悪
目を覚ました時には全身を包み込む濁流の冷たさからは開放されていた。それどころか温もりさえ感じる。
真っ白な天井に、右手方向には窓、左手にはカーテンが天井から床まで伸びていた。
(どこなんだ……?)
現状を飲み込めない秋作は、ここがどこなのか把握する為に起き上がろうと膝を曲げた。
「いっ……!」
何とか堪えたが右足は痛む。思い返せば、記憶が飛ぶ前に暴力団関係者だと思われる三人組に追われた上に発砲され、その上川に飛び込んだんだ。
秋作は痛む足に注意を払いながら慎重に状態を起こし、ベッドから足を下ろして立ち上がった。
やはり寝起きと、右足の不自由という事もあり多少よろけたが、ベッドの手すりにつかまり、窓辺で体を支えながら壁沿いに歩いた。予想が正しければあのカーテンの奥にはーーー。
秋作はカーテンをくぐり抜けると、予想通りドアがあった。
(病院なのか?)
心の中で安堵しながら取っ手に手をかけようとしたが、その前に勝手に扉が開いた。病室のドアは自動ドアじゃないはず、そう思い一歩下がるとドアを挟んで向かい側に看護師の女性が現れた。
その女性は秋作と目を合わせると酸欠の魚のように口をパクパクさせて何か言いたそうにしている。
「あ、あの」
秋作の方から声をかけると女性は百八十度くるりと周り、早足で駆けていった。
あの女性が何を言いたかったのかは分からなかったが何をしに行ったかはなんとなく理解できる。なのでもう一度ベッドに戻ることにした。
ベッドに戻ってから五分程経った頃に、こんこんこん。
三回のノックの後に聞きなれた声が聞こえてくる。
「どうぞ」
秋作の声が響き消えてゆく時、スライド式の扉が開いた。
足音が室内に聞こえ、カーテンを少しずらして入ってくる人はーーー秋作の上司である山崎鹿倉だ。
「……で、なんでこうなったんだ」
「先輩が来て下さるなんて、珍しいですね」
「アホか、最近肩が凝ってな。それを治しに来てんだよ」
鹿倉は近くにおいてあった椅子を器用に足で寄せると腰を下ろした。
「さてと、どうしてこうなったか説明してもらおうかな」
秋作はベッドから身体半分起こして、口を開いた。左隣に座っている鹿倉は怪訝そうに眉根を寄せながら、時折うなずいていた。
雨の日、暴力団関係者、淀元市長、さらに撃たれたことと一通り話終えると今度は鹿倉の方が口を開く。
「そっか、それは災難だったな」
「災難なんて言葉で終わらせないでくださいよ」
その言葉で終わらされると興味本意から始まったとはいえ、集めた情報と努力を無下にされたような気がして多少腹が立った。
「まあ待て待て、終わらせるつもりは無いさ。淀元の件なら知っていたさ、いや、知っている……かな」
「それはどういう……?」
「淀元市長は就任から約十年その地位を絶対なものにしているのは分かるよな?俺の先輩もそれを追っていたんだ」
定年を迎えて秋作が入る前に辞めたという鹿倉の先輩が追っていたヤマ。
鹿倉の先輩が残していた資料は少ないというが、まさかーーー。
「先輩もそれを?」
「そうだ。俺は先輩から託された資料を元に当たれるだけ当たってみたさ。でも結果は惨敗、先輩でも突き止められなかった事だ、簡単じゃないって事は分かってたさ」
鹿倉は足を組み替えて顎に手を当てる。
「それでも時間がかかってでも淀元の悪事を突き止めてやろうと思っていたのさ。そこで本題なんだが」
鹿倉は身を乗り出し、秋作に顔を近づける。
「生憎ここにはその淀元が入ったっていう建物を偶然にも目撃してしまった一警察がいる。警察は市民の安全が最優先、分かるな?」
遠まわしな言い方だが、これが分からない程馬鹿な秋作ではない。
「はい」
「このヤマはデカイぞ、それに秋作、いや俺の警察としての今までやこれからと比べても一番になるだろうな。それでも付いてきてくれるか?」
「当たり前ですよ。市民の安全が最優先ですから」
秋作は強く言うと鹿倉は頬を緩めた。
「じゃあまずはその怪我を治すことからだな」
そう言うと椅子から腰を浮かせて背中を向けていた。最後は声を出さなかったが右手を上げて左右に振りながら、鹿倉は部屋を出ていった。
が、それから一週間。無事に退院できて職場復帰をしたと思ったが鹿倉からは何一つ話が無かった。
「最近大きな事件起きないな」
懐の不謹慎な言葉に秋作は半眼を作った。
「いや、横浜ほどの規模の街なら小さくても何か起こると思うんだけどな……お前が入院してからとくにこれといってな」
「その言い方だと僕が悪い感じじゃないか」
「いやいや、そんなこともないけど」
「とかいいながら心の中ではそんな事を」
「いやいやいや、ないとも」
懐は両手を小刻みに振りながら首も振り、身体を使って意思表示をしていた。
「さて書類片付けたら上がりますか」
そう言って左隣からはキーボードを叩く音がカタカタと聞こえてくる。短い休憩をとって最後の仕上げをしにかかったのだろう、秋作も負けじとパソコンとにらめっこをした。
昔から負けず嫌いな秋作は運動でもゲームでも何でもとにかく勝ちにこだわった。
が、運動は得意だが事務関係は懐には及ばず、懐が仕上げてから三十分も経ってしまった。
「づかれだぁあ……」
「お疲れさん。まだ時間もあるし飲みに行かない?」
打ち込みに夢中だったので時間なんて見てなかったが、左手に目をやると時計の長針は午後六時を指していた。
「そう……だな、久しぶりに行こうかな」
秋作はパソコンの電源を落とし、鞄とスーツを持って立ち上がる、その時。
「いや、今日は俺とでいいか?」
久しぶりに聞く、早く聞きたかった少し低い声が聞こえてきた。
振り返るとそこには鹿倉が立っていた。
「お久しぶりです」
「そうか?すまんな善門」
「いや、大丈夫っすよ。よく考えれば家帰って金魚に餌をあげないといけないんで」
言い終わると懐は席を外した。
「それじゃ行こうか」
署から出てタクシーを拾い、鹿倉の行きつけだという店へと向かって行った。
「先輩、あの話なんですけど」
「着いてからにしよう」
鹿倉の顔は少し強ばっていた。それは本題に切り込んだのが早かったからなのか、軽く頬が引きつっていた。
秋作は失礼を承知だが、今日は遅くなるとだけ弟にメッセージを送ろうとスマホを鞄から取り出した。
最近新しくしたスマホだが、すぐにもどこか調子が悪い。スマホでゲームをする事は少ないが、よく画面がフリーズしたり、目的とは違うアプリが起動することが多々ある。
秋作はスマホを両手で抑え、文字を打つ。
[今日は、上司と飲みに行くので遅くなります。]
そして送信ボタンを押す。が、送信は出来なかった。いつもの如くフリーズしたのであった。
早いが流石にここまで使いづらいとなると変えざるを得ないだろう。
秋作は電源ボタンを押し、ケータイを鞄に閉まった。その時に通知音なのか ピロン と音が聞こえたのは無視をした。
タクシーが止まったのは見た目怪しげなバーの前、タクシーを降りて鹿倉についてバーに入っていく。
扉を開けるとアルコールの匂いを漂わし、薄暗い中でマスターの掘り深く強面の顔が際立って見えた。
秋作は飲みに行くと言われててっきり居酒屋などを想像していたので、居酒屋とはまた違った空気に少し緊張していた。
「鹿倉じゃないか、久しぶりだな」
そう言ったのは強面のマスターだ。手元を見ずにグラスを拭きながら視線は鹿倉の方へ向いて話しかけてきた。
だが、一見どこにでもあるバーの中の、何気ない話しだが、秋作は何か違和感を感じた。
「あいつと話があるんだ。奥は空いてるか?」
鹿倉は後ろにいる秋作に親指を向けてそう言った。
「わかった」
マスターは拭いていたグラスをテーブルに置くと、ポケットから鍵を取り出して鹿倉に投げ渡す。
中を舞う鍵はチャリンチャリンと音を立てながら丁度鹿倉の手元へと届いた。
鹿倉は鍵を受け取ると秋作についてくるように言い、バーの奥まで歩いていく。カウンターを大きくぐるっと周り、奥の扉の前に立った。
鍵は二つ付いていたが何度もこの部屋を利用した事があるのか、それとも運が良かったのか片方の鍵を鍵穴にさして回すと ガチャ という音が聞こえた。
扉を手前に引き鹿倉から入って行く。部屋の中は狭過ぎず広過ぎず、カラオケボックス程の広さだ。この部屋にアルコールの匂いは無くーーーいや、少しはあるのかもしれないがバーの中を横切ってきた後では微量なアルコール臭は感じられなかった。
だが、ほこり臭いわけでもなかった。頻繁に使われているのか、マスターの手入れが行き届いているのか、どこか清潔感がある。内装は壁沿いにソファーが連なっており中央にはテーブルが置いてあるシンプルな作りだ。
「適度に座ってくれ」
「あ、はい」
秋作は鹿倉が腰を下ろした向かい側に座り、持っていた鞄を足の横に置いた。
「やっとまともな話が出来るんだが、これからこの件について詳しい奴が来る手はずになってるから少し待ってくれ」
「探偵とかの人ですか?」
「探偵ではないけどな、まぁ何か頼んでくれ今日はおごりだ」
そう言うと鹿倉はテーブルの中心に置いてあったメニュー表を手渡してきた。開いてみると知っている酒もあるが、殆どが飲んだことのない外国の酒が載っている。
秋作は基本的には安い焼酎かビールしか飲まないので今日は挑戦してみようと思った。
「僕はこのコニャックにします」
「お、初めから飛ばすねぇ。じゃあ俺も同じで」
この部屋には電話が付いており、それを使いマスターに注文をするのだとか。ここをバーと知らなければカラオケボックスと勘違いするだろう。
数分鹿倉とは話が無く沈黙が過ぎ去った時、唐突に扉が開き鼓動が早まるのを感じた。
「お待たせしました。コニャックです」
扉を開けたのは探偵?では無く、マスターだった。マスターは片手にコニャックの入った瓶とグラスを二つ盆に載せて持ってきた。
グラスとコニャックをテーブルに置くと何かを察していたのかマスターはそそくさと立ち去っていった。
「さて、飲もう」
鹿倉は置かれているグラスにコニャックを注ぎそれを秋作の手前に置いた。その次に自分の分も注ぎ片手に持ち上げる。
「それじゃ乾杯」
「乾杯」
乾杯というごく普通の掛け声と共に鹿倉のグラスを自分のグラスで小突くと秋作はグラスに口を付けた。
一口飲むと、口いっぱいに広がるアルコール臭、飲み込むと乾いた喉が焼けるような熱さに襲われる。その後鼻から抜ける香りは芳醇なものだ。
美味しい、そして癖になるが、初めからこんなに度数の高い酒は飲むものじゃなかった。
もう一度コニャックに口を付けようとした時、ノックする音が聞こえた。マスターかと思ったが酒以外は注文していないので、探偵?の人が来たのかと思い、秋作は少し表情を強ばらせた。
「どうぞ」
と、鹿倉が声を発してからワンテンポ遅れて入ってくる人物、それは馴染みがあり、そしてこの件の最重要人物。確かにこの人は誰よりも詳しい。
そう、今扉を開けて入ってきた人物は淀元市長その人だ。
「なん……で……」
「こんばんは」
この状況は秋作の頭では処理しきれなかった。淀元市長が裏で繋がっている事を暴く為に助っ人ーーーそれに何故こんなにも笑顔なのか。悪さをしていて警察を前にして何でこんなに笑顔でいられるのか。
分からないことだらけで、それを分かろうと思考速度を上げて考えている時、口を開いたのは鹿倉の隣に腰を下ろした淀元市長の方だった。
「君が春風君でいいのかな?」
「は、はい」
反射的に反応してしまったが、一旦考えるのを止めて淀元市長の話を聞いてみる。
本人から聞く方が早いからだ。
「君は私が暴力団と会っていたのを見たらしいね、本当かい?」
質問は簡単だ、だがその答えを言って良いのか自問自答を繰り返していると淀元市長はスーツの内側に手を伸ばし秋作にとっての勇気の象徴ともいえるそれを取り出した。
「何でそれを持っているんですか」
「うん?今質問してるのは私の方なんだが」
淀元市長はニヤニヤと口の端を釣り上げながら喋る。
言ってやりたい事は山ほどある、だが秋作はギュッと握り拳を作るだけで留めた。
この状況が分からない程愚かではない。拳銃を取り出した淀元市長が不敵な笑みを浮かべているのは秋作が、変な動きをしたら撃つつもりなのだろう。
片手で持てるだけの小さな武器だが、そんな小さくても銃は一つあれば人を強くする。
ここは大人しく喋った方が賢明だ。
「見たのは本当です」
「そうかぁ」
淀元市長はため息混じりに吐き、つまらなそうな顔をして話し出した。
「やっぱりまだ甘かったのか……まあこれも勉強かな。それよりも、君はこの状況をどう思う?」
この状況、一見すれば淀元市長が拳銃を秋作に突きつけているようだが、淀元市長が腰を下ろしている隣にいる鹿倉もグルだったはずだ。でなければここで二対一でお縄に掛けているはずだからだ。
そうなっていない事を見るに鹿倉もグル、二対一で圧倒的不利な状況ということだ。
「淀元市長が先輩とグルだったって事ですよね」
それを聞いた淀元市長は顎にもう片方の手を当てて少し考え込み、そして口を開いた。
「少し違うね。確かに鹿倉君が内通してた事は合ってる、けど君は大きな見落としをしてるんだよ」
「大きな……?」
「そう、ここのバー。ここは私の知り合いが経営してるんだ。君はここに入った時から既に詰んでたんだよ」
「……そう言うことですか」
確かにこの店に来てから違和感を感じることが多々あった。思い起こせばおかしい点が次々と出てくる。
まずここに入った時のマスターとの会話。久しぶりに来る店で大切な話をするか?それに鍵を開けた時、運がいいだけかと思ったが久しぶりこの店に来るというのが嘘なら合点がいく。
「そういう事だ」
鹿倉が久しぶりに口を開いたと思えば出てきた言葉は秋作の考えを裏付けるような言葉だった。
「先輩はこんな事をして恥ずかしく無いんですか!!!」
秋作はテーブルを叩き立ち上がる。
だが、鹿倉はまるでゴミ虫でも見るかのような冷徹な視線を秋作に突きつけて話した。
「ふん、恥じらいなんかで飯食っていけりゃ誰だって胸張って生きてるよ。俺は今の世の中でも生きていく力を付けただけだ」
鹿倉には警察官としてのプライドが根底から無かった。顔つきといい言葉といい警察官らしからぬそれは、裏稼業を生業としている族のそれだ。
「こんなことが許さ……」
鹿倉から視線を外さずに訴えかけている途中に、急にめまいに襲われた。視界がぐわんぐわんとうねり、ひざが笑いだす。
ついには足腰に力が入らずに秋作はソファーに倒れ込んでしまった。
「やっと効き始めたか」
その声の主である鹿倉は左腕につけている腕時計に眼を落としていた。
「十五分ってところか」
(十五分?まさか、酒の中に毒が……。だとしたら先輩も飲んでいた、いや、そうか酒を渡してきたのは先輩だからだ)
気付くのが遅かった。普通酒を注ぐなら後輩である秋作がするはずなのに鹿倉の方が注いで渡してきた。その時に毒を盛られていたんだ。
濁流に飲まれた時と同じように徐々に意識が遠のいていく。
最後に見えたのは、勝ち誇ったような顔の淀元市長に、鉄の仮面でも被ったかのような鹿倉の顔だった。




