カラキムジアの朝
上ってきた朝日が、堅牢な城壁を舐めるようにゆっくりと照らしていく。
街の中央部に位置する小高い丘の上に建つカラキムジア王宮は、深い濠と堅牢な石垣に囲まれた、質実剛健な騎士の城だ。さらに、城壁の周囲を、川から水を引き込んだ二重の濠が取り囲む鉄壁の守りだ。城の正面玄関にあたる英雄橋は、街を東西にまっすぐと横切る大通りへと繋がっている。ドレイファスの王都カラキムジアの街は、この王城を中心に、直径15キロほどのほぼ円形をしている。街の外縁も壁で覆われた構造のため、鉄壁の守りを誇る大陸一の王都として名高い。広大な領地を有するドレイファス王国は、北部の山岳地帯、東部の乾燥地帯、海に面した西部と、地域ごとの気候風土が大きく違っている。比較的平坦な南部には、大きな街がいくつか点在している。カラキムジアを取り巻くそれらの都市がまた、王都を守るための城塞都市としての機能も担っている。
王宮のすぐ目の前に位置する大通りは、そのまま真っ直ぐに、キールへと続く街道へとつながっている。大通りの東側には、市庁舎、刑吏本部や裁判所などの街の中枢機関が集中している行政区がある。西側は緑豊かなカラキムジア大学のキャンパスだ。王立文書館や王立病院、博物館や劇場なども、この緑の中に林立している。
涼やかな葉陰に覆われた小道に、クローバーの敷き詰められた広場。透明度の高い小川が流れ、大学の周りはランニングコースとして人気だ。
王太子ウインダミーリアスも、不定期だが、この林に早朝のお忍びランニングに出ることがある。今日はそんな日だった。親衛隊のメンバーが何人か、護衛も兼ねて同行する。
「連日付き合わせてすまないね」
ランニングを終えて王城への小道を歩きながら、ウインダミーリアスが、申し訳なさそうに呟く。
「何をおっしゃいますか、殿下の身辺に侍るのは我々の責務です」
すぐそばを歩くエルンストが間髪入れずに応えを返す。
リサフォンティーヌもそうだが、兄であるウインダミーリアスも、部下が自分に仕えることを当然のこととしない。それは、幼い頃に、母であるエリザベート皇后から学んだ教えだ。母を失った時、ウインダミーリアスは9歳だったが、それまでの日々の中で、エリザベートが自ら菓子を焼く姿や、ウインダミーリアスのために縫いものをする姿など、通常なら侍女に任せるような仕事を喜んでこなす姿を何度も目にしていた。当然、侍女や侍従たちに対する態度も礼節に溢れ、下の者を蔑むような態度を見せたことは一度もなかった。その態度は市民に対しても同様だった。ウインダミーリアスも、その教えを受け継いでいる。自分の周りの者たちへの心遣いを忘れないのはもちろん、ランニング中に遭遇する市民に対する気さくな応対も、その一環だ。王室の人気が高いのは、このような王族の態度も大きく影響している。
濠にかかる橋を渡り始めたあたりで、門の内側からこちらに駆けて来る人影が見えた。昨日の遠乗りにも同行した近衛騎馬隊のマーロンだ。
「おはようございます、殿下」
「昨日の赤子はどうなった?」
マーロンが、昨日からずっと病院に詰めていることはエルンストから聞いていた。病院から戻って真っ先に、ウインダミーリアスに報告に来たのだ。
「はい。脱水と低体温症で弱っていたようですが、容体は落ち着いていると」
「それは良かった」
「今のところ、特に感染症等病気の兆候も見られないとのことですが、念のため小児特別治療室にて様子を診るとのことです。これまでの検査結果をまとめたビーガの写しを預かって参りました。それと、母親の方の死因は研究所に回して精密な調査をしているとのことで、しばらくかかりそうだと」
「何か問題でもあったのか?」
「血液の簡易検査で、通常はありえない成分が検出されたそうで、それを含めて、詳細解剖をして調べているようです」
「身元はわかったのか?」
「はい。そちらはある程度。女性の所持品と身につけていた衣装から、ヴァイザートゥームの西の端にある、ジルバ村の女性だということまではわかっています。正確な身元に関しては、朝一で紋章官が報告に参ると……」
「あれ、ですかね?」
マーロンの言葉を、エルンストが遮った。彼の視線が、橋の向こう側に注がれている。その場の全員が振り返る。
「いや。あれは……」
エルンストの言葉をウインダミーリアスが否定する。
英雄橋からまっすぐに続く大通りを、朝日を背に受けながら、一頭の馬が駈けてくるのだ。砂埃を巻き上げながら、全速力で。
「急ごう。リサに何かあったのかもしれない。あれは、キールからの早馬だ」
*****
「お呼びですか、父上」
メンフィス王の執務室に、ウインダミーリアスが入ってきた。
「来たか、ウインダム。座ってくれ」
朝の柔らかな光が差し込む部屋の中央のソファーには、すでにドレイファス王宮騎士団の長を務めるサイザリアス・レイ・ソートが腰をかけている。バルディスの弟だ。
「おはようございます。王太子殿下」
立ち上がって挨拶をするサイザリアスを座るように促して、ウインダミーリアスも向かいのソファーに腰を下ろした。
「先ほど、キールから早馬があった」
「すれ違いました」
座ると同時に差し出された手紙を、長い指が優雅に開く。確かに妹の字だ。そして、それが少し乱れている。慌てて記した手紙なのだ。
「ダッダリアですか」
文字列を目で追いながら、ウインダミーリアスが口に出す。
「ドレイファス第二の都市。いや、むしろ、交易による人の出入りの多さでいったら、カラキムジアを遥かに凌ぐ。そのような都市で、もし不法な薬物が取引されているとしたら、由々しき事態だ」
目の前に座るメンフィスは、そういって大きくため息をついた。
「これまでに、不穏な事件の報告は上がっていないが、何かが起きているのかもしれない」
「また、ジョバンニ・クエントが絡んでいる可能性があると書いてありますが」
質問を予期していた顔で、メンフィスは息子にうなづいた。
「そちらの調査を、サイザリアスに命じたところだ。実際にキールでは、件の男が関わっていると思われる事件が起きているからな。ダッダリアまでの街道沿いの街で、不審者情報がないか取り締まりを密にする。それと、ローゼリア行政府にも、少し手厚く人員を送るつもりだ。ローゼン島の不穏分子は先の大戦後に一掃したが、地理的に危うい場所にあるからな」
先の大戦という言葉に、ウインダミーリアスは改めて思いを馳せた。キールが焦土と化した、あの戦いだ。ドラクマ帝国があるラグランシア大陸と、キールやドレイファスがあるユートピア大陸とは、海を挟んで向かい合うが、ローゼン島はその間に立地する大きな島だ。先の大戦は、ドラクマのローゼン島への侵攻をきっかけに始まり、最終的に、ウインダーミリアスやリサフォンティーヌの祖父母にあたるキール王・王妃、叔父にあたる王太子はじめ、キールの多くの騎士、市民たちが命を落とした。平和な時代になったとはいえ、ドラクマ帝国の脅威が去っていない以上、束の間の平和に過ぎない。
「では、リサには、キールから直接調査に入ることをお許しになるのですね」
「もちろんだ。リサが直接関わっている事件のようだ。きっと自分で出向くつもりだろう。止めても聞かぬであろうからな。ダッダリアの警吏本部には、その男、トマ・ボルチモアの勤めている工房と、住んでいた家の家宅捜索を命じておくが、その上で、リサたちも、自由に動けるように通達を出しておこう。それに、手紙によると、ちょうどカイザースベルンから来ていたアレキサンドロス殿下も、すっかり巻き込まれてしまったようだ。あの方の性格からして、同行するのは間違いなかろう」
「マキシミリアン殿下の弟君ですか?」
ウインダミーリアスは、同じ王太子として、カイザースベルンのマキシミリアン王太子とは交遊がある。
「あぁ、そうだ。活発な弟だよ」
「よいのですか?」
「休暇中だそうだ。問題ない」
「そうではなくて、もし何かあれば、外交問題に……」
ウインダミーリアスが心配するのも無理はない。臣下に下ったとはいえ、カイザースベルンの第二王子だ。ドレイファス国内で怪我でもしたら、両国間の関係に亀裂が生じる可能性だってある。
「心配ない。腕が立つ男だ」
あまりの即答に、ウインダミーリアスは思わず苦笑を漏らした。
「父上がそこまではっきりとおっしゃられるのも珍しいですね」
「一度会って話をしただけだがな。だが彼は信頼できる。もちろん、剣の腕だけでなく、人間的にもな」
メンフィスはそう満足そうに口に出し、ゆったりと背もたれに体を預けた。そんな父王の姿に、ウインダミーリアスはもう一度、先ほどよりも肯定的な気持ちで口角を吊り上げた。
「父上がそうまでおっしゃるのなら、安心して良いのでしょう」
メンフィスは、アイアン・イーグルと異名をとる、王宮騎士でさえ一目置くほどの剣豪だ。そのメンフィスの見立てに狂いがあるとは思えない。カイザースベルン王宮の人間が人間的に素晴らしいことは、マキシミリアンを見て知ってもいる。マキシミリアンは、半年ほどカラキムジア大学に留学していたことがある。物腰柔らかな性格で、慈愛に満ちた、人格的に素晴らしい人物だった。その弟は、兄の性格の良さを引き継ぎ、さらに剣の腕もたつという。
ウインダミーリアスは、そんなアレキサンドロスに対して、俄然興味が湧いてきた。
「父上、ひとつお願いがあるのですが」
そう切り出したウインダミーリアスの目は、少年のように輝いていた。