プティ・グレインの惨劇
パスリー小路は、大聖堂前広場の北東側、ちょうど大聖堂の左背面から伸びているグレイン通りの一角から伸びている小さな通りだ。宿屋が多いこの界隈の夜の社交場として、バーが何件か軒を連ねている。もう少し北東に下った歓楽街イランイラン地区ならまだしも、このパスリー小路の飲み屋でいざこざが起こるなんてことは珍しい。しかも、こんな朝早くから。
大聖堂の外に飛び出たリースは、そのままグレイン通りを下る。アレックスがその後を追いかける。
「この二ブロック先が、パスリー通りです」
走りながらアレックスに説明する。ブーツが石畳を蹴る音が、狭い路地に反響する。
「宿屋が多い落ち着いた地区です。普段は」
大聖堂からパスリー小路の入り口まで、走れば二分とかからない。パスリー通りの分岐には、既に野次馬の人だかりができている。
「警吏は!?」
走りながらリースが叫ぶように人垣に尋ねる。
「あ、リース様」
「……まだです、まだ誰も……」
白騎士の姿を認めると、海が割れるように人垣が左右に分かれて道をあける。
足を緩めることもせず、リースとアレックスはその小路へと飛び込んでいく。
ガシャンガシャン
ドサッ
バキッ
ガラスの割れる音、堅い木材が思い切り石畳に叩きつけられる音、そして何かがへし折られる音。
それに重なるような罵声や悲鳴。
平和なはずの早春の朝には、およそ似つかわしくない物ばかりだ。
阿鼻叫喚の惨状の舞台となっているバー「プティ・グレイン」の店の前。立ち止まると同時に、リースは、右手を剣の柄にかけた。酒瓶、グラス、椅子……ありとあらゆる物が店の前の石畳の上に散乱している。リースは、傍らのアレックスに視線を送った。言葉を交わすことなく、小さく頷き合うと、さらりと剣を抜いた。二人は薄暗い店内を覗ける距離へと慎重に足を進める。
リースは、店内から視線を逸らさずに、店の入り口に倒れている男の頸動脈に指先を当てて生死を確認する。頭から出血しているが、気を失っているだけだ。
「生きてる」
その言葉に、アレックスが男の体を乱暴に掴んで、向かいの店の上がり端にへたり込んでぐったりしているもう一人の男に放り投げた。
「こいつを連れてここから離れてろ!」
腰を抜かしているのだろう。男は、アレックスの顔を見上げて首を小さく横に何度も振った。
「死にたくなければ這ってでも逃げろ!」
アレックスの罵声で呪縛が解けたかのように、男はようやく、ズルズルと後ずさった。
アレックスとリースは、散乱するガラスを踏みながら店の中に一歩足を踏み入れた。
濃い血の匂いがする。
窓から差し込む朝日の届かぬテーブルの向こうで、大きな黒い物が動いている。
更にもう一歩、店の入り口に足を踏み込んだ時、二人の足下に新しいワインの瓶が飛んできた。
その次の瞬間。
ガラガラガラガラガラ
何かを引きずり回すような音がして、大きな黒い影が、店の奥から二人めがけて飛びかかってきた。
反射的に後ろに飛びすさり剣を構える。
「「なに!?」」
明らかになった黒い影の姿に、二人は同時に息を飲んだ。
「人……なのか?」
アレックスはそう言ったが、二メートルを超えるかと思われるほどのその生物は、容易に人だと信じられるような有様ではなかった。既に布きれになり果てた服の残骸が、ベロリと体の端に引っかかっている。体中にボコボコと張り出した筋肉の塊の上を這う青い血管は、今にもはち切れそうなほどに苦しそうにうねっている。特に、瘤のように隆起している両肩の肉は、薄い皮膚を引き裂いて赤い血を腕に伝わせている。
そして、その左手に引きずっているのは、どうやら、かわいそうな被害者の右腕らしい。
充血した男の目には、もはや人間としての理性の色はない。素足の足が、音を立ててガラス瓶を踏んでいく。
「ぐぅぉぉぉぉ〜!!!」
男は、右手に握っていた椅子の一部を振り上げると獣の雄叫びを上げた。
こめかみの血管が、プチプチを音を立てて切れて、赤い血潮が自身の体を濡らしていく。見ているこの数瞬の間にも、男の体は不気味な変容を続けている。後から後から、沸き上がるように隆起してくる肉の塊。筋繊維の一本一本が目視できるのではないかと思うほどに、その太さを増していく。
投げつけられた椅子の破片が、鮮血を跳ねさせる。
その軌跡を、アレックスは軽く二歩下がってかわした。
「ぐぅぉぉぉぉぉぉぉ〜」
男が二度目の咆吼を上げた。目の血管が切れたのか、血の涙がその頬を伝う。
思い切り頭を振って、苦しそうに呻き声を漏らす。
体のありとあらゆる組織が、自分の意志に反して異様な膨張を続けているのだ。痛みを感じる神経が麻痺していないのであれば、当人の苦痛は想像以上の物のはずだ。
男は、ヨロヨロと右手に立つリースの方へと近づいていく。
「……ごろじでぐれ〜」
腹の底に響くような不明瞭な音の羅列。
「だのぶ……ごろじで……」
男は苦しそうに喉のあたりを掻きむしりながら、よろよろと足を進める。
三度目の咆吼の後、男の体が一気に飛びかかるようにしてリースとの距離をつめた。
「リース!」
男の背中越しに、アレックスが固い声を発した。彼の所からは、店の外へ出た彼女の姿は確認できない。
女性の悲鳴と男達のどよめきの声が細い路地に響いた。
一瞬の間を空けて、大男の体がゆっくりと、まるでスローモーションでも見るかのようにゆっくりと、前のめりに倒れていく。
男が自らの血で染まった石畳の上に倒れ込んだ時、リースの剣は既に鞘の中に納められていた
「……トマ……」
男のすぐ脇では、地べたを這っていた若い男が、頭から鮮血を浴びながらわなわなと震えていた。