火種
朝日は、もうすっかり穏やかな春の暖かさだ。
「ちょっと、騒ぎは困るよ」
大声を上げた客に対して、バー「プティ・グレイン」の主人は眉を寄せた。
宿屋、と言えば、一階でレストランやカフェを経営し、二階以上を客室にしているところがほとんどだ。カフェではアルコール類も供されるが、更に飲み屋に特化した店としてのバーを、一階で経営する宿屋も少なくない。多くが、午前中は軽い朝食をサービスするスタイルだ。なじみのバーに、近所の住人が朝食をとりに来ることも多い。最も、一番多いのは、一晩中飲み明かす酒豪達だが。
「あんたら、他のお客さんがいるんだから静かにしとくれよ」
店の奥のテーブル席で向かい合って話し込んでいた四人の内の一人が、いきなり大声を張り上げている。カウンターにいた主人は、なじみのその四人に渋面を作る。その内の三人は、週に四日は通ってくる常連客だ。昨日の夜も早い内からその席を陣取って、結局朝まで話に花を咲かせていた。
「ほら、落ち着けって、トマ」
仲間の一人が、先ほど大声をあげた男を宥めようと肩に手を置いた。
「なんだと! もう! 今日という今日は許せねぇ。ぶっ殺してやる!」
トマと呼ばれた男は、すっかり頭に血が上っているようで、店主の声も仲間の制止も耳に入らないといった風情で更に語気を荒げた。生成りのシャツに焦げ茶色のベストを着た痩せた男だ。穏やかそうな顔が、不釣り合いな怒りに震えている。
カウンターで朝食をとっていた初老の夫婦が、そそくさとその場を離れていく。
「おい、落ち着けよ! トマ」
隣りに座っている仲間が、立ち上がった男にもう一度制止を呼びかける。
「いいね〜、トマ。お前にそんな威勢があるなんてな。ぶっ殺せる物なら、ぶっ殺して貰いたいもんだぜ」
トマの怒りを平然と受け流した向かいの男は、そう言いながら悠然と立ち上がった。二メートルはあろうかという大男。見るからに腕っ節が強そうなその男は、顎の無精ひげをなでながら、挑発的な視線でトマを見下ろした。
「よせよ、ニケ。こんな朝っぱらから喧嘩なんて」
「そうだぞ。久々の再会じゃねぇか。な。もっと楽しくやろうぜ」
座ったままの二人の男が、交互に、その大男に声をかける。
「おいおい。挑発してきたのはトマの方だぜ。俺は、久しぶりに帰ってきた親友と、懐かしい昔の話で盛り上がろうって思っただけだ。懐かしい昔の喧嘩がしたいって言うなら、受けてたつってだけだぜ。まぁ、トマが俺に勝ったことなんて一度もねぇがな」
不適に笑みを浮かべるニケをものすごい形相で睨んでいるトマは、ひょろっと痩せた色白で、殴り合いの喧嘩になったらその勝敗は目に見えて明らかだった。
「今日こそ絶対、お前をぶっ殺す!」
「おい、トマ、落ちつけって」
「うるさい! 邪魔するな!」
腕を掴んだ友人の手を邪険に払いのける。トマの顔は、怒りで上気していた。今にも飛びかかりそうな勢いだ。
「へぇ。随分本気じゃねぇか。すっかり顔がトマトみたいになってるぜ。ト〜マ、ト!」
まったく気にかける様子もなく、ニケは、トマのあだ名であるトマトの呼び名を、殊更強調するように身を乗り出した。
「貴様〜」
バン
と、テーブルに叩きつけたトマの両手が、わなわなと震えている。
「お前に俺が倒せるって言うなら、やって貰いたいもんだぜ。しばらく街を離れている間に、俺に勝つ秘策でも考え出したのか? えぇ? まぁ、どんな手を使ってもお前が俺に勝つなんて一生かかっても無理だと思うがな。三年前のマリエンヌの時みたいに、どうせお前が地べたにへばりついて負けを認めるのさ」
体格で圧倒しているニケは、余裕の表情でトマの怒りを煽った。
「そうか、お前。もしかしてまだマリエンヌのこと諦めきれないのか?」
「やめろよ、ニケ。飲み過ぎだぞ」
慌てて右隣の男が仲裁に入った。三年前、二人はマリエンヌという一人の女性を巡って争った。それは、話題してはいけない話だった。
「あんな女のことが忘れられないなら好きにしていいぜ。あいつはもう用済みだからな。あんなあばずれ女、お前にくれてやるぜ」
得意げに挑発を繰り返すニケは、トマの怒りがピークに達したことに気がつかなかった。彼の紅潮した顔をバカにしたような目で一瞥すると、「ワハハハ」と声を立てて笑った。
トマは怒りで震える手でカバンの中から小さな瓶を取り出す。
「今日こそお前を、絶対に許さない! 絶対に!」
叫ぶように言って、小瓶の中身を一気に煽った。