プロローグ
少女は幸せだった。大好きな家族に囲まれて、大好きなおしゃべりをして美味しいおやつを食べて、そんな日常が好きだった。たとえそれが偽りの記憶だったとしても、少女の幸せは確かにそこに存在していたのである。
小さな小さな村のはずれ。森への入り口から東へ1キロほど歩いた場所にそのログハウスは建っていた。訪れる人はほとんどない。木漏れ日と小鳥の囀りがとても気持ちのいい場所だ。
近くには川も流れているため水に困ることもない。ログハウスは森の中ということもあり、住人は木の実や狩猟で生計を立てていた。
一家はほぼその森から出ることはない。その一人娘を除いて。
好奇心の旺盛な少女は暇を見ては家を抜け出し村の中心部へと通った。もともと人と関わることの好きだった少女は、そこに友人と呼べる存在も多々あった。そしてそこで森のことを話し、帰宅すると村のことを家族に話した。ほとんど交わることのない彼らの、少女はパイプ役だった。
「ねぇ、ママ?」
問うようにその人物に声を掛ければママと呼ばれた髪の長い女性は優しく微笑んだ。その表情は目に見えなかったが少女には空気でそれがわかった。
彼女の纏う空気はとても穏やかでいつだって傍にいて安心できるものだった。
「どうしたの?」
決して高いわけではない。包み込むようで心地よいその声色に、優しく自らの髪を梳く手。少女は気持ちよさそうに目を細めた。
「あのね、この間作ってくれたラズベリーのジャム、とても評判だったのよ」
ゆらゆら揺れるロッキングチェアに腰掛ける女性の膝の上へ両手を置き身を乗り出すようにして少女は笑って話を進める。話す度に少女の肩口で切りそろえられた髪が揺れる。
暖かな日差しの午後、小さなログハウスに備え付けられた小さなテラス。ゆったりとした時間をそこで2人は満喫していた。
「お友達もね、とてもおいしいって。今度作り方を教えてちょうだいって言っていたわ。それでね、」
ふいに少女の視界がふにゃりと歪んだ。
あぁ、まただ、と少女はその歪んだ空間を見つめた。いつだって、そうだった。それまで構築されていた世界は音を立てて崩壊し、そして少女一人をその黒い空間に取り残すのだ。
「それで……」
そこにはすでに暖かな日差しも、ログハウスもロッキングチェアに腰掛ける女性の姿もない。ただの黒だけがその一面を塗りつぶす。
それでも少女は話を止めることはなかった。支えを無くした身体は地面へと落ち、両手をつく。ぺたりと打ち付けた膝が痛みを訴える。
ついに少女の瞳から流れた涙はその頬を伝い黒い地面へと吸い込まれた。少女の声は、震えている。
「終わらないのよ、きっと。約束、果たさないと」
もう、何度繰り返し見たのだろう。同じ光景を。自分の大好きな空間が崩れ去り、黒い空間になる瞬間を。全てを否定されるような感覚に少女の心はすでに麻痺していた。
「そうよ、約束よ。終わらせるのよ、私……」
少女はその黒い床へと横になった。どこまでも黒が広がり、先は見えない。
「あなたの言っていたことはこういうことなのね……」
そして何度目かの理解をするのだ。自分という存在について、そして自分がどうしてこうなってしまったのかを。
思えばすべて間違えだったのだ。言いつけを守らなかったこと。気づかないふりをしていたこと。きちんと現実を見ることができていたならばこんな最悪にはならなかったはずだ。
少女はいつも自分を責める。理解をして、責めて、そして忘れて思い出す。その繰り返しだ。
「だれでもいいの。お願いよ。私を……」
それ以上は言葉にはならなかった。ただ、とめどなく流れるその涙を少女は拭った。