一身上の都合
【1】
闇に満たされた世界にぼくらは住んでいた。
この世界は、少し変わっていた。一言で言えば”敵”が誰なのかも知らず”戦時”にあったのだ。少なくともぼくが生まれてから出会った大人たちは誰一人、何と戦っているのかを知る者は居なかった。ただし多くの者が命を落とすところを見たし、敵機の来襲は高頻度で起きていたのだから、戦争であることは間違いない。
この状況は「そういうものだと思って諦めた方が良い」と、小さい頃から母に言われてきた。最近はぼくも「運命」という言葉を覚えた。「この日常を生きることは運命なんだ」。
この世には不思議なことがいくらでもある。ぼくらが何者で、どうやってここに来たのか、周りにはそれを知る者も、気にする者も居ない。何世代も前からずっとここに居たことは確かだ。眼前に長く横たわった時間の中で、ぼくらの周囲で子孫は増え、死んでいった。自身の存在理由に対し疑問を持つことにおそらく意味なんて無い。もちろんぼくだって、それは理解していた。
ぼくには行動を共にしている仲間が居り、お互いに”家族”だと思っていた。祖先は一緒だから、家族で間違いはないだろう(ここでは生まれた順番と、性格からぼくと行動を共にしている者を仮に”母”、”妹”と呼ぶことにする)。とにかく、ぼくら家族は仲が良くて気も合った。
小さい頃「戦争は、まだ終わらないの?」と母に尋ねたことがある。母はしばらく困った顔をした後に「こんなふうに生きていくことは、私たちにしかできないのよ。あなたのおじいさんも、おばあさんも、ずっとこうしてきたの」と言って、ぼくの手を握った。ぼくはそのあたりで、おそらく「運命」という言葉を覚えたのだ。
母を困らせるつもりはなかったし、自身の運命や環境を呪うつもりもなかった。
なぜならば、ぼくはここで生きていることが幸せだったからだ。たとえ戦時下であってもだ。
「空襲警報発令!」と遠くで誰かが叫んだ。空襲は日に幾度も、生まれてからずっと繰り返されてきた。生まれて間もない妹でさえ、今ではそれに慣れてしまうほどだった。
母は妹とぼくの手をとり、いつものように”防空壕”の中に身を潜めた。ここまで来られたら、もう安心だ。
戦時下でこう言うのも少し変だけど、壕の中で空襲をやり過ごす間にする母や妹とのおしゃべりは楽しかった。家族の絆を子供ながらに噛みしめ、空襲に幸せを感じることすらあった。また時には、一人きりになって自分が何者かを考え続けたりもした。
姿の見えない”敵機”は地上のぼくたちに向け、大量の強酸を散布するのが常だった。空襲はぼたぼたと強酸の粒が地面を叩く音から始まる。さきほどの「空襲警報」の声を上げた者もまた、この音を合図としたのだろう。やがて強酸はあちらこちらから滝のように流れ出し、低い音を立てながら地面を覆っていく。
毎日がこのような状況だから、ぼくらは強酸に耐える“防護服”を生涯身につけたまま過ごさなければならなかった。新しい子供が生まれると、まず全身を包み込む”防護服”を仕立てることが、ぼくらの習わしだ。
周囲の仲間たちはもう空襲に慣れており、大半の者は即座に壕に逃げ込む。しかし、動作の鈍くなった年長者などは、たまに逃げ遅れ、大河のようになった酸に飲まれ消えていった。断末魔などを聞かされると恐ろしくもなったが、それもまた「仕方のないこと」と母が言っていた(悲しいことだけど、こういう出来事で世界は調整されているのだ)。もちろん、そういう母だって気丈に振る舞ってはいたが内心怯えていたことは知っていた。ぼくらは、いつかそれが家族や自分の番にならないことだけを祈るだけだった。
空襲は時間さえ過ぎれば、壕の中でじっとしていればやり過ごせる。空襲が終わった後も、そこいら中に強酸はばら巻かれているから、気を抜くことはできない。ぼくらはいつだって、生きている間はずっと”防護服”の確認を怠ってはいけない。
ぼくは空襲の後、しばらくすると妹の手をとり食事を探しに出かける。別の家族たちもまた、食料を求めて壕の外に這い出してくる。
空襲後は、戦時下ということが嘘のように、養分に満ちた豊かな大地が広がるのだ。妹はこなごなになった果物のかけらなどを探しだすのが得意で「ごちそうよ」などと言って、よくぼくや母に手渡してくれた。
この世界はおかしい、なんてことを以前ぼくは考えたりもした。でも、それはきっとぼくが思春期であったからだろう。この豊かな大地を目の前にすると、ぼくたちの先祖がこの土地に移り住んできた理由もよく分かるのだ。ぼくらは、戦時下であっても、それでもここに生きることが幸せなのだろう。
【2】
「これが、ガツっていうやつね」同期の室谷が箸で肉片をつまみ上げた。室谷は小太りで顔は醜く、俺と同じ26歳には見えないくらい老けていた。眼鏡のつるが頬の肉に食い込んでいるのに、やたらと眼鏡がずり下がり、それを突き立てた中指一本で鼻の上まで押し上げるという、とてつもなく冴えない癖があった(以前、室谷は中指を立てるこの癖により外国人に絡まれたと言っていたが、俺がいくら指摘しても「癖だからな」と言い、治そうともしなかった)。
「ガツなぁ、豚の胃だろ」と俺は鍋の中で火の通った臓物を箸で引き上げると、そのまま口に運んだ。
「豚の胃を、人の胃で消化するっていうパラドクス…だなぁ、これは」と室谷は卑屈に笑いながら、草食動物がするような奇妙な咀嚼を繰り返した。「どこがパラドクスなんだよ」と俺は思ったが、面倒になりビールで咀嚼したガツを胃の中に流し込んだ。「これはな、ポン酢で食べるんだよ」と室谷は笑った。
俺の同期は、この室谷を含め10名居たが、その数字を保ったのは最初の数ヶ月のみ。月に一度は同期で集まろうと新人研修の後に誓い合ったが、数年間で次々と辞職していった。ここまで残ったのは、俺とこの室谷のみ。
室谷は、よく自分で「体育の授業でペアになる相手が見つからず残された同期たち」そう表現したが、俺は室谷に対し「あぶれ者」同士の親近感を感じていたのは確かだ。
室谷はまめな男で、月一の同期会を約束通り、欠かすことなく律儀に開催し続けてきた。ついに2名だけとなった今月の誘いにまで室谷は「同期会」という題名をつけてメールを送ってきた。そのあたり、室谷の不器用さが見て取れたが、同時にそこが室谷の「良いやつ」と思える要素でもあった。
「いつかはこうなるとは思ってたんだが。正直なところ、まさかお前とふたりで残るとは思っていなかったよ。みんな辞めちまったなぁ」と室谷は遠い昔を振り返る高齢者のような表情で言った。ある同期は、過敏成長症候群が悪化し満員電車が耐えられないと俺に漏らした後、そのまま姿を見なくなった。別の同期は、北海道の果てにある工場へ転勤を命じられた数分後、上司と激しい口論となり、その後の出来事は社内で強めの箝口令がしかれたため不明だが、結果として「居なくなった」。
退職理由などは退職者の数だけあるはずだが「書き置き」には皆「一身上の都合」としか残さないものだ。会社員の終わりは、誰もがあっけない。
「サラリーマンって、やばいよな」と室谷はぐつぐつ煮えたぎる鍋を眺めながら言った。室谷はうちの会社の開発職だが、営業部に配属となった俺にはいまいち「やばい」が何を意味しているのかがわからなかった。しかし、俺も室谷の言葉から連想できることがいくつもあり、黙って頷いた。
「俺はおかしくなってしまったようだ」室谷の眼鏡はみるみるうちにずりさがってきた。酒がまわってきたのだろう、室谷は赤ら顔だった。
「何か悩みでもあるのか?」と俺は中指を立てて眼鏡を押し上げる室谷に訊いてみた。
「わからん、俺は何で満員電車に揺られてるのか。で、日々生きるための糧を死ぬ寸前まで働いて、そうまでして稼いでいるのだか。俺には嫁も子もいない、まぁお前もだがな。俺がしていることは一体何なんだ。何をしているんだ?」室谷は俺の目をじっと見つめながらつぶやき、咀嚼を止めた。
鍋の中では沸騰した湯の中で、数種の臓物が組んずほぐれつしながら、のたうち回っていた。
「お前はどうなんだよ、営業は」と室谷は顎を俺の方に突き出して言った。
「お前に分かるかどうか知らないが、営業は死ぬほど大変だ。俺は毎朝、何をしていると思う?小便に行くよりも先に胃痛にのたうち回るんだぜ」これは大げさに言ったわけではなく事実だった。俺は毎朝、胃痛をやり過ごしてからベッドを立ち上がっているのだ。
「…お前も大変なんだな。それは、胃潰瘍かもしれんな」と室谷はやや心配そうな目になった。それから小さな声で「俺もね、もうすぐバイバイするかもな」と独り言のようにつぶやいた。
酔いが進みすぎたのか、すっかりと無口になってしまった室谷を前に「まぁ、俺も病院に行ってみるから。暗い話はもう止めて飲もうぜ」と俺は明るく振る舞ってみせた。
「胃潰瘍ってなぁ。人の胃に人の胃が消化されるっていうパラドクスね、冗談じゃねえぞ」と室谷はまた卑屈な笑みを浮かべていた。「どこがパラドクスなんだよ!」と今度は口にしてみた。室谷の目は濁り、死んでいるように無表情になっていた。俺は室谷がビールの飲み過ぎで、酔っているだけかと思った。
そして、俺ももうすぐつぶれるかもしれない…と少しだけ思った。身体がゆっくりとずり落ちていくようなこの感覚。座席からこぼれ落ちていきそうな自分の意識を、必死でつなぎとめた。
【3】
以前、先祖から語り継がれてきた言い伝えを母から教わった。
以下のようなものだ。
大昔、ぼくらの先祖はこの世の外側から洪水に乗ってやってきた。もともと居た外の世界は”太陽”という絶対神がいて、”光”という触手を使って悪行をしたものを裁いていたそうだ。罪を背負ったぼくらの先祖は、絶対神の目を逃れながら日陰の海原で暮らしていたが、ある時起きた大洪水によって、ぼくらはこの”光”の届かない世界にやってきた。”光”の届かない世界に逃げ込んだ先祖たちは、この土地を開拓してきた。その末裔がぼくたちだ。
これは、本当のことか誰もしらない。
【4】
26歳にして初めて、胃カメラを飲むこととなった。
俺の喉から口元にかけて麻酔薬により麻痺し、半開きの口からは牛のようによだれが垂れてくる。俺は、それをティッシュペーパーでぬぐい続けた。
落ち着くために、鼻から空気を思い切り吸う。どの病院の待合室も似たようなにおいがする。生へ向かおうとする動物特有の本能的なにおい、身を清める神聖なイソプロパノール臭。そして死臭に加齢臭。さらに総合病院というのは、湿布のにおいや接着剤のにおいまで混じる。決して心地の良いものではない。
俺は茶色のビニールで覆われた長椅子で、口元に唾液を吸い取ったティッシュペーパーを当てながらテレビでボクシングの試合を眺めていた。先日の室谷の言葉で、自分の胃の奥に居座った姿の見えない病への恐怖心が芽生えており、その不安はついに俺を病院に向かわせた。
俺はテレビに映ったボクサーの動きだけを、試合内容を理解しようともせず眺めていた。ボクサーの軽快な身のこなしを眺めながら「殴り合い」と「報酬」の関係性を探っていたのだ。ボクサーの繰り出すストレートの影で、室谷のあの晩の陰鬱な表情は何度も頭に浮かんだ。
そんなことばかりを考えていると、いつのまにか胃カメラの準備が完了していた。俺の名を呼ぶ女性看護師の声にはっとさせられた。
俺は口元のティッシュをゴミ箱に捨て、検査室の中へと進んでいく。
「あれが苦痛と名高い胃カメラか」
検査室のベッドの横では、白衣をきた初老の検査技師が先端の光る蛇のようなチューブを手に持っていた。あんなものを飲み込めるものだろうか。
ベッドに横になり、手足の自由を奪われると、まるでこのまま海に投げ捨てられるような気分がした。これが「覚悟」というものだろうか。
検査技師は、蛇遣いのように手慣れた手つきでチューブの先端を動かすと、俺の食道にするすると潜りこませた。チューブは想像以上に素早く胃を目指して進んでいった。
俺は悲鳴を上げたくなった。
【5】
珍しく空襲がしばらくなかったので、ぼくたち家族は気が少し緩んでいた。頭上に目をやった時は、既に何かが遠くからこちらに向かってくる所だった。「あれ何?」と妹は驚きの声をあげた。最初は青白い小さな点だったものは、みるみると大きくなっていった。
気づけば周囲は一面見たこともない何かがべったりと貼り付いていた。身をよじり、何度も払いのけようとしたが振り飛ばすことは不可能だった。
それはぼくらが初めて体験する”光”というものだった。
離れた場所に居た母と妹の頭上では、青白い光を放つ火球のような物体が上下左右に素早く揺れていた。ふたりの身にもやはり光はまとわりついていた。
「母さん、こちらの壕に潜って!」ぼくは叫んだ。母は妹の手をとり、ぼくの方へ走ってきた。その間も火球は何か獲物を探しているようなそぶりを見せた。
「ふたりとも無事?」壕に飛び込んだ母とぼくら兄妹をそれぞれ目を見つめ合い、無事を確認しあった。不思議なことにまとわりついた光は、壕に潜り込んだ後すべて消え去っていた。
「気分はどう?身体、痛くない?」ぼくは母と妹にきいたが、身体への影響は何も自覚できなかった。「敵の新型兵器に違いないわ」母は震えながらつぶやいた。
そこで妹ははっとして「ちがう、あれ太陽!」と叫んだ。
ぼくも、はっとした。ぼくたちの先祖から受け継がれた伝説に出てくる、強烈な光を放つという「太陽」。今、頭上をうねる物体その特徴に合致している。罪を背負った先祖を追いかけて、ついに太陽がこの世界にまでやってきたのだろうか?
ぼくたち家族はこれから起きることを思い、しばらく震えが止まらなかった。
【6】
「やはりピロリ菌ですね」
胃カメラで胃壁に何らかの形跡が見つかったため、医師はその場で病名に対する決定打として血液検査を行った。血液中にピロリ菌に対する抗体が見つかったわけだ。
「ピロリ菌…ですか?」胃潰瘍を覚悟していた俺は、そんな響きの言葉が出たことに力が抜けた。
「胃の中にいる細菌です。最近の若い方の感染は減ってきているんですが、たまに出ますよ。井戸水などから経口感染すると言われています。お生まれはどちらで?」医師は俺より5つ6つ年上だろう。神経質そうにセットした髪型と、白衣の襟元からのぞくシャツのストライプ柄は、都会的な雰囲気を感じさせた。
「栃木の山奥です。確かに祖父母の家が井戸水でした」田舎生まれを馬鹿にされているような気もしたが、俺の育った環境は平成の生まれとは思えぬほどの田舎であったのは事実だ。医師は「やはり」とでも言いたげに頷いた。
「胃潰瘍、十二指腸潰瘍、ポリープなどの発症原因にもなりますからね。今日からお薬を飲んでください」
「しかし、不思議ですね。細菌ということは、生き物でしょう?胃酸は強い酸ですよね?その中で生きられますか?」俺は自身がさんざん苦しめられた胃酸の海に生きる生命の存在を疑った。
「70年代までは医師もそう信じていました。80年代の初めに発見されたんですけど、発見者はさぞ驚いたことでしょうね」医師は手元の紙に落花生のような形を描き、その先端に数本の長い毛のような曲線を足した。それは長い髪を振り乱した太ったのダンサーのようにも見えた。
「これがピロリ菌。おっしゃるとおり胃酸が周囲にあるのですが、こいつは自分のまわりに酵素を出してるんです。そうして胃酸を中和して消化されないようにしているんです。いわば酵素の”防護服”を着ているようななものですね」医師は落花生みたいな絵の周りに波線を描き、防護服を表現して見せた。
「大量の胃酸はこの菌にも、たまらないわけですね。だから、胃壁の隙間に潜り込んでやり過ごしたりするんですが、そうされると今度は人間の方がたまらない。その酵素がアンモニアに変わるので、それで胃がやられてしまうというわけです」医師は淡々と解説した。もう何十回とこの図を描き、同じ台詞を言ったのであろう。俺はその口調にえらく納得し、そしてピロリ菌の「生活」が胃の中にあることに感心した。
「わざわざ胃の中で生きることもないのにな」と俺は口に出して言ってみたが、医師は時計を眺め、そろそろ診察を切り上げたそうだった。
「薬を処方します。クラリスロマイシン、アモキシシリン、ランソプラゾールの3種を朝、夕の食後に飲んでください。良いですか?一週間の間、飲み忘れだけは避けてください。必ず飲んでくださいね」俺は念を押された。
処方された薬について、帰り道にスマートフォンで調べてみた(俺は服薬前には必ず詳しく調査することにしている)。クラリスロマイシンはピロリ菌の増殖を抑える薬、アキモシシリンは、ピロリ菌の細胞膜を破壊し死滅させる薬、そしてランソプラゾールは胃酸分泌をほぼ完全に停止させ前述の薬による殺菌効果を高める薬だ。
受け取った飲み薬の重さは、ピロリ菌の命の重さを感じさせた。彼らを確実に殺戮する兵器を俺は手にしている。
ピロリ菌はさぞ恐怖していることだろう。いや、まだこの事実を知らないで呑気に胃を漂っているのだろうか?
【7】
あれ以来、太陽は二度とぼくらの前に姿を現さなかった。ただ、太陽の出現をきっかけにぼくらの生活は一変していた。
数日前、敵はついに”新型爆弾”をぼくらの頭上に投下した。敵は効率の上がらなかった通常の空襲を止め、ぼくらを確実に殺せる新兵器に攻撃方法を切り替えたようだ。これまで空襲のあった時間には、代りに恐ろしい爆弾が投下されるようになった。
爆弾は空中でばらばらになると、周囲に毒薬を飛び散らせた。毒薬は地面の上を流れ、防空壕の中まで流れ込んできたが防護服は役立たなかった。防護服は毒薬に触れると瞬時にシュウシュウと音を立てて穴があき、素肌は変色しながら傷ついた。そうして多くの者が絶命していくのを見た。
最初の爆弾投下の際に「この世に終わりが来た」と誰かが叫んだ。声の主は誰だったか今もわからない。悲しいことに、それが母だったかもしれない。妹の手をとる隙も、母の姿を確認する余裕すらもなかった。母と妹とぼくは、その時にはぐれてしまった。
ぼくは、ひとりで荒野をさまよっていた。すっかりぼろになった防護服を身につけ、裂け目からのぞいた素肌はどこも黒く変色していた。痛みはぼくの身体の輪郭線をなぞり、全身の今の形状をはっきりと想像させた。一歩進むごとに、ぼくの身体は少しずつ歪に変形していくのがわかった。
「神様は、なぜぼくたちにこんなひどい仕打ちをするのだろう」ぼくは幾度も絶望しかけた。向こうに見える少しだけ盛り上がった丘は、いつもよりも何十倍も遠く感じられ、先ほどから少しも近づいている気はしなかった。
この世から空襲警報を告げる声も、手をひく妹の可愛らしい声も、母の温もりも消えてしまった。
ぼくらの先祖がいた外側の世界、その空間的な広がりと、自分自身に受け継がれてきた先祖の意志を感じ取りながら、ぼくは倒れ込んだ。
「生きたい」と思った。
「ついに、ぼくの番がやってきた」
【8】
胃カメラを飲んでから一ヶ月後、俺は再びあの待合室にいた。呼気検査で、一週間飲み続けた薬により殺菌に成功したかの診断を受けるためだ。
前回の検査に比べると呼気検査でやることはあっけなく、ビニール容器を息で膨らます程度で終わった。
毎朝の儀式のような胃の苦しみはいつのまにか和らいでいたので予想はついていたが、「ピロリ菌」の死滅を確認したと例の医師から告げられた。
「ありがとうございました」診察室から出て扉を閉める間際、奥から看護師の声が聞こえてきた。
「先生、今、電話が入りましたよ。お子さん生まれたそうです」
「そうか。ありがとう」ちょうど扉が閉まり顔は見えなかったが、医師の明るい声が聞こえた。
病院を出て携帯電話の電源を入れると、ちょうど電話が鳴った。
スマートフォンの画面に表示された文字は「会社」だった。
電話に出ると「何度もかけたんだが、今大丈夫か?」と俺の上司の声がした。
いつもお調子者のような声を出す上司だが、淡々とした口調で重く感じられた。
「君の同期の室谷が死んだ。あまり大きな声で言う話ではないが、今朝、電車へ飛び込んだそうだ。今晩、通夜だから急ぎで帰社してくれるか」
「残された同期たち」が意外な形で解散した。電話を切っても、突然の出来事にしばらくは頭の整理がつかず、俺はあらゆる言葉を探していた。
そして、はっとした。室谷が先日言っていた「バイバイ」の意味がやっと分かったからだ。
俺は手帳を取り出し、今日の欄に「室谷、」と書いてみた。
そして、あの晩の室谷のことをしばらく思うと胸がぐっと苦しくなったが、続けて「戦死」と書いて手帳を閉じた。
室谷も俺も、この世の誰もが、きっと何かと戦って生きている。それがどんな敵かもわからずに戦っている。室谷は「戦死」したのだ。
この世を去るのに様々な理由はあれど、人は皆表向き「一身上の都合」で去っていく。
「生きるために死んでいくって、これパラドクスだよ、なぁ室谷」
俺は病院から駅に向けて走っていった。
駅までの道のりが、今日はなぜか長く感じた。