兆し
高校一年生、物部武は、リビングへのドアのドアノブに注意をしながら手をかけた。この少年の周辺では、静電気がよく発生していた。そのため最近は物に触れる時には注意していたが、その努力もむなしく金属から容赦なく電撃が流れ、少年の手は、くの字に跳ね上がった。
自分の部屋から出て洗面所で口をすすぎ顔を洗ってから、朝食を食べるためリビングへ来る時にドアノブから電撃を浴びる洗礼を受けることが、少年の毎朝の儀式となっていた。
この家庭の朝食の決まり事で、夏場以外は必ずホットの飲み物が出ていた。父と母の席にはコーヒーで武の席には紅茶の入ったカップがある。そこに武は冷蔵庫から取り出した氷を入れてすぐに飲み干した。中学生の頃に一時期の間は武にもコーヒーが出ていたが、結局飲みやすい紅茶になっていた。
目覚めの電撃を浴び、紅茶を一気に飲み干し、朝食がテーブルに並んでいる変わりない日常の空間の中に、近頃馴染んでこようとする話題があった。
「観て、またこのニュースよ」
うながされてテレビを観ると、ニュース番組が殺害事件の現場を中継していた。中継しているリポーターは、とても顔が強張っていて、マイクを持つ腕が直角で両肩が首に寄りすぎていた。リポーターとして視聴者に状況を報告する責任があったが、言葉にするのが恐ろしいのか、口を閉めるごとに唇が左右に引っ張られていた。
――また容疑者不明と人間ワザとは思えない殺害方法。
武は、その言葉がリポーターの口から発せられるのを予想して構えて待っていた。
最近のニュースにはこのような容疑者不明の殺害事件ばかり現れる。事件が起こってから三日も経てば次の話題のニュースが番組のトップに登場するが、その数日も経たないうちにまた新しい容疑者不明の殺害事件がトップのニュースとなっていた。そして決まって被害者の遺体は無残な姿になっていた。
今回も遺体はもう体というものを成してなく、体が真っ二つに分かれて真っ赤な水溜りの中でぶっ倒れていた。
異様な現場の雰囲気とリポーターの職務の責任感は、体へ緊張と冷や汗を煽っていてとても気の毒に見える。
「最近、この手の殺害事件増えたわね。人が失踪している事件も」
「誰かが失踪するってことは、よくあることみたいだよ。だけどこうして報道するっていうのはそれだけ多いってことじゃないかな」
武は自分なりの意見を添えて返答することで殺害事件から話題を逸らした。テレビで流れるニュースは、子供である学生からすると、今いる自分の場から離れた事実を伝えてくる物であり、あまり現実味を感じさせないが、武は自分と社会との関係性をよく考える少年だった。しかし、仮にこの少年でなくても、観る者が危機感を抱くほど容疑者不明の殺害事件が多発していた。
なにに武が母親とこの話題から逸らせたかったのは、武には嫌な一つ心当たりがあった。
学校の帰宅途中に背後に視線を感じることを。その自覚が頭によぎったのだった。
武の父親がリビングに入って来た時には、その事件の話題は会話から消え去ってしまっていた。
武の通う学校は、中高一貫校だった。全学級合わせると6学年、全クラスで42個もあった。
殺害事件が多発する中、学校側として全生徒の安全を考え、徹底した指導がされていて、今日は体育館で全校集会が開かれていた。
そして全校集会の後、今度は各クラスの担任による補足の説明が始まった。
武は窓側の席に座っている。担任の言葉があまり頭に入らず、窓の外を眺めながら自分の身の周りに起こる変化について考えていた。
時限が終わって休み時間になったが、席から立つことなくそのまま窓を眺めつづけた。武の方に向かって男子生徒が歩いてきた。同級生の三上だった。
「いろいろ大変なことになってるなぁ」
一時限目から二時限目の半分まで全校集会に費やされ、体育館の床に座りっぱなしだった疲労から解放された体を伸ばしつつ三上は来た。
「中学の方は部活も休止で明るいうちに一斉に下校させるらしいな。テスト期間じゃないのに部活が休みなんて羨ましいぜ」
「みんなが一斉に帰るなら、モノレールがいっぱいになるな」
「もしかしたらそのうち俺達もそうなるかもな、そしたら俺らの制服だけで満員電車だ。ってかお前よく座ってられるな」
「大丈夫だ」
教室の中で座っているのは武しかいなかった。教室の誰もが三上のように立ちあがっては必ず体を伸ばしていた。
「座り疲れも知らないか。さすが超人タケルだけあるな」
超人タケルとは、武の中学生の頃からのあだ名だった。
中等部から無遅刻無欠席早退なし。その強靭さにインフルエンザの大流行も歯が立たず、武の登校を止めるためには、学級閉鎖しか手段はなかった。
そして科学実験の授業の際、誤ってバルサム唐辛子と化学薬品が混合してしまい、催涙成分が実験室に充満した中でも、ただ一人涙も鼻水も流さなかった。ちなみに混合を起こしたのは三上である。
「超人タケルなら、もし襲われるようなことがあっても大丈夫かもな。ほらお前のやってるトミカ流?とかいう、ほら柔術?でさ」
「富木な。忘れたのか? お前道場体験した武道ぐらい覚えていろよ」
「いやー、野球辞めて道場に通いますっていう部活を辞める理由にはなりそうだったけど、やっぱり親には小学生から俺の野球のためにいろいろしてもらったし、この学校に入れてくれたしさ」
「それを考えたらやっぱり考え直したってことだろ」
「そういうこと。でもこんな物騒な世の中になるんだったら、やっぱり道場に通うべきだったかな。そしたらお前みたいに安心して外を歩けたぜ」
三上の楽天的な言葉に武は苦笑いをして、
「まあ、運が良い方かも……」と言った。
「ねえ? 物部君って5年前の天変地異の時の事故に巻き込まれたんだよね?」
武の席の前に帰って来た女子生徒の伊藤が話に入ってきた。武の運が良いという言葉に反応して聞いてきた伊藤に、三上は「出し抜かれた」と思った。
「おい、伊藤! それはお前簡単に聞いていいことじゃないだろ」
三上はこの中高一貫校に入学した頃から武と友達だったが、武がこの学校に入学する前に起こった事故の詳細を聞いてはいなかったし、聞くことができなかった。
「良いんだよ、三上。別に話しても構わないものなんだ」
5年前。東京湾に東京の世田谷区とほぼ同じ大きさの島が現れる天変地異が起こり、特に被害が大きかったのは東京23区だった。島が現れたことによって地表が移動し、隅田川と荒川の距離は離れていった。その周辺の平らな土地は押し合いぶつかることによっていくつかの丘や小山を発生させながら移動していき、最終的に首都圏を囲む山々にぶつかって、山々に吸い込まれ、その山々の標高が高くなった。被害が集中したところ以外は、そのまま関東平野が広がるようにその土地が移動しただけで特に被害はなかったが、東京、千葉、埼玉と一部の神奈川の市区町村の緯度と経度が変わってしまった。
この時、武は小学5年生だった。当日は学校の移動教室で、奥多摩の山道をバスで進んでいたところ天変地異による山道の崩壊に遭遇した。学年の生徒を3台のバスに振り分けていて、武が乗ったバスは3番目のバスだった。
島の発生地からだいぶ離れた奥多摩では緩やかな地表の移動のせいで、バスに乗っていた者たちは、それに気がつかなかった。そして、ストレスに耐えかねたアスファルトの道路が飛び跳ね、1台目のバスが正面から激突し、そこへ後ろから来た2台目のバスが衝突した。3台目のバスは寸前のところで急ブレーキが間に合い衝突は避けられた。
「みんな! 早くこっちへ来るんだ!」
担任の教師が叫んだ。教師は、バスから脱出口を確保し、生徒たちをバスの外に逃がすために誘導した。武は一番後ろの席に座っていたから脱出口から遠かったが、自分よりも友達の身の安全を考えていて他のクラスメイトたちに比べ興奮していなかった。
しかし、バスの衝突に反応したようにコンクリートで固められたはずの山の斜面もストレスに耐えかね弾けてしまい、岩とコンクリートが2台目と3台目のバスに降り注いだ。大きな塊が2台目のバスに落ちた時、2台目のバスは爆発した。
その爆発の風圧が3台目のバスのフロントガラスを破り、炎が車内に押し寄せ、さらにまた落下物がバスを襲った。岩の群れがバスに覆いかぶさるようにいくつも降ってきた。
武が朦朧とした意識の中から抜け出した時、バスの車内の光景は少年が未だ見たことのない悲惨なものだった。天井は崩れ落ちていて、炎があちらこちらにあった。誰の声もしない。さっきまで生きていたクラスメイトたち、教師たちは、もう死んでいた。
頭上を見ると天井が吹っ飛んでいて夕空が広がっていた。夕空の中で一番星が一際輝いていた。その輝きは武の感覚がおかしくなっていたのかとてつなく大きく、そして、この光景を肩を震わせてせせら笑っているかのように思えた。
武にはその後の記憶はない。
聞いた話ではそのあと武が乗っていた3台目のバスも爆発していた。
3台目も爆発したにもかかわらず、どうやってあの状態から助かったのか。それは誰もが不思議に思い、その理由がわからなかったが、ただその奇跡を喜んだ。
武がバス事故に遭った事を話すと、伊藤の顔は驚いた顔から申し訳なさそうな顔をした。三上も同じ顔をしていた。
「それってあの時にニュースになってた小学生のバス事故のことだよな?」
武が遭遇したこの事故は、教師生徒、運転手合わせて98人死亡というあの天変地異の中で起こった最大の事故だった。そして奇跡的に助かった1人の生徒がいたことは、伊藤も三上も知っていた。
「ごめんなさい、まさかその事故の事だとは、思わなくて……」
「いや、大丈夫。俺がこの学校を受験した理由だったわけだし」
「なるほどな……」
「うん、あの後俺には友達がいなくなってしまったから、こうやって友達ができて良かったよ」
武は笑顔をしてみせてそう言い、その言葉に三上と伊藤は安心した。
「さあそろそろ行こうか」
次の授業の教室に移動することを武が促した。
武を先頭にドアに向かい、生徒たちが教室の移動を始める中、武が教室の電灯のスイッチに手をかけた瞬間、武の体から腕を通って熱いものが指先に流れた。
――これはいつもの静電気じゃない!
武の手から弾ける音がした途端、教室の全部の蛍光灯が一斉に強い光を放ち、生徒の視線が集中した瞬間、弾けてガラスの破片が飛び散った。
男女の悲鳴があがり、一斉に身をかがめた。3人は突然の出来事に呆然と立ち尽くしまったが、武だけがこれが何が原因で起こったのかを直感で理解した。
自分が起こしてしまったのだ、と。