天才と障害
「あの……出ていってくれません?」
「そうケチケチするものじゃないのよ」
「ケチケチしたくもなりますよ……わざわざ人の部屋まで来て自分の部屋にある本を読む人にはね」
珍しく深雪さんが僕の部屋に入ってきたかと思えば、全く僕の部屋に関係の無い行動をする。この人の行動に意味を求めているのは間違っているのだろうか、それとも僕が考えている次元の遥か上にいるのだろうか。せめてそうだと思いたい。
「違うのよ昌くん、この小説が面白いのが悪いのよ」
ちらりと彼女が持つ本の表紙に眼を配らせると「共に復讐を」というタイトルが大きく記されていた。
「……どんな内容なんです?」
僕は深雪さんの埃の被った下らない言い訳よりも、彼女に「面白い」と言わせる程の小説の内容が気になった。
「内容なんて無いよう……ごめん、一度言ってみたかっただけなのよ。だからそんな汚物を見るような目で見ないで」
「で、どんな内容なんです?」
「内容もなにも、タイトル通り復讐が題材として扱われている作品よ。ただ、世の中に出回っているものとは少し変わっていて、主人公が復讐を受ける側なのよね」
「……天丼はしなかったのでさっきのは水に流すとして、確かにちょっと珍しいですね。ただバッドエンドしか見えないんですが」
深雪さんはそっと本を閉じ、視線を僕の顔へと移す。
「そうそうバッドエンドだとも限らないものよ……簡潔に言うと、主人公をAとしてAの中学の同級生をBとすると。AがBを苛めていたのよ」
「苛め……ですか」
「よくある話よ。集団無視やら陰での暴力やら色々ね。Aは主犯とまでは行かなくてもそれに準ずる立場だったのよ」
僕は実際に現場を見たことはないが、その雰囲気の悪さは容易に想像出来る。しかし――
「なんで人を苛めようとするんですかね……」
「ストレス発散の方法じゃないの?私は人を苛めたことなんて無いから知らないけれども」
深雪さんなら苛めたことがあると答えてもあまり違和感が無いのだが、そのセリフをうっかり洩らしてしまうと本格的に苛められそうになる可能性をいち早く察知した僕は敢えてその言葉を発しなかった。
「ちょっと内容を飛ばすけれど、大学でBと再会したAは苛めていたことについて謝ったのよ」
「許さないことが復讐っていうパターンですか?」
彼女は静かに首を横に振った。どうやら自分の予想は違ったようだ。
「『友達になろう』Bはそう言って、それからAとよく遊ぶようになったの。もともとAは大学では孤独でBの周りには友達ができていたから、尚更Aは楽しかったでしょうね」
「……まだなんかあるんですか?」
彼女が結果や結論を話す時は、その直前に必ず含みのある言い方をするから少し分かりやすい。
「Aはそれから約一年後に無視されるようになったの。それこそAやその取り巻きがBにした時のように」
「それでAは不登校……とか?」
「いえ、自殺したわ。遺書などは無かったけど、何故自殺したかは想像に難くないでしょう?」
重い話だ。ただ、現実味を帯びているだけに気味が悪いのだが、分からない。深雪さんが面白いと言うような内容だったのだろうか。
「後日談だけど、BはAを自殺に追いやったことを強く後悔したそうよ。面白い、というより考えさせられない?作者は何を伝えたかったのかしらね」
「そこだったんですか……」
彼女が面白いと言ったのは内容そのものではなく、作者の意図だったのだ。国語の授業をしているかのような錯覚に陥りながら自分の大してうまく働かない頭脳で懸命に考える。
「……苛めはしてはいけない、とかですか?」
「おそらくテストならばそれが模範解答でしょうね。だけど面白くないわ」
「お、面白さって言われても……」
深雪さんは僕に見せつけるように大きく溜め息をつく。その行動を見て全く苛立たないと言えば嘘になるが、自分でも面白みが無いことを分かっているため、何も反論出来なかった。
「もう少し捻りなさい。もしかすると、逆に復讐は何も生まないと言いたかったのかもしれないし――」
若干彼女の口角が上に上がる。
「――ただBが苛められる側から苛める側に移ってみたかっただけかもしれないわ」
「え……いや、二つ目は流石に無いでしょう」
「本当に?絶対言い切れる?もしBがこういう思考の持ち主なら中学時代に避けられていたとしてもおかしくないんじゃない?」
「それって……サイコパスってやつじゃないですか?」
深雪さんは視線をやや少し落とし、肩を竦める。
「サイコパス……ねえ。サイコパスの定義って何かしら?」
深雪さんが少し考えてから問いかけをする。この時、彼女の真意はより一層分かりにくいものとなる。
「精神異常者ってイメージですね……。あんまり調べてないんで深くは分からないですけど、定義って言われても分からない気がします。一般的に言われる特徴が必ずしも当てはまるわけではないでしょうし」
深雪さんがゆっくりと深く頷く。どうやら合っていたようだ。表面上は。
「うんうん、私も良心と常識が異常に欠如した人っていうイメージだわ。正解かは分からないけど、これが合っているという体で話を進めるわね」
「それはちょっと」
強引……だとは思ったがいつもこの感じなので今さら突っ込む気力も無い。それに、彼女の定義が僕の中のそれとほぼ同じなのだから反論する意味も無いに等しかった。
「ライト兄弟を例えに出すけれど、兄弟はそれまで"常識"だった『人間は空を飛ばない』という事実を覆した。二人の発明が初めて成功して空を飛んだ時、それを見た周りの人々は『人間が空を飛んでいる』とは認識出来なかった。鳥か何かだと思ったらしいわよ」
「常識は在って無いようなものだってことですか?」
「それもある。だけど少し思い出してみて、言ってしまえば二人には『人間は空を飛ばない』っていう常識が通用しなかったことになる。それって常識が欠如しているサイコパスに似ていると思わない?」
確かにそう言えるかもそれないが、歴史的発明家をサイコパス扱いするのは若干失礼かもしれない。
「似ているとは言ってもサイコパスは精神障害ですよ?それとはまた違うんじゃないですか?」
「障害を持っている人は知能にも障害があるってこと?私は寧ろ逆だと思うわ。過剰な取捨選択の末路じゃない?精神障害の代わりに何かを得た。そうは考えられない?例えば歴史的な発明を思いつく代わりに精神障害を負ったとか」
「……んー?」
そろそろ頭がこんがらがってきた……。少しの間思考を張り巡らしてみるが、どうやら理解出来なくなると頭の整理が出来なくなるらしい。
「知的障害を持つ人が芸術方面において極めて優れていた。なんてよく聞く話じゃない?つまり胎児の時から既にその後に関わる大きな取捨選択を無意識にした、もしくは余儀なくされたか、そう考えると面白くないかしら?」
「あーなるほど、そう考えると僕は凡人で良かったかもしれないです。普通の人生を送りたいし」
って言うと深雪さんは呆れた顔をするだろう。そう思いながら深雪さんの顔を見ると確かに呆れてはいたが、どこか微笑んでいたような気がした。
「その空気を読まない屑なまでの平凡っぷりが昌くんの良いところよ」
「……それ誉めてます?」
「誉めてるわ。この上ない誉め言葉よ……ところで」
深雪さんはそろそろ午後の七時を指そうとしている時計と僕の顔を交互に見て、何かを期待したような視線を送ってくる。
「晩ごはんはまだかしら?」
「帰れ」