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隣の面倒な魔物

 夜の静寂が辺りを支配しようとする中、絶えずキーボードに打ちつけられる指の音だけが部屋の中を忙しく響いていた。


「ふぅ……」


 椅子の上で軽く体を伸ばしながら一つ小さく溜め息をつく。あれこれ三時間は自作小説の執筆に腐心していただろうか。疲労で強ばった右腕をほぐしながら「よくそんなにも集中していたな」と自嘲気味に笑う。

 程よい弾力のクッションの付いたプラスチック製の椅子のの背もたれに寄りかかった時、同じ体勢を数時間強要した代償が痛みという形で身体の節々から突然に顔を出した。


「こればっかりはいつまで経っても慣れないな」


 慣れたくもないが、と後ろに付け足す。どうも一人暮らしというのは独り言が増えてしまうようでいけない。外でもこの調子だと周りから寒い目で見られそうだ。

 僕はずっと日々の生活費をアルバイトで稼ぎながらちまちまとパソコンで趣味である自作小説を書いている。

 浪人なのにこんなことをしていていいのか?その言葉が頭に過った数を数えることなど、もはや不可能に近かった。

 浪人二年目の六月。もう勉強なんて何ヵ月していないだろう。すでに習慣ではなくなった勉強をやる気が起きないことへの焦りが心を常に急かし、しかし机に向かったところで一ページと進まない自分自身への苛立ちが日々募っていた。

 背もたれに寄りかかりながらパソコンの端に標示された現在の時刻を視界の端から注視する。指された時刻は午後九時前。晩飯を食べるにはいつもよりやや遅い時間だろうか。

 仕方なく立ち上がった僕は壁に掛けてあった薄手のコートを羽織る。

 少し軋む床を歩き、あらかじめ紐を緩めてある靴を素早く履いてドアをいつもより強めに開ける。

 車の喧騒、人の往来、道路を照らす街灯。マンションの二階から見える夜の景色は相変わらず現実から遠ざけてはくれなかった。

 廊下の小脇に設けられている段差が急過ぎない階段をゆっくりと降り、裏口から出ていく。

 僕が住んでいるマンションの一階は道路側から見て正面が弁当屋となっており、料理を作るのが億劫な一人暮らしの自分にとっては大いに助かる代物なのである。



「いらっしゃ……あっ林田さんだったか。こんばんは」

「こんばんは、仲村さん」


 店内に入るとカウンターに立っていたやや落ち着きを見せる初老を迎えた女性。仲村さんが真っ先に僕の名前を読んでくれた。僕は最早この店の常連になっており、仲村さんとは顔馴染みとなっていた。


「久しぶりだねー」

「久しぶりって……たったの三日来なかっただけじゃないですか」

「だって、ちょっと前なら毎日だって来てたじゃないのさ」

「いやあの時は、その、本気で勉強してた時期っていうか……」


 思わず言葉が尻すぼみになる。

 この言い方だとまるで今は勉強していないみたいじゃないか。


「で、注文は?」

「え?あっ」


 仲村さんは言葉を濁した僕に対して深く追求することはなかった。恐らく気を遣ったというよりは、そこまで興味のある話題ではなかったのだろう。


「じゃあ、海苔弁を()()で」


 僕はどちらかと言わなくても大食いな方ではない。ただ、この先の展開を予測して余計に注文しただけだ。


「林田さん……あんたも律儀だねえ」


 事の真実を知っている仲村さんは何とも言い難い意味深な笑みを浮かべる。


「いや、そういうのじゃないんで」


 毎度否定しているのだが、仲村さんは分かってくれない。




 そこから数分間他愛ない雑談をした後、金を払って弁当を受け取る。


「じゃあ、また」


 ビニール袋を片手に弁当屋を後にする青年の背を見送りながらぽつりと独り言を漏らす。


「お似合いだと思うんだけどねぇ……」




 ****



 マンションの階段を登りきり、自分の部屋まで続く廊下を見据える。どうやら今日は大丈夫なのかもしれない。こうやって一人の人物を避けるのは失礼ではないのかと一瞬葛藤するが、相手が相手なだけに仕方がないと思う自分がいた。

 僕の部屋の一つ前の部屋。あそこには魔物が住んでいる。

 今日は居ませんように。などと何度も想像力の無い頭で形の出来上がらない神に祈りながら僕はできる限りの早足で廊下を歩く。


「何で早足なの?」


 ほんの一瞬時が止まる。

 声の聞こえる方向に錆び付いた螺のようにぎこちなく首を回す。部屋と部屋を隔てる柱の窪みを背もたれに、彼女は腕を組みながら立っていた。


「なんと不思議な偶然でしょうね、昌君」


 わざとだ。絶対にわざとだ。彼女は明らかに作り笑いと分かる笑顔で僕に話しかける。だが、せめてもの抵抗にと表現するように僕の足が勝手に動く。行き先は、自分の部屋。


「あらっ?無視するの?それとも……貴方は林田(はやしだ)昌造(しょうぞう)じゃないのかしら?ねえ、昌、君」


 逃げられない。本能で察した僕の身体は一切の行動を停止した。僕が諦めたのを確認して、彼女は満足気な顔を浮かべる。


「神の悪戯ってやつかしらね」

「……完全に一個人の悪戯ですよね」


 神に見捨てられた僕は大人しく遠浅(とおあさ)深雪(みゆき)という名の魔物に捕まることになった。

少し文章を変更させてもらいました

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