ドレイファスからの使者
「ティンクルアベルですね。見事だ」
リサフォンティーヌの隣で馬を歩かせていたアレキサンドロスが感嘆の声を上げたのも無理はない。小川の両側の森一帯が、白い小さな鈴のような花をつけた可憐な植物が埋めていたのだ。それはまるで、黄緑色の絨毯の上に撒いた真珠の様だった。
マロニアから馬を走らせて2時間半。主要街道を外れて、森の中の小道に入って程ないところだった。
「ちょうど、花の盛りですね」
騎士の姿をしたリサフォンティーヌが、小さく応じる。前を行くバルディスを呼び止めて馬を下りる。
「この花がこんなに群生している場所を、初めて見ました」
同じく馬を下りたアレックスが、リサの傍らに立つ。後ろに続いていたフレデリックも馬を下りた。
「隊長。私は、先に離宮に参りましょうか」
同行していた、カイン・ド・パニエラが馬上からリサの指示を待つ。白騎士団の副団長である彼も、リース・セフィールドの秘密を知る数少ない人間の1人だが、リサが騎士の姿の時には、間違いなく隊長と呼ぶ、よくできた部下だ。
「ありがとう。そうしてくれると助かる。我々も、少し休んだらすぐに向かう」
カインの馬が走り去って行くのを見送ってから、リサは白い真珠の原の中へと足を踏み入れた。小さなベル状の花を複数付けて俯くティンクアベルは、とても涼やかで甘い香りを辺り一面に漂わせている。リサの細い指が、ティンクアベルの花を何本か手折った。純白の花びらのドームの上を、朝露が踊る。
「良い香り」
「あぁ、本当に」
差し出された花を受け取って、アレックスも目を細めた。
リサは、慣れた手つきで、ティンクアベルの花を摘み取ると、小さな花束にまとめている。
「キールでもドレイファスでも、ティンクアベルがこれだけの大群落で自生しているのはこの辺りだけなんですよ。この辺り一帯は、鉱水が沸く泉があって、スプリングフィールドという名前で呼ばれています。ほらあそこの泉も。かすかに湯気が上がっているのが見えるでしょう?」
リサが視線を左手の木立の向こうへ移した。緑の木々の奥に、小さな泉が見える。
「あぁ、ほんとに。確かこの辺りには、バーデンという都市がありましたね」
「えぇ。ドレイファス側のバーデンは、ちょうどこの山の向こう側にあります」
泉の奥からなだらかな傾斜の続く緑の畝が、はるか視界の端まで続いている。
「スプリングフィールドは、バーデンとは少し泉質が違うそうで、しかも温度が低いために温泉とはならず、保養地にはならなかったのですが……。この辺りは、リリーの種類が豊富な土地で、特に母が好んだリリー・オブ・ザ・バレーの仲間の大群落があるのは、このスプリングフィールド周辺だけです。ティンクアベルの他にも、ホワイトリリスやブルースターの群落もあるんですよ」
「それはすごい。リリー・オブ・ザ・バレーが好む鉱泉。どんな味なのか気になりますね」
「飲泉所が後1キロほど先にあります」
馬に乗ったままのバルディスが、アレックスの声に応じる。
「母が好きだった土地ということもあり、ドレイファスとの国境にあたるこのスプリングフィールドに、リリー・スプリングスの離宮を作ったのです」
高いところで結わえられた彼女の金色の髪が、彼女が動くたびにサラサラと流れる。リサは、束ねた花をアレックスの上着の胸ポケットに刺す。
「本当に良い香りだ」
手折られたティンクアベルの花からも、芳しい香りが舞って鼻孔をくすぐる。
「マロニアからカラキムジアまではちょうど一泊二日。どこかで必ず宿を取らなくてはならない。リリー・スプリングスの離宮は、それにちょうどいい場所なのです。もともとあったキール王宮の夏の別荘を、父が拡張して離宮に改築してくれたのです。今でも、最低でも年に十回くらいはカラキムジアに出向く公務があって、その際に滞在することになっています。それで、王宮騎士達が出向く場合でも、そこに滞在することがあるのです」
「リリースプリングスというきれいな名前は、この花が咲く泉という意味だったのですね」
ティンクアベルの花の群れの中に佇む二人の上に、ちょうど雲間から顔を出した太陽の光がキラキラとこぼれ落ちる。それはまるで、幻想的な美しさを讃えた一枚の絵のようであった。
*****
リリー・スプリングスの離宮には、王族以外に、王宮騎士も自由に宿泊ができる。
一応キール王国の離宮と言うことになっているが、キール、ドレイファス両国の王宮騎士に使用が認められており、稼働率も比較的高い。3名の宮廷騎士が統括する、リリー・スプリングス騎士団が王宮専属として常駐している。料理人、ハウスメイド、庭師、厩務師などを含めると、キール王の滞在のない平時でも、常時30名程度の人間が生活をしている。一通り離宮内の案内を終了したリサが、アレックスとフレデリックを連れて、王族・王宮騎士専用のウイングに戻ってきた。大広間とは違い、こちらは随分とこじんまりとしたプライベートサロンだが、白い壁に金色のティンクアベルの模様が立体的に描かれた豪華な装飾が施され、一枚板で作られた重厚なテーブルやモスグリーンのソファーなど調度品にも風格が漂う。
ちょうど良いタイミングで入れられたハイティーのセットが、既にそのテーブルの上に準備されていた。
「お茶にしましょう」
メイドたちは、滞在者になるべく干渉しないように教育されている。そのため、各ウィング内への入域は指示がない限りほとんどしない。
その時、壁の呼び鈴が堅い音を立てた。素早く席を立ったバルディスが伝令機を手に取る。
「カラキムジア王宮から? 早いな」
バルディスが取り次いだ言葉に、リサが振り返る。
「分かった、通してくれ」
程なく、ノックの音とともに静かに扉が開いた。
「!?」
入ってきた人物の姿に、リサの視線が固定される。顔に浮かぶ動揺の表情。
「兄上……?」
小さく呟いてしまってから、
「ウインダミーリアス王太子殿下!」
リサは慌てて言い直した。それから、慌てて膝を折り、王太子に頭を下げる。バルディスやカインも同じく臣下の礼をとる。ドレイファス王宮からの使者が来訪と聞いていたのに、目の前に現れたのは、王太子であるウインダミーリアス・ファン・ドレイファスその人なのだ。びっくりしない方がおかしい。
ウインダミーリアスは、すかさず背後の騎士に目配せをした。メイドを下がらせ扉を閉める。
「心配いらぬ。エルンストだけだ。頭を上げておくれ、リサ。本来なら、私の方が、龍の後継であるキール王のそなたに礼を尽くすべきなのだから……」
ウインダミーリアスは、そう言いながらリサを促した。
「変わりはないか?」
「はい。兄上もお変わりなく」
「うん」
笑顔で頷く。秋に会って以来、半年ぶりの再会だ。騎士の姿をしているためか、王宮で見る兄よりも数段逞しく見えた。
「そなたたちも頭を上げておくれ」
リサの脇で同じく頭を下げているバルディスに声をかける。
「バルディスも変わりないようだな」
「ご無沙汰いたしております。殿下」」
「兄上……ご紹介を。こちらは……」
「カイザースベルン第二王子、アレキサンドロス・ラビ・カイザースベルン殿下にございます」
リサの言葉を引き継いで、フレデリックが自分の主を紹介する。
「お初にお目にかかります。ウインダミーリアス王太子殿下」
「お噂は、父から聞き及んでおります。アレキサンドロス殿下」
アレキサンドロスが差しだした右手を、ウインダミーリアスががっちりと握った。
「恐縮です」
「この度は、騎士としてのご来訪とか?」
「えぇ。アレックス・ライデルと名乗っております。ぜひそのようにお呼び下さい。そして、これが私の側近……」
「フレデリック・ワイリーと申します。ウインダミーリアス王太子殿下」
フレデリックが、軽く頭を下げてウインダミーリアスに敬意を表する。普段はおちゃらけているフレデリックも、こういう場面ではしっかりと、第二王子の親衛隊長としての顔をする。
「お二人には、リサがだいぶお世話になったそうですね」
椅子に腰掛けながら、ウインダミーリアスがアレキサンドロスとフレデリックの顔を交互に見る。
「お世話だなんてとんでもない。リサフォンティーヌ陛下には、こちらが助けていただいたのです」
「それにしても兄上。兄上がわざわざ使者とご一緒なさらなくても」
「違うよ、リサ。私が使者の役を願い出たのだよ。ほらここに、父上からの親書もある」
腰のポーチから薄茶色の封筒を取り出してリサに差し出す。
「兄上が? 使者? まさか、エルンストだけを連れてのご来訪ですか?」
そう言って傍に立つエルンストの方を見た。エルンスト・テスは、ウインダミーリアスの親衛隊の騎士団長を務める王宮騎士で、リサも良く知っている。
「一人ではないよ。レイも一緒に来ている。そなたのことを知っていて、一番信頼できる騎士を連れてきたつもりだが……」
「人選について申し上げているわけではありません。兄上が一人でこのような無謀なことをなさるとは……」
「一国の王が、部下数人のみを連れてお忍びで隣国を訪問する方が、よっぽど無謀だと思うがね。リサ」
「そ、それはそうですが……今の私は王宮騎士で。それにドレイファスは、隣国とは言え我が祖国」
「なら自国を旅している私など、かわいいものだな」
「兄上……」
悪戯そうな笑顔を浮かべているウインダミーリアスに、リサは思わず口ごもった。
「私も、そなたに感化されたのかも知れない。最近では、結構外出も多いのだよ」
「そうなのですか!?」
予想外の告白に、リサは驚いて、傍らに立っているエルンストに視線を送る。
「まことに。こちらが冷や冷やすることばかりです」
リサがキールの王になってドレイファスを離れてから、ウインダミーリアスも随分と、国内をお忍びで旅して歩いているらしい。
「城下に降りる際には、ヴィンセントと名乗っている。あぁ、誤解しないでくれ、父上から正式に、許可をもらっている。しかし最近では、エルンストもレイも『バルディス閣下の気持ちが良く分かる』とぼやいてばかりだ。」
自分の声真似をしておとぼけてみせた主に、エルンストが苦笑いを浮かべる。
「ウインダミーリアス殿下……」
「分かっているよ、バルディス。私は、リサのようには腕は立たぬ。だから、常にエルンストには面倒をかけている」
「ご謙遜を」
バルディスは、自分の言葉を遮った王太子に小さく頭を下げた。
「兄上には、随分と優しい言葉ですこと。いつも私に説教している黒騎士の言葉とは思えませんね」
憮然とした表情でリサが不平を言う。
「お言葉ですが、陛下。限度というものがございます」
変わらぬ低い声。言葉遣いこそ丁寧だが、普段の二人の関係を連想させてウインダミーリアスは声を立てて笑い出した。
「兄上!」
「相変わらずお転婆ばかりしているようではないか、リサ」
「そのような……」
「違うのか?」
「いえ……そう…ですけど……」
気まずそうに視線をそらした妹の姿に、
「リサのお守りはバルディスにしか務まらないな」
と、ウインダミーリアスはさらに楽しそうに笑った。
「全く、そなたには驚かされることばかりだ。私は時々思うことがある。そなたが龍の後継で良かったと。とても私には、その大役は務まるまい」
「何を仰います。ドレイファス王国の次期国王が、そのような弱気な……」
「ほら。その様な物言いが」
「もう……兄上には敵いませぬ」
リサが困った顔を口を尖らせる。
「それにしても。しばらく会わないうちに、随分とかわいらしく笑うようになったのだな。我が妹は」
ウインダミーリアスの指が、優しくリサの頬に触れる。
「これもあなたのお力かな。アレキサンドロス殿下」
「あ、兄上!!」
ウインダミーリアスが、いきなりそう言ってアレキサンドロスに視線を移したので、リサは耳まで真っ赤にした。リサフォンティーヌは、まだまだ、兄ウインダミーリアスには敵いそうになかった。