横浜の警察官
小さい頃に強盗が家に押し寄せてきた事は、今でも鮮明に覚えている。
「お、おい、う、動くんじゃねぇぞ、金目の物は、ど、どこなんだ」
その男はヨダレを垂らし、両目もどこを向いてるのか、完全に可笑しい奴だと一目で分かった。だけど、どうしようもなかった。
今日は平日で父親は仕事中、母親は目の前にいる犯人に刺されて意識不明、そして今ここにいるのは自分と弟の二人だけだ。だから、不用意に動くことができない。
その男は金に目がくらみタンスやら棚やらを漁っている。
その間に弟は警察へと一本の連絡を入れていた。母親のようになりたくないと、死にたくないと恐怖した自分は動けずにいたが、弟は違っていた。
それから数分後には、家の周りでサイレンの音が聞こえてきた。
止まることなく鳴り響くサイレンを聞いた強盗は、すぐさま自分達の元へと駆け寄った。
「て、てめぇらが、呼んだのか?」
「ち、違うよ……」
警察に捕まることを恐れた犯人は、焦りの色を見せながらも怒りをあらわにしていた。
「お兄ちゃん怖いよ……」
腕にしがみついてくる弟を慰めながらじっと堪えた。
だが、男はじわじわと距離を詰めてーーーそして。
「こ、殺してやる!!」
そう言いながら刃物を振り上げた。つい、目をつむってしまった。
斬られる瞬間が怖すぎて、このまま死にゆく自分を想像していたが、不思議と痛みは一切感じなかった。それどころか聞こえてきた音はバンッと日常生活を送っている上で聞くことのない炸裂音。
それに続いて男であろう者のうめき声が聞こえてくる。
「お兄ちゃん」
弟の声で目を開けると目の前には武装した警察官が二、三人立っていた。
「大丈夫かい?」
警察官の声に安堵した弟は泣き出した。その時の警察官は開けっ放しになっていた窓から差し込む逆行に浴びせられ、まるで神か仏か、そう思えた。
それがきっかけで、僕、春風秋作は警察官になった。
三月三日、今日はひな祭りの日であるが署内は騒然としていた。一昨日から六人組の強盗が人質を盾に立てこもりをしているからだ。
署から立てこもり現場まではそう遠くない距離だが秋作は署から動けなかった。いや、動けない理由があったのだ。
昔の事があるとかそんな事じゃない。簡単な話し、秋作は警察になってまだ一年も経ってなく、まだまだ下っ端の秋作を連れて行ってくれるようなぬるい世界じゃないのだ。
「僕だって早く現場に行きたいんだけどな……」
小さく零した言葉は騒がしい署の中では誰の耳にも入って無いだろう。秋作はそのまま目の前の机にうつ伏せた。
「まだ俺達じゃ足でまといだから命の駆け引きには出せないんだよ」
そうフォローを入れてきたのは秋作の左隣の机にいる善門懐。秋作と同じ時期にこの横浜警察署に入ったいわゆる同期だ。
懐の実家はお爺さんの頃からの根っからの警察官家系だ。
「それより、書類の方は終わったのか?」
懐は自分の作業もこなしながら話しかけてきた。秋作には出来ない芸当だ。
「それが……出来た書類を部長に持っていったら怒鳴られて追い返されて……やる気だけ奪われて……」
書類とは、先日立てこもり事件で忙しい中に丁度通りかかったところでひったくりを見つけて検挙したという事だ。
小さい頃から合気道を習っていた秋作からしてみればひったくりの一人や二人朝飯前だった。
「部長は怒らせるとまずいからな……頑張れよ」
小さく励ましてくる懐の言葉を糧に状態を起こし、机に置いてあるノートパソコンへ手を伸ばした。
立てこもり事件が無事に終わったのはその二日後だった。この日はちょうど非番でする事も無い秋作は特に目的もなく一人街を歩いていた。
すれ違う人混みの中、横目に入った光にふと足を止めて視線を送る。そこはどこにでもありそうな個人営業の電気屋さんだった。電気屋さんのガラス越しに見えるのは大画面のテレビに映し出されるニュースだった。
『先日立てこもり事件を起こした犯人が五名逮捕されました。犯人は全員で六名でしたが、田中寺明容疑者は捕まる寸前で自ら命を絶ちました。寺明容疑者を知る人物はーーー』
犯人が捕まり事件が解決した事には素直に嬉しかった。だが、やはりあの時先輩刑事に止められたことが悔しかった。
助けを求める市民を救う事を考えて、自分と同じような不幸を与えないために警察官になったからだ。
ニュースは数分、その後はまた別の話題へと変わってしまった。
テレビから視線を離して歩き出そうとすると、ポタポタと小雨だが降り始めた。
大降りになる前にどこか屋内へ避難しようと走り出した矢先ーーー土砂降りだ。
生憎今日は傘を持っていないので移動は困難を極めた。
タクシーでも拾って帰ろうかとも思ったが、大雨の中傘をさす人に紛れて何処か、見覚えのある横顔の男を見かけた。男はそそくさと小走りに歩き出したのでつい、ついて行ってしまった。
最初は興味本意だったが、ついて行くに連れてどこかで絶対に見たことがある顔だと思えてきた。何か、重要な事だったような……はたまた気のせいなのかは分からないが尾行の歩みを続けた。
ついて行くにつれて徐々に人気が少なくなっていく。これは少しばかり怪しくなってきた。更に尾行を続けると、男はキョロキョロと周りを警戒しているかのように見回して路地裏へと入っていった。
その時にもう一度横顔を見たーーーーその時にようやく思い出した。その男は暴力団グループの幹部の男だった。
暴力団は日頃から市民の害になる行為や密輸なんてざらだ。だが、今ここで捕まえに行っても非番で丸腰の秋作には分が悪かった。もし相手が拳銃でも持っていったら確実に始末されるだろう。ここはもう少し大人しく尾行を続ける事にした。
路地裏に入ると少し進み右へ曲がった。そこからは迷路のごとく行っては曲がり行っては曲がりーーーようやく男が歩みを止めた時には雨のせいで髪はおでこにくっつき、パンツまで濡れていた。
だがそんな事はどうでもいい。男はいかにも怪しい鉄扉の前に立ち三回程ノックをすると何か喋ったように見えた。
数秒間を置いてから扉が開き、中からは横浜に住んでいれば誰でも知っているであろう人物が現れた。
その男は横浜市長の淀元智その人だ。なぜここに淀元市長がいるか……分からなかった。
淀元市長は市民の事を第一に考え最善を尽くそうとしてきた、横浜市民に愛される市長だ。そんな市長がなんで暴力団なんかと……。
気が付けば鉄扉は閉まっていた。ここには何か大きな、秋作一人の手には負えない何かがある、それだけが分かった時、雨の音に混ざりかすかに誰かの声が聞こえてきた。
振り返ると黒服の男が三人程こちらに向かって歩いている。
こんな裏路地に黒服でいるなんて今の状況の中では暴力団以外には考えられなかった。
そして秋作はーーー走った。
それが合図になったのか黒服の男達も走り、追いかけてきた。
秋作は足は速い方ではないが体力には自信があった。警察学校で秋作以上の体力を持っている人は居なかった程だ。
走る、走る。だが雨はより一層激しさを増していく。雨粒のカーテンをくぐり抜け、その先には道路が見えてきた。道路の奥にはにはそこまで大きくはないが川がある。
こんな土砂降りの中を走ったのは小学生以来かーーーなどと余裕ぶっていたがバンッと雨に紛れて懐かしい、古い記憶の中の、秋作の中では勇気の音とも言える音が鳴った。
左脚で地面を蹴り、右脚で踏みしめようとした時にふくらはぎから激痛が走った。
この痛みは今までに味わったことが無いほどの、例えるならば五寸釘でも打ち付けられたかのような痛みだ。
秋作はしっかりと踏めなかった右脚から地面に崩れ落ちていった。
大雨と障害物からトップスピードとは行かなかったが、地面には大雨で水の膜ができており、摩擦力が減ったまま滑りながら転がっていく。
道路に投げ出された秋作は瞬時に道路の端から端まで見渡す。幸い車は一台たりとも走ってはいなかった。
車にひかれて死ぬということは逃れたが、複数の足音が徐々に大きくなり聞こえてくる。
この足では流石に大通りまで逃げるのは難しかった。かといってここで大人しく待つという選択は有り得ない。
車も来ない、人もいない、大通りまでは遠くこの辺りには駆け込めそうな家もない。そうなると次第と答えは限られてきた。
秋作は道路の側にあった川へと右脚を引きずりながらなんとか歩いて行った。
川のコンディションは最悪だ。大雨による鉄砲水、急激に増した水量に土砂が混ざり濁流となって入り乱れていた。
こんな所に飛び込んで助かる気がしないが、今の秋作に出来るのはこれが限界だ。たぶんこれ以上良い案は出てこない。
そして秋作は、意を決して川へと倒れるようにして飛び込んだ。
水流の勢いが早く、混ざるように河口へと向かっていき、洗濯機さながらの混ざり具合だった。
飛び込んだはいいが、流石に息が持たず浮上しようとするーーーが、右脚に濁流がしみて上手く泳げなかった。
(まずい、息が持た……ッ!?)
流れるがままに身を任せていたせいで、勢いに乗った水流に押されて壁に背中をぶつけてしまった。
その衝撃に思わずで肺に入っていた残りわずかな空気を吐き出してしまった。
肺の中身は空っぽで、息を吸うことが出来ない苦しさが襲ってくるーーーが、次第に苦しさも薄れつつ、ついには気を失ってしまった。