遭遇
日暮れの春風は昼間の暖かさを残していて気持ちがいいものだった。
武は帰宅途中の道を歩きながら、あの事故を機に起こった自分の体の変化と自分の周りで起こる最近の出来事についてずっと考えていた。
武が超人タケルとあだ名されるようになった由縁は、生まれつき体が丈夫だったという話ではなかった。また、バス事故以来体が丈夫になったというよりも、事故を機に自身の体に変化が起こっていた。運動神経が急激に向上し怪我をしなくなり、風邪をひかなくなったばかりか持病だったアレルギーや花粉症も治ってしまった。そして頭の回転もよくなり、得意でなかった科目が、得意になったという次元ではないほどになった。また記憶力などの能力も相対的に向上し、友達を失った環境を変えるために試みた中学受験は全く危なげなく合格した。
武はあの事故を境に他人とは違う成長の自覚があった。
そして今体に現れる変化は、度重なる静電気だった。
教室で起こったあの出来事は、蛍光灯への電気の配線が異常をきたし起きてしまったということで決着していた。
だが武は、「自分がこの利き手の左手から引き起こしてしまったんだ」と、わかっていた。あの時、静電気が起こる瞬間に「いつもの静電気じゃない」と感じ、さらなる変化を自覚していた。
武の家の最寄り駅からの帰り道は、線路沿いに10分歩いてから左に曲がって50m歩く道のりだった。ちょうど今は線路沿いの道を歩いているが、何故か今日はいつもと違って車も通らなければ、人一人通っていなかった。
「この道で人が一人もいないなんてあるか?」と、武は思わず独り言を言った。
独り言を言っても変に思う人間もいない。だが、まだ人通りがなくなる時間ではなかった。
工事現場の前で立ち止まり、周りを見ると家や建物の明かりは点いている。だが、思い返すと隣を走るはずである電車は、自分を追い抜くこともしなければ、向かってくることさえなかった。
空気が変わっていくような感覚がした。武は慌ててポケットから携帯を取り出すと圏外になっていた。不具合かもしれないから受信を何度も確認してみたが、電波は入らない。
状況が理解できず、頭の後ろがかゆくなるようにさわさわしていた。
ますます不安が募ってくると、武はもう一つの身の回りの変化を思い出した。
いや、むしろ思い出させられた。帰り道に背後から視線を感じることを。
すると、また今日も後頭部をめがけてまっすぐに視線が飛んできた。そしてそれはいつもより不気味に感じられ、頭が携帯を見たまま固まってしまった。
ますます頭の後ろがさわさわとしてきたが、武は思い切って振り返った。
誰もいない。
武は、前を向き直して速足で歩きだした。
だが、その視線はずっと背後から突き刺さってくる。どんどんとその視線の鋭さは増してくる。家路への曲がり角へ向かって急いで進んでいくと、その曲がり角に人影が見えた。
武は思わず足を止めた。
武が足を止めた代わりにその影が動き出す。向う10mに見えた人影が、街灯の光を足元から浴びていき、その姿を現した。
上半身は肩から、下半身は膝から肌が露出しており、肌の色は赤く、がっしりとした筋肉がむき出しになっていて、肩掛けでとてつもなく長い刀を背負っている。顔は大きく金色の頭髪からは二本の角が生えている。まさしく鬼だった。
それも一人ではない。ぞろぞろとその曲がり角から何人も現れてきた。
武は、後ろに向きを変え、思いっきり走り出した。あまりの恐怖に言葉も出ず、声を上げずに体だけが動いた。
だが、恐怖の中でも武の頭はよく働いていた。さっきの後ろからの視線を考えれば、奴らがこの先にもいるだろう。10m戻れば神社の入り口がある。曲がって入り口を入り、参道をまっすぐ走り、境内の前で曲がれば、人気の多い道に出ることができる。
やはり道の先にはこちらに迫ってくる奴らが見えた。それを確認して武は入り口に入った。
「曲がったぞ!」
――日本語?! 奴ら日本語をしゃべった!
武の背後から聞こえてきたのは紛れもなく日本語だった。
――人間なのか? 日本人なのか? あの鬼の姿は着ぐるみなのか?
逃走の中でぐるぐると思考が回ったが、武は、直感的に感じることを一つみつけた。
「あいつらだ! あいつらが、あの長い刀で殺害事件を起こしたんだ!」
一文字に固まった口から腹に溜まった空気を吐き出して叫んだ。
例え日本語を話す連中だろうが、捕まれば絶対にぶっ殺されるぞ!と武は自分に言い聞かせ疲労を感じてきた足にムチ打って走り続けた。武の全力疾走についてこられる人間は、武の高校には一人もいない。だが、奴らはむしろその距離をどんどん縮ませていた。
後ろから迫る奴らからの距離を保つため、力を振り絞った。追い詰められた人間に発生するパワーは脅威的だった。武は、今までに感じたことのない足の回転の加速を感じた。
もはやこれが自分の体であることも疑わしい。ただでさえ体外で起こる現象が信じようにも信じられないのに、自分の体から繰り出されるスピードに自分が動かすこの体でさえ自分の体とは思えなくなってくる。今、武にとって信じられるものは、自身の精神であり、心だった。
そしてその心は今、生命の危機を感じている。これは夢ではない。この状況を突破しなくてはならない。追いつかれるわけにはいかない。武の精神は、理不尽にも与えられたこの運命に、対峙することができる気概があった。
神社の境内は目前。そこで曲がれば人気の多い道に出られる。
だが、武が予想をしたくなかった事態が起こる。武の前方からも鬼たちが現れ、挟み撃ちになった。武の逃走経路は、奴らに予想されていた。
前から迫ってくる先頭の鬼が腰から小刀を抜き、右手で構えて突っ込んできた。
「死ねえ! 小僧!」
小刀を構えた鬼が叫んだ。その言葉で武は、もはや逃走が許されない闘いを覚悟し、今まで自分が蓄積してきた知恵を絞った。それは柔術の要領である。
鬼は、武の正面から右腹に向かって小刀で突いてきた。その瞬間、武は左脚を前に出し左に半身になって、攻撃をかわした。すぐに両手で小刀を持つ鬼の右手首を掴む。その掴んだ鬼の右手を下へ引っ張った。この時、鬼の体重は右脚に乗っている。そこから武は、両手で掴んだ鬼の右手を今度は一気に上に振り上げた。それに伴い右脚を前に出して右に半身になるように体を半回転させる。鬼は体重を右足の小指に乗せているために重心は崩れていた。
武の体はそのまま回転を続けると、鬼は自分が持つ刃先に思わず顔を反らした途端、両足が浮いた。振り上げた鬼の右手首をひっくり返すと、鬼は背中から地面に叩きつけられた。この技は、小手返しという。
今、武は特殊な感覚になっていた。武には鬼の動きの一部始終が、スローモーションのように見えていた。また今まで感じることのなかったほどのパワーが体からみなぎってくるのがわかった。その証拠に鬼を叩きつけると参道の石畳が砕け、破片が飛び上がった。
「この!」
間髪を入れずに別の鬼が襲いかかり、武の喉元を目掛けて両手で持った太刀で直突きをしてきた。
視覚のスローモーションがまた始まる。
武は、またも左脚を前に出し、半身になって刃をかわした。鬼の正面に対して右斜めの方向から右脚を前に出して、太ももに鬼の腰を乗っけた。この時、鬼の重心は崩れた。右手で鬼の首を抑えながら、左手で鬼の右腕を左下に引っ張ると、鬼は両脚を空に向けて地面に落ちた。この技は、相構当てという。
鬼を叩きつけると武の視覚は、通常の感覚に戻った。その一瞬の集中から我に返り気がつくと、20人前後の鬼が武のことを取り囲んでいた。
二つの鬼の体が、立ち上がることはなく、こと切れていると武はわかった。
だが、鬼たちは、味方の死を大して気にすることはなく、むしろこの少年が、こうも抵抗できることに驚いた。
「こいつ! もう戦える力があるのか?!」
「おい! 篭鬼!!!」
「うるせー! だったら早く殺せばいいだろ!」
話が違うと文句を言う鬼たちに答えた篭鬼と呼ばれた鬼が、鬼たちのリーダーであり、あの長い刀を背負った鬼だった。
武の左右の方向から金属が擦れる音がして、鎖が武を目掛けてすっ飛んできた。武がそれに気がついた時には、二つの鎖が両腕に一本ずつぐるぐると回転して巻き付いていた。
「押さえつけろ!」
篭鬼の掛け声とともにその鎖を放った二人の鬼たちがぐいと力を入れると、武の体は崩れ、両膝をついた。
「おい! 物部武だよな? 間違いないよな?」
武は黙っていたが、その顔には抵抗の意識があった。
「人違いってことはねえ、この顔には見覚えがあるからな」
「ああ、間違いねえ! やっちまえ篭鬼!」
外野から催促の言葉が飛び交う。
篭鬼は、おもむろに背中の刀を取り出した。そのとても長い刃が月の光を反射しながらゆっくりとあらわになってき、鞘に擦れる音がゆっくりと不気味に響く。
まだその刀が鞘から抜け終わられない。どれだけ長い刀なのだと武は思ったが、いや、また武の視覚のスローモーションが始まっていたのだ。もう武の耳には鬼たちの声は入ってこなくなっていた。
――まただ。また始まった。見えるものがゆっくりに見えるこの感覚が無かったら俺はさっきぶっ刺されて死んでいた。これは、死を前にして起こる現象なのか?!
ああ! 走馬灯なんかじゃなくて、これが人間の死ぬ瞬間なのか!!!
武の心の中で自分の言葉が響いた。
篭鬼は、ゆっくりと頭上に両手で刀を握り、そのまま刀を振り降ろし始める。
ゆっくりゆっくりと白刃が、自分の頭上に降ってくる。もはや避けることのできない恐怖、抵抗する手段を失った無念、自身の無力さへの絶望で胸がパンクし、思わず目をつむってしまった。
目をつむってからいったい何秒経ったのかわからない。体に痛みは感じていないし、体に刀が斬り込まれた感覚もない。
目を開ければ、白刃が目前に来ているかもしれない。恐る恐る武は、目を開けた。
すると、目の前で広がっていた情景は、武が予想もしていない光景だった。
刀を振り降ろしていたはずの篭鬼は、黒目が上につり上がり首から血を噴き上げていたのだ。
武の視覚のスローモーションが続いている。その首から噴き上げている血は、曲線のアーチを描いて空へ伸びていた。
そして武を取り囲んでいた鬼たちも同様に血を吹き出しながらくるりくるりと回っていた。
その異様な光景に武は驚いた。自分を押さえつけていた鎖にもう力はなく、武が立ち上がると、視覚は通常の感覚に戻った。とたん、鬼たちはバタバタと全員倒れてしまった。
そして後方に気配を感じて後ろを振り返ると、そこには、二本足で立つ白い狼がいた。
身体は大熊よりも大きく、黒色の甲冑を身にまとい、そして篭鬼が持っていた刀よりも大きく長い刀を握っていた。
その姿に驚き武は、その狼を凝視した。真っ黒な甲冑に対照的な真っ白な毛色の姿に神々しさを感じる。狼の目を見ると、その狼もじっと武の方を見ていた。
「物部武だな?」
狼が正確な日本語で問いてきた。
武はとっさに「そうです」と言った。
「俺が何に見える?」
狼は質問を続けた。
人間と話をできる動物など聞いたこともない。二本足で立ってはいるが、無論人間にも見えないから武は、返答に困った。
「俺はお前たち人間ではないが、こいつら鬼とは違う。だが、元々は同じところから生まれた生物だ。妖怪って呼ばれた時期もあったがな。物部の子供よ」
物部の子供という言葉が気になって武は、
「父さんを知っているのですか?」と質問した。
「お前の父親はよくは知らん」と狼は答えた。
「お前を連れて行きたいところがある」
「僕をですか?」
狼は「そうだ」と答え手に持っていた刀を鞘に納め、手を上にあげた。
すると武と狼の間の石畳が突然ぐるぐると回りだし、渦を巻き始め、どんどんその渦が大きくなっていった。
「さあ、行くぞ! 高天原へ!」
狼が声を上げると一気にその渦が広がった。
「た、高天原って! 神話の世界の!」
武の声は、渦に吸い込まれる風で遮られ、武の体はその渦に吸い込まれてしまった。
その渦が消えると、武と、狼の姿は無くなってしまっていた。鬼たちの死体を残して。