レッドカード
平時、リサフォンティーヌが日中のほとんどの時間を過ごす執務室は、マロニア王城でも一番見晴らしの良い、南向きのサファイアウイングの5階にある。4階には巨大な図書室と、王を交えての大事な会議を開くための会議室が設けられている。フェリシエールが扉を開けると、室内に集まっていた十数人が一斉に立ち上がった。リサンフォンティーヌは、彼らに座るように促しながら、自身も席に着いた。
「既に耳に入っているとは思うが……本日早朝、グレイン地区で事件が起きた」
リサフォンティーヌの言葉をついで、バルディスが細かい状況の説明を行う。臨時の国防会議だ。街で事件が起きてからまだ4時間も経っていない。
リサは、何事かが起きた時、迅速に対処することを最優先に考えている。そのためには、役所や部署ごとの枠組みや命令系統の縦横の関係など無視するべきだという信念を、政治の場に反映させている。街の中央にある警吏騎士本部やキール国内の行政を司る中央行政府から、わざわざ担当官を城内のシトリンウイングに常駐させているのもその一環だ。それだけではなく、各地方の行政庁からも担当官を集め、シトリンの隣にあるアゲートウイングにて勤務をさせている。
この体制により、中央からの命令が正しく各地方の行政府にも伝達されるのと同時に、地方からの情報も、速やかに中枢へと集まってくる。素早く情報の共有を行うことを重視する考え方が、文官と武官がともに同じ国防会議のテーブルについているという、この構図を作り出していた。
特に、秋に起きたGMモンスター事件以降、国境や海岸に面した街の警備が強化されており、不定期な会議の招集も回数が増えている。
情報伝達と今後の指示が、リサの口から次々に伝えられていく
「失礼します」
小さくノックの音を立てて、伝令官が部屋へと飛び込んできた。
鳩便だ。
マロニアの警吏本部に入ってくる情報は、すぐさま鳩便で王宮に届けられる。逆に、王宮からの急ぎの指示も、鳩便でなされることがある。会議室の外でも伝令官が常時控えており、ピジョンタワーとの間を忙しく行き交うこととなる。
「警吏本部からです」
リサの隣に座っているフェリシエールが、届けられた紙を受け取って彼女に示す。
「トマの自宅の家宅捜索が終わったようです。昨日、戻ってきたばかりの旅行行李は開けられておらず、押収して調べているが、目視では不審なものはなかったとのことです」
フェリシエールが内容を読み上げ、報告内容がその場の全員に共有される。
「各地区の警吏本部に通達を出し、街中で不審な動きがないか捜査させる。加えて、各銀行にここ数週間の間に大規模にお金が動いた形跡がないか調べさせて至急報告を」
リサの指示を受けた文官達が、おのおの己の持ち場へと戻っていく。
室内には、王宮騎士と執政官、指揮に関わる極めて限られた人間のみが残された。
「それにしても、ですよ」
まず口を開いたのはアランだった。
「今回の事件は、GMグリセラトプスの事件とも、カイザースベルンで発見された天使の子供の事件とも、無関係とは思えないですね」
全員が黙って小さく頷いた。
「つながっているようにみえる、というか、肉体を変容させるという発想は全く同じだ。違っているのは手法のみ」
コツコツと爪の先で手元の資料の束を指すリサの声は、少しイライラしているようだった。
「ってことは、やっぱりあれですか」
アランはぷつりと言葉を切って、ちらりとバルディスの方へ視線を送った。
「ジョバンニ・クエント……」
アランの隣で、クルステットが小さく呟いた。
「詳しいことはまだ分からない。どちらにしろ早急に対策を考えなくてはいけない、ということだ」
バルディスの声は、いつにも増して重かった。
「各騎士団は街道およびすべての街や村へと部隊を派遣し、警備にあたらせる」
リサは手を止めて青騎士ダグラス・ベルガーを見た。
「ダグラス。引き続き警備の強化を。各騎士団からの派遣部隊の選定と割り振りについても一任する」
「積荷等の検査はどうしますか」
「現体制を維持。今回使われたのは、オレンジ色の液体、それの入った小瓶。個人が単品でこっそり持ち運べば、見つけるのは困難だ。すべての荷物を開けて検査するわけにもいくまい」
「陛下は、その男が薬品を手に入れたのはダッダリアだと思っておられますか?」
赤騎士クルステットが、テーブルの上に広げられた地図に目を落としながら尋ねる。
「分からない。分からないけど、彼がマロニアに着いたのが昨日の昼で、その後すぐに3人と飲みに行っていることを考えると、既にそれを持ってマロニアに入ったと考えるのが自然でしょう」
「先ほどの報告だと、自室には、何も不審なものはなかったようですしね」
「ダッダリアで手に入れたのか、はたまたマロニアに来る間のどこかの町で手に入れたのか……」
バルディスが更なる疑問を述べる。
「バーデン辺りはどうでしょう。あの温泉街には、国内外から多くの湯治客がやってきます。物の流通も、かなり盛んなはずです」
拡げられた地図の上をポインターで指しながら、アランが王の意見を求める。
テーブルの中央に広げられた地図に、全員の視線が集中する。
「確かに、陸路で入るなら、人の多い観光地を拠点にするのは充分に考えられる」
地図の上に、『ロードカリーダス』の文字が踊る。温泉保養地が多いドレイファスとの国境沿いの一角を通る街道は、その名も『温泉街道』の名で呼ばれている。
「この辺の街には?」
「詳しいですよ」
「よし。温泉街道沿いの調査はそなたに任せる。近衛隊は王城に残し、うちかバルディスのところから、何人か連れて行くといい。黒騎士団は、第一部隊をそのまま警吏本部の援護に残す。マロニアの街と、王城の警備指揮は、クルステットに任せる。残っている兵を取りまとめてくれ。首都防衛が手薄になるのを狙っているのかもしれない。防衛を強化したことが明確に分かるように、特に各ゲートの警備兵の数を増やしてくれ」
「承知しました」
アランとクルステッドが同時に頷く。
「先ほども言ったが、トマ・ボルチモアの遺体の精査と謎の液体に関する調査の権限はイリアに一任してある。ドレイファスにも手紙を出した。ここ3〜4日程度で、だいぶ状況が動くと思うが」
トマ・ボルチモアの遺体と液体の入っていた小瓶は、トリステル王立研究所のイリア博士の元に送られている。
「カインが戻り次第、白騎士団をダッタリアに派遣する準備をさせる。私も、ダッダリアに出向いて、できればそのままカラキムジアに入りたい」
言ってから、今度はちらっとバルディスの方を見る。
「お伴いたします」
その答えに眼だけで了承の合図を送ると、
「では、陛下がダッダリアに発たれるのは数日後ですか」
フェリシエールが、カレンダーを机の上に拡げた。
「明後日の朝には発つ。父上からのお返事は、リリースプリングスで受けるとお伝えしています。リリースプリングスの離宮にはその旨連絡を。ドレイファス側の協力が必要です。父上の判断を待たずに、勝手に動くわけにはいかない。それまでにキール側の情報をすべて整理しておく必要がある。それから、フェリシエール」
「はい」
「レッドカードの準備を」
「レッドカードを!?」
「国内全域の警備体制はイエロー。いつでも全土にレッドカードを発動できるように準備しておいてくれ。あとで署名する」
「陛下」
「わかっている。発動するような事態になったら、急いで戻る。しかし、戻ってから準備していたのでは間に合わない」
「承知いたしました」
フェリシエールが、恭しく頭を下げる。
「カイザースベルンのお二人はどうなさいますか?」
バルディスが言葉を挟む。
「お二人はプライベートなご旅行中です。お二人のご意向に任せます」
「おそらく……」
「えぇ、たぶんそうおっしゃるでしょう。お引き止めはしません」
「御意」
同じ意見だったことに、バルディスは深く頷いた。
「皆忙しい時ですが、今晩は、夕食をお二人と共にします。19時にムーンストーンズルームに。略装で構いません」
「承知致しました」
「他に何か質問は?」
リサフォンティーヌは、全員の顔を見渡し、静かにうなづいた。
「よろしい。では会議は以上です」
背後に軽く視線を送ると、壁際に控えていたオフィーリアが、主人の立ちあがる動作に合わせて椅子を引く。
間髪入れずに全員が立ち上がる。
「みなに龍のご加護を」
彼らは、自身の右手を心臓に当てて王の言葉に応えた。
*****
「お待たせしてすみません。アレックス」
会議を終えたリサは、そのままの服装でクリスタルウイングの二階へと下り、貴賓室にいるアレックスの所へ向かった。マロニア王城の中央に聳えるクリスタルタワーは、王の居室があるプライベート空間だ。一階・二階には来客用のゲストルームがある。特に、二階に設置されている貴賓室は、カイザースベルンから父や兄が訪問する時に使用する特別な部屋だ。
「いえ、こちらこそ、お忙しいところすみません。俺たちのことなど、どうぞお気になさらないで下さい」
「そういうわけにはいきません。せっかくの休暇が台無しになってしまっては申し訳ありませんから」
言いながら、脇に控えている女性に目で合図をする。初老のその女性エザリアは、あまたいる侍女を束ねる侍女長だ。執事長のパークデイルの妻でもある。銀色の髪を綺麗にひっつめてひとつにまとめ、ロングの紺のドレスにエプロンをつけた正統派スタイルでキビキビと行動する姿は、とても六十後半という年齢には見えない。彼女に貴賓室の接待を任せたのは、もちろん、王子の接待にふさわしいサービスを提供できる実力を見込んでのことだが、リサの秘密を知っている数少ない侍女の一人だからでもある。エザリアは、彼女が産まれてすぐから、専属として彼女の身の回りのことを引き受けてきた。
エザリアは、手際よくテーブルの上からすっかり冷めてしまったティーカップを下げて、すぐに部屋を出ていく。
「では、ご紹介しましょう」
リサが背後に視線を移す。
「初めまして。アレキサンドロス殿下、フレデリック閣下。執政官のフェリシエール・カール・ビエラと申します」
同行してきたフェリシエールが、深々と頭を下げる。
「お噂は伺っています。私のことは、どうか、アレックスと呼んで下さい。すでに臣下に下った身。殿下と呼ばれるのはくすぐったい」
アレックスが照れ笑いを浮かべながら右手を差し出す。
「私も、陛下から、何度もお話を伺っております。お目にかかれて光栄に存じます」
フェリシエールがその右手に応え、握手を交わす。どちらも美形男子だが、日に焼けたたくましい剣士の顔をしたアレックスと、柔らかでたおやかなフェリシエールとではジャンルが違う。どちらが好みかは完全に意見が分かれる所だろうが。
「立ち話もなんだから、こちらへ」
いつまでも立ち話をやめない三人を、リサフォンティーヌがダイニングテーブルへと誘導する。
程なく、新しい紅茶を入れたティーセットを押してエザリアが戻って来た。アフタヌーンティーのセットだ。
「少し何かつまみながらお話ししませんか? お昼、まだですよね? 私も食べ損ねてしまいましたから」
椅子に腰を下ろしながら、テーブルセッティングがされるのを眺める。サンドイッチ、スコーン、パンケーキ、クッキー、ケーキなどが次々とテーブルに並べられていく。
ミルクがたっぷり入った紅茶が、4人の前に並べられる。
「ということは、リサはドレイファスへ向かうのですね?」
食べながら気楽な会話が始まると、必然的に、今朝の事件に関連して先ほどの会議の中身について話が進む。
「えぇ、ダッダリアの街に手がかりがあるかもしれないと、そう思っているので。でもその前に、ドレイファス王と今後のことについても話し合わなくてはなりません」
「ではカラキムジア王宮に?」
アレックスの言葉に、リサは軽く首を振った。
「いえ。すでに早馬で手紙を出しました。返事は、途中の離宮で受けることにしています。返事の内容によって、直接ダッダリアに向かうか、カラキムジアに向かうか決めるつもりです」
空になったティーカップに、エザリアがすかさずミルクティーを注いでくれる。
「俺たちも、同行させてもらえるかな?」
アレックスは、予想通りの反応をした。
「お二人の休暇が、それで無駄にならないのであれば」
「もちろんだ」
彼の返答に、リサは笑顔でうなづいた。
「本当は、晩餐会を準備していたそうなんですよ」
「晩餐会? ですか?」
「私の臣下は、一刻も早く王子を紹介して欲しいと」
「俺をですか?」
意外だという表情で目を丸くしている。
「俺は完全お忍び旅行だったのですが……」
「えぇ。それはもちろん承知しています。ただ、なんというか……」
リサは少し照れながら、視線を落として表現方法を探している。
「王子がどのような方か、知りたいと……」
「申し訳ありません。勝手にそのようなことを申しまして」
リサの隣でフェリシエールが頭を下げる。
「それは、キール王のお相手として、ということですよね」
「そ、それは……」
フレデリックのストレートな質問に、リサの頬が目に見えて赤らむ。
「フレデリック、失礼だぞ」
アレックスが咄嗟にたしなめる。真実をついてはいるが、いくらなんでもストレートすぎる。
「すみません。失礼なことを申しました」
窘められたフレデリックは姿勢を正し、深々とリサに頭を下げる。こういう所はさすがはカイザースベルン第二王子の側近だ。そつがない。
「いや、ご指摘の通りです。私たちが余りにもアレックスのことを絶賛するものだから、部下達が会いたがっている、ということなのでしょう。しかし、状況がこんなことになってしまって」
リサがちらりとフェリシエールの発言を促す。
「晩餐会というほどのものではなく、ただの夕食会程度になってしまうかとは思いますが」
「そういうことなので、よろしければ今夜お付き合いください。その前に、執事長のパークデイルに城内の案内をさせます。本当は、フェリシエールにお願いしようと思っていたのですが、彼にはいろいろやってもらわなくてはいけないことが出来てしまって。それから、パークデイルもエザリアも、この部屋の担当者につけた者は皆、私のことを白騎士リース・セフィールドだと知っている人間です。何かあれば気楽に申しつけてください」
背後に立っていたパークデイルが、一歩前へ出て深々と頭を下げた。
リサは、後のことを執事たちに任せて、フェリシエールを伴って静かに部屋を出た。