高天原へ
鬼に襲われた時からどれだけ時間が過ぎたのかわからない。また、狼にここに連れてこられてからどれだけ時間が過ぎたのかもわからない。
武が腕に付けていた時計は、先ほど鬼たちに鎖を巻きつけられて基盤が潰れて止まってしまっていた。それだけの圧がかかったはずだが、武の手首には何も痣などは残ってなかった。
武と狼が歩いていたのは、空に浮かぶ道だった。神社の参道と同じ石畳で、道の幅は二車線道と同じぐらいあって、踏みしめた時の感覚でだいぶ厚さがあるのがわかった。先ほど武が「ここは空の上ですか?」と聞いくと、狼は「違う、ここは高天原だ」と答えて、
「この下の大地は、お前が住んでいたとは違う大地だ」と付け加えた。
空を行く道にも坂道があり、交差点があって、階段があった。四差路の交差点をまっすぐ進むと道は階段に変わった。段と段の間から下の大地が見える。
地上には、見知らぬ建物の群れが広がっていて、それを見ると、やはり自分が知っている町ではないのだと武は思った。
そして後ろを振り返ると、今まで歩いてきた道以外にも空に道が浮かんでいて、建物も浮いていた。日の出の光に照らされた雲はオレンジ色に輝いていて、空に浮かぶ建物や道をゆっくり飲み込んだり吐き出したりしていた。そしてその下にはのっぺりとひろがった緑の一面が広がっていた。
「気を付けろよ。落ちたら面倒だからな」
狼の言葉で武は、前を向き直し狼の背中の後につづいた。
階段を昇り終えると、狼は、武になぜ命を狙われることになったのか理由を話し始めた。
「イザナギとイザナミの夫婦神の神話はしっているな?」
「はい。知っています。国生みと神生みの場面ですよね?」
「ああ。そして人間は死ぬことになっちまって、その死を与えるために鬼が生まれた。まあ夫婦神が創った世界で生まれた俺たちも同じことが言えるけどな」
「ちょっと待ってください。そのために鬼が生まれた?」
「そうだ。鬼が人間を殺す。魔が差すとは良く言ったもんだ。鬼に刺されるってな」
武も夫婦神の神話は知っていたが、鬼が人間を殺すために存在していることを知らなかった。もちろん鬼が存在していることも知らなかったが。
「そりゃ都合が悪い話だからな」
前を歩く狼は、相変わらず顔を前に向けたまま振り向きもせず歩いていた。
「まあ人間は鬼とバランスをとりあって生きることになっちまったのさ。そのせいでお前は殺されそうになったわけだ」
「それで僕を殺そうと?」
「だが、もう少し理由はある。それはお前に縁も縁もあるやつが話してくれる」
「誰なんでしょうか? それは?」
「このまま行けばわかる」
相変わらず狼は、核心の部分を話そうとはしなかった。
「それにあなたはなぜ僕を助けてくれたんですか?」
武は、こちらに振り向きもしない狼に質問を繰り返した。
「そうだなー。俺も少しはお前と縁と縁があるからな」
武は、もはや自分の常識が通用しない環境に取り込まれてしまった。だから、いくつかの非現実的な可能性を考えることを必要とされた。
武は、過去に犬を飼ったことはなかったし、稲葉の白兎のように狼や犬を助けた経験もなかった。だから自分と直接関わりがあったわけではないと思った。
そして頭に浮かんだのは、かつて父が子供の頃に犬を飼っていたことだった。
「もしや、父と関係がありますか?」
その言葉に初めて振り向いて答えた。
「勘がいいな。いい線いってるぞ」
「だが父親ではないぞ」と言うとまた前を向いたままになってしまった。
緩やかな坂道がずっと続いていた。正面にはずっと道しか見えてなかったが、そのうち前方に道の右側に階段が見えてきた。
「ここを昇るぞ」
武はそれに続いて階段を上がっていくと、やがて大きな門が現れた。優に4mはあろうかというぐらいの高さで幅も大きかった。
門を通ると、中には本殿があった。
「ここは、神社ですか?」
「いや、ここは屋敷だよ」
薄暗い本殿の奥からからふうと影が見えてきた。どうやらその影は人らしく、こちらに向かってくる。
「さあ、お出ましだ。新人の雷様だぜ」
足元から光に晒され始め、その姿が見えてくる。武と同じぐらいの背丈の男だった。白を基調とした和装で腰には刀を下げていて、堂々とした態度だった。
顔まで見えてくると、武は不自然さを感じた。人相が自分に似ているのだ。
額の広さ、眉の線、瞳の下まつ毛の濃さ、口元などの顔をつくるパーツが、武と同じ形をしていた。
「手間をとらせて悪かったな。白狼。礼を言う」
狼に一言いった後、男は武のほうに注目した。
「さて。待ちわびたぞ。武よ」
「あなたは一体?」
「我は物部八郎康成」
「ご、ご先祖様ですか?!」
当の昔にこの世を去った先祖が目の前に現れたショックに、武は髪が逆立ち毛根が引っ張られるような感覚が走った。
はたして武と同じ経験をした者は存在するのだろうか。目の前に立つ人間は自分の先祖であり、この体の誕生に関わる根本的な存在だった。
そして、武は目の前にいる先祖の名を知っていた。
「驚くことも無理はない。だが、安心しろお前は死んだのではない」
ひょっとすると自分は、死んでしまったのでは?という疑問が武の頭に浮かびあがったが、差しのべられたその言葉に武の強張った顔に少しゆるみが生まれた。
そんな少年をよそに白い狼は、後ろで面白そうにニヤニヤしていた。