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野ウサギと鈍間な是定

作者: 雨ざらし。

 私は前夜に仕掛けたくくり罠の様子を見に山へ参りました。道の途中で柘榴の実をひとつちぎって、一粒一粒を指に摘まみながら、二〇分ばかしの時間をかけて大事に腹の中に納めてゆきました。

 倒木に仕掛けたくくり罠には動物は掛かっておらず、思い付きでケモノ道に仕掛けておいたくくり罠の方へ足を向けました。

 ケモノ道に仕掛けたくくり罠には野ウサギが掛かっておりました。ワイヤアが首に食い込んでおり、とても苦しそうでありました。しかし野ウサギは慌てる様子も無く、深い山の中で堂々と鎮座しておりました。




「是定、是定、次はお前の番ぞ」岩倉はそう言って、握っていた平たい石を私に握らせました。

 私は酷くぎこちの無い動作で振りかぶり、川へ石を投じました。川面は白い飛沫を立てて、私の投じた石は二度と浮かんで来る事はありませんでした。

「つまらんのう、頓馬の是定はもう水切りなんぞ辞めさらせや」私を取り囲んでいた級友達は、思い思いにそんな科白を口にしました。

 岩倉は「もういっぺんやってみいや、腕を水面と平行にして投げるんぞ」と、も一度私に石を渡しました。

 私はふたたび振りかぶり、思い切り腕を降りました。石は変わらず川へ飲み込まれ、ぽちょんと言う音だけが耳に届き、酷く惨めな気持ちだけが後に残りました。


 私の幼時はこのように愚鈍で些末な想い出に依って構成されております。級友達は私の事を偏に、頓馬、鈍間と罵り、肩を小突きました。

 その中で岩倉だけが、川面に反射する光のように笑って、小突かれ慣れた私の肩に優しく手をおいて笑いました。


 一二歳にもなると、女に興味を持つ歳になります。私もそのひとりで、夜な夜な月明かりで教科書を透かし見ながらも、考えるのはいつも女の事ばかりでした。

 ある時分に河原で岩倉と水切りの訓練をしていると、頬の赤い女の子が土手の上から岩倉の名前を呼びました。

 女の子はお提髪を指でいじくりながら、白くてちいさい手を岩倉に振りました。岩倉は、ふん、と鼻を鳴らして、少し恥ずかしそうに手を上げ、直ぐに川へ向き直りました。

 幾日か過ぎて、私と岩倉はイモリのおたまじゃくしを捕りに池へ行きました。この頃の話題と言えば、やはり女の事ばかりで、岩倉は「フミちゃんと仲ようなりとう無いんか」と私に聞きました。私は素っ気なく「べつに」と答えて、岩倉の言葉を待ちました。

「おいはキミに大人んなったら一緒になろう言うたよ、ほんで終ぞ手を握ったんぞ」岩倉はそう言って、また恥ずかしそうに額の生え際をごしごしと爪で掻きました。池に片足を入れて水面を掬うと、手の中にはイモリのおたまじゃくしが二匹も泳いでおりました。

 私はこの時、岩倉が遠い何処へ行ってしまったと言う心持ちになって一寸寂しいような気になったと記憶しております。


 一三歳になる前に、岩倉は東京の市ヶ谷台にある陸軍予科士官学校へ入りました。私たちはその時別れ別れとなって、以後二度と会う事はありませんでした。

 私は産まれながらに体も弱く喘息気味で、一七の頃には女、子供に混じって岡山県の山奥へ疎開し、終戦までを過ごしました。

 このように岩倉はいつも私の先にあって、背中も見えないほど遠く向こうへ行ってしまうのでした。


 それから幾十年と過ぎて、かつての級友とばったり顔を合わせた折に、ふと岩倉の話題が飛び出しました。

 岩倉は終戦後、アヘンのやりすぎで気が可笑しくなってしまったと、私は聞かされました。

 岩倉は真昼間から酒とタバコとアヘンに明け暮れ、仕舞には列車に飛び込んで、小間切れとなって死んでいったそうです。

 私はこの時、とても可笑しくて腹を抱えて笑いました。級友は気狂いでも見るような目で、私から一歩ほど後退りして、諂うような顔を向けるのでした。




 私は野ウサギの首からワイヤアを外してやりました。野ウサギは逃げ出す事をせずに、いつまでも私の顔を見上げて、鼻を動かしておりました。

 私は立ち上がり、しっし、と向こうへ手を払い、野ウサギを見下ろしましたが、それも無駄な事でした。野ウサギはただ黙って、地面に腰を下ろすのでした。

 私はいよいよ堪らなくなり「おいの見えんところへいけ! おいの見えんところへいけ!」と叫んで、とうとう泣いてしまうのでした。

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