回り始める日常
純が家に帰るよりも早く、空はもう帰っていた。
(この鼻をくすぐる香りは……まさか……ッ!?)
純は慌てて靴を脱ぎ捨て、キッチンに走り込むと、エプロン姿の空がそこに立っていた。
「あ、お兄ちゃんお帰りなさい。今日はなんと久しぶりにお兄ちゃんとの晩ご飯ということで……」
空はもったいぶりながらーーー。
「そう!麻婆豆腐だよ!」
(やっぱりか……苦手なのにな)
「お兄ちゃん好きだったよね」
「お、おう大好物だ」
純は笑顔で答えると、空は嬉しそうにお椀にご飯をよそった。その上にたっぷりと麻婆豆腐をかけると、お盆に乗せ自分の分と一緒に机まで運ぶ。
作ってもらっているのに文句を言うのはおかしいが、いつかは麻婆豆腐が苦手だということを言わないといけない。
「あ、そうだ、今日ちょっとばかしお金稼いできてな」
そう言うとポケットから万札を取り出して、テーブルの上に叩きつける。
「ジャーン。どうだ?兄ちゃん一日でこんなに稼いだぞ!」
「そ、そんな大金どうしたの!?まさか……危ないことーーー」
「なわけあるか」
空の想像と言葉を断ち切るチョップをおみまいし、手に入った金はいつも通り、タンスに入っている財布の中に締まっておいた。
「何かあったら使うんだぞ?病気とか怪我とかしたらちゃんと病院いけよ」
昔の空は骨折してるにも関わらず、病院に行かずに我慢し続けたことがある為に念を押しておく。
痛い思いをするのは兄貴の特権だ。その特権のためにも痛い思いや、苦しい思いはなるべくさせたくない。
「私はお兄ちゃんがお料理やお洗濯ができるようになるまで病気なんてできないよ」
空はくすくすと笑いながら純を机につくように促した。
「冷めちゃう前に食べちゃお」
「いただきます」「いただきます」
純たちの家には特にこれといって決まり事は無いが、純が産まれた頃から毎日欠かさずにしているのが、晩ご飯の時だけは家族そろっての挨拶だ。
食事を取る時には感謝の心を第一に。それが両親の口癖だった。
「大海兄ちゃんも早く元気になったら、そしたらまた皆でご飯食べれるよね」
兄妹での三人暮らしになってからも食前の挨拶は怠らなかったが、大海が入院してから二人だけのご飯になって……いや、ご飯の時だけでなく、一人きっりで家にいることが多くなったことも原因で、寂しかったのだろう。空の横顔はどこか、悲しい顔をしていた。
だからーーー。
「治るよ、絶対。兄ちゃんが治してみせる」
だから、絶対に二人でいる時にはそんな顔をして欲しくない。
「えッ!?お兄ちゃんの夢はお医者さんだったの!?」
「そうじゃないけど……まぁ、そんな感じだ!」
心の底からじゃなくてもいい。表面だけでもいいから笑って欲しい。
静かな家に二人の寂しくも賑やかな声が響いた。そして一区切りつけてーーー。
「さて、冷める前に食べるぞ」
そう言いって純は、苦手な麻婆豆腐と、孤独な己との戦いのゴングを鳴らした。
食事を終え一緒に食器洗いをしていると、唐突に空が口を開いた。
「そういえばね、今度参観日があるんだけど……」
純は金の問題上高校に行けてなく、今は仕事もしていないので参観日に顔を出すことは可能だ。
「参観日っていつあるんだ?」
「今日が五月の六日だからその二週間後のーーー」
空は作業を止めて両手を使って数え始める。
必死に数を数える妹を可愛いと思うが、この歳にして手を使っている妹には、少し呆れてしまう。またそこが可愛いのだが。
「五月二十日だな。お前そんなのも指使わないとダメなのか?」
「……算数は苦手なのッ」
空は馬鹿にされたことで、少し頭にきたのか頬を膨らませる。純はその膨らんだ頬を両手で潰すとーーー。
「久しぶりに参観日行ってみようかな」
「本当ッ!?約束だからね!本当は頭が良いってところ見せるんだから」
空は胸を張ると、トンっと軽く叩き自信満々の表情をする。
「それはそれと、服に石鹸が付いたぞ」
「あちゃ、あ、でもお洗濯まだだったから丁度いいかも」
食器を洗い終えると空は洗面所に向かった。
純も空の負担を減らすために、洗濯の手伝いをしようと洗面所に向かったが、空は洗面所に入るとすぐにドアを閉めた。
「お兄ちゃん、見ないでよ……恥ずかしいから」
確かに妹とはいえもう物心はついているの女の子なので、男性に裸体を晒すのには抵抗があるだろう。
金ダンに居た頃は、サウナでよく蓮花と一緒になっていたから気にして……。
(蓮花……な)
今でも鮮明に覚えている。俊哉、それに蓮花を手にかけたことを。そして、思い出すだけで胸がいっぱいになり、苦しくなる。
してしまった過去を消すことはできない。消えない記憶が蘇っていたとき、目尻が熱くなり始める。が、そこで少しドアが開いた。
「お兄ちゃんどうしたの?」
空は身体をなるべく見せないように、顔だけを器用に隙間から出していた。
「どこか具合悪いの?」
「そ、そんなことはないぞ。お兄ちゃんはおっぱいが大きなお姉さんが大好きだから、今はまな板の空でもいつかは大きくなっーーー」
「お兄ちゃんのばかーーーッ!!!」
空の叫び声と共に空の拳が純の顔面に直撃した。
カンカンと鳴る鐘の音が聞こえーーー。
「お、う、いってぇ……。お、お前なら世界チャンピオンも夢じゃないぜ……」
純はボクシングチャンピオンに倒される挑戦者さながらに倒れ込む。普通に痛かった、鼻血が出るし。
純がしたことは決して許されることじゃない。過去は変えることができないが、唯一変えることができるのは未来。その未来を最善に変えるべく修羅を選んだなら、突き進むまでのこと。そう思い鼻血を拭いた。
「そういえばさ」
突然話を切り出したのは浩太郎だった。
「寿音ちゃんとはどんな感じで運命の再開を果たしたの?」
「運命……ね、そうだよな。寿音はーーー」
信志は浩太郎にこれまでの経緯を全て話した。寿音との出会いもだが、金ダンで出会った人と、その人の終わりまで隅から隅まで全てを話した。
「へぇ、僕は実際に行ってないから僕自身の知識と想像になるから違う部分もあると思うんだけど、寿音ちゃんって吸血鬼なんだよね?やっぱり血を吸うの?」
寿音は急にうつむいた。やはりまだ浩太郎のことを信用していないらしい。
「血は吸うけど吸わなくてもいいらしいんだ」
「というと?」
「普通にご飯を食べて生活することもできるってことだよ。けどやっぱり血を吸ったほうがいいらしいんだ」
「らしい ってことはやっぱり寿音ちゃんにちゃんと聞いた方がいいね」
寿音は自分の名前が出た瞬間にびくっとしたが、少し間を置いて口を開いた。
「少し特殊な関係、ただそれだけだから」
「へぇ!そんなに発展してるのか!」
「ちょーーーっと待て!落ち着け、お前の妄想がどこまで進んでるかわからんが、止めろ」
どうにも話が逸れそうなので、寿音との関係も信志が全て話す。あの夜に交わした契約、血を吸うことで力を増すということを。
「なるほどね、てことは寿音ちゃんは信志君とその、特殊な契約みたいなのを結んだってことだね。けどもう戦うことも無いし血は吸わなくてもいいってことか」
「まあそんな感じだ」
浩太郎は立ち上がると三人分のコップをキッチンに持っていく。
「そろそろ寝よう。眠いんだ明日から僕は忙しいからね」
「ああ、つい話し込んだな」
「楽しんでもいいけど僕眠いから静かにしてね」
「おい、待てよ、しないからな?」
「はいはい、わかってるって」
浩太郎は手を振るとリビング横の部屋に入った。
信志と寿音も二階に行き押し入れから布団を引っ張り出すとお互い別々の布団に入り爆睡した。




