよ。ありがとう二人とも」
持っていた杖を二人に向けてくるりと振るうと、ぶわっと一陣の風が吹きつけ、二人はびっくりして目をぎゅっと瞑った。
「すげぇつむじ風だったな」
「帽子が飛ばされるとこだったぜ」
この牧草地は山々に囲まれているせいか、たまに突風がおりてきたりするのは珍しい事でもない。
「そうだ!昨日、薬草の群生を見付けたんだ」
「おおっ、いい小遣い稼ぎになるな。摘みに行こうぜ!」
二人は元気よく歩き出すと、先程の出来事などすぐ忘れてしまった。
───そこにもう一人居たことも…