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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

上手に首がくくれない

作者: 網笠せい
掲載日:2026/08/16

 ──揺れている。


 目の前の電線がゆっくりと揺れている。自分が揺れているのか、世界が揺れているのか、彼女はわからなくなる。


 キリのいいところで残業を切り上げて喫煙室から見る景色は、夕刻から降り続いた雨ですっかり洗い流されている。あちこちにできた水たまりが信号機や街灯の光を映し、照応する光で街全体が輝いて見える。


 除湿のために動かしたエアコンの室外機が低いうなりをあげて、彼女の鼓膜を揺るがす。どのような音も一定ではなく、増幅と減衰があり、わずかな切れ間と揺らぎがある。音は振動だという。そのわずかな揺れを、彼女の耳は捉えている。


 ──揺れているのは私なのか、世界なのか。


 ゆっくりと視界の中で下がっていく電線を、彼女は煙草をくわえながらじっと見つめる。電線には雨の雫がたまり、ときにぽたりと落ちる。


 ──ぴちょん。


 雫が水たまりに落下して、水たまりが小さく跳ね上がる。水面にさざなみが立つ。その揺れが再び音になる。


 道路を駆け抜けていく自動車の音が、近づいてきて遠のく。雨の街にいくつもの音が響き渡る。束の間のフェードインとフェードアウト、うなるエンジン音、車が水たまりを気にも留めずに走り去る音。これもやはり振動だと、彼女は電線から視線を動かさない。彼女の視界で、電線が風に揺れるようにゆっくりと上下する。


 煙草の煙が立ち上って揺れた。煙に音はない。彼女が吐き出した呼吸の音が、遠くから聞こえる車の音や雨音に混じって密やかに聞こえるだけだ。


 しばらくぼんやりと雨の降る街を眺めた後、彼女は煙草を灰皿に押し付けて消した。彼女は重い鉄扉を開けて、ビルの廊下に戻った。ゆっくりと閉じていく扉の軋む音が廊下に反響して、やけに大きく聞こえた。


 足元を滑らせないように気をつけながらエレベーターのボタンを押す。駆動音が聞こえたあと、エレベーターの到着を知らせる軽快な音が鳴った。誰も乗っていない。乗り込んで、一階のボタンを押す。階数表示を眺めるうち、ふわりと足元が浮くような感触がある。


 ──幽体離脱って、こういう感じなのだろうか。


 彼女は頭の上から自分の魂が抜け出していく様子を想像しながら、扉の上に表示された階数を眺めている。照明がふと揺らいだとき、エレベーターががくんと止まり、少しして明かりが消えた。


「……故障?」


 手探りでカバンの中からスマホを取り出す。ぼんやりとした明かりが、暗いエレベーターの中を照らした。


 彼女はエレベーターの回数表示の下にある、受話器のマークのボタンを押す。うんともすんとも言わない。指先が焦りはじめて、二回三回と非常用連絡ボタンを小刻みに叩く。


「やだ、どうしよう」


 エレベーターの扉を叩いてみる。運良くどこかの階を通り過ぎるところかもしれない。中に人が閉じ込められていると知ったら、救助を呼んでくれるかもしれない。


「中にいます! 誰かー!」


 扉を叩いていた彼女の手はいつの間にか拳になり、ドンドンと大きな音が鳴る。彼女の動きに呼応するようにエレベーターが揺れた。目眩でふらついた彼女は床にしゃがみ込んだ。


「こちら保守点検です。どうしましたか?」


 ザザッとノイズが聞こえて、エレベーターの中に男性の声が響いた。彼女はほっとしながら立ち上がると、スカートをパタパタとはたく。


「エレベーターが急に止まってしまったみたいなんです」

「何人閉じ込められてますか?」

「私一人です」

「一番近い階で扉を開けますので降りていただいて、そこからは非常階段を使ってください。点検が終わるまで、安全のためにエレベーターは使わないでください」

「はい」


 低くくぐもった駆動音と共にエレベーターが徐行運転する。ぎこちなく扉が開いて、彼女はエレベーターを降りた。


 見慣れない廊下に、非常口を知らせる淡い緑色の光が差し込んでいる。薄暗い。リノリウムの床で滑らないように彼女がおそるおそる踏み出すと、背後でエレベーターの扉が閉まる音が聞こえた。びくりと肩を震わせて、彼女は廊下を進む。コツコツと足音が響いた。


 ──ここは何階だろう。


 振り返ってエレベーターの横を見る。階数表示が文字化けしたような見たことのない文字になっていた。

 

「どういうこと?」


 思わず口に出した彼女の耳に、エレベーターの駆動音が聞こえた。他の階に行ったのだろう。揺れているのか、ガタゴトと不安を掻き立てる音がする。


 非常口を知らせる光が小さく明滅して、バツンと音を立てて消えた。彼女はスマホの明かりを頼りに、薄暗い廊下をゆっくりと進んでいく。


「嫌になるなぁ、もう」


 心細さを軽口で打ち消すようにして廊下を進む彼女の耳に、女性のべそをかく声が聞こえてきた。ギョッとして足を止める。


「もしもし……大丈夫ですか?」


 ひょっとしたら同じように非常階段を探している人なのかもしれないと、彼女はスマホの明かりを向ける。女性は半開きになった鉄扉から、倒れた人間をずるずると引っ張り出している。ぐすぐすと鼻をすする音が聞こえる。


「手伝います」


 彼女は手早くスマホをポケットに入れて駆け寄る。倒れた人の両脇に腕を差し込み、廊下へと引っ張り出そうと力を込める。彼女の腕が霧をつかむようにすり抜けた。


「え……」


 廊下に尻もちをついて、彼女は呆然とべそをかく女性を見る。よく見えない。ポケットの中からぼんやりとした明かりが滲んでいるのに気付いて、スマホの明かりを向ける。ぐったりと床を引きずられている人物の顔に光が当たった。


 ──私だ。


 乱れた長い髪の隙間から、彼女と全く同じ顔が覗いている。背筋に悪寒が走って後ずさる。べそをかく女性は彼女とそっくりな人物を引きずり出しながら、かすれた声をあげた。


「……お母さん、なんで首なんてくくるのよ」

「あの」

「お母さん……」


 べそをかく女性の耳に、彼女の声は届いていない。女性の肩に手を置こうとするが、まるで幽霊のようにすり抜ける。


 ──すり抜けているのは向こうなのか、私なのか。


 彼女とそっくりな人物が突然顔を上げて、くくっと喉を鳴らした。青白い顔の中で、血走った目だけがギョロギョロと怪しい光を放っている。


 指が震えてスマホを取り落としそうになる。スマホを伏せると光の当たり方が変わって、二人の姿が影に溶けた。


 暗闇の中から狂ったような笑い声が聞こえた。自分と同じ声だと彼女は息を呑む。電波の悪い場所で通話するとき、少し遅れて自分の声が聞こえるのに似ている。少しずつ遠ざかっていく笑い声を聞きながら、彼女は瞬きを繰り返した。


 ──見えているから怖いのか、見えないから余計に怖いのか。


 彼女はおそるおそる息を吐き出して、ゆっくりと立ち上がった。足元をふらつかせながら、スカートについたほこりをはたく。


「……もう、行きますね」


 女性のべそをかく声は、聞こえなくなっていた。


 彼女はおぼつかない足取りで廊下を進んでいく。彼女の勤める会社が入っているのは大きなビルで、中にいくつもの会社がある。他社のオフィスの中まで見たことはないが、廊下や大体の間取りは同じだ。


 ──廊下、こんなに長かったっけ?


 彼女が不安に足を止めたとき、廊下に面した鉄扉がガンと大きな音を立てた。びくりと肩を震わせて振り返る。手から飛び出したスマホが床を滑っていく。


「あっ」


 スマホが床に埋まった間接照明のように、廊下をぼんやりと照らし出している。その上を何かが飛び越えた。


 思わず身構えた彼女の前で、カシャッという撮影音が聞こえた。スマホで撮影したのだろう。ぼんやりとした光に、ニヤついた男性の顔が浮かび上がっているのが見えた。廊下を走る足音が遠のいていく。


「……なんなの?」


 彼女は警戒しながら、床に転がったままの自分のスマホを拾い上げた。画面は割れていないようだ。遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえて、くるくると赤色灯が回るのが見えた。


「……盗撮?」


 胸の奥で心臓が早鐘を打つように脈打っている。非常階段へと向かう足取りを早めた彼女の足元に、かさりと何かが当たった。スマホの向きを変えてまじまじと見つめる。


「紙? ……漫画だ」


 漫画の中に、彼女の母の姿が描いてあった。似顔絵かと思うほどよく似ている。ちらりと文字を読む。母が語った若い頃の思い出が描かれている。一般的な内容ではない。


「えっ……なんで知ってるの? 気持ち悪い……」

「介護施設に写真を頼んだんだけど、やっぱああいうとこはダメだわ。個人情報の扱いがしっかりしてる」


 鉄扉の向こうから誰かの話し声が聞こえた。


 ──なぜ、母が介護施設にいたことを知っている?


 彼女はスカートの横でぎゅっと手を握りしめた。足元にある漫画は何種類かあるようだ。絵の系統が違う。身体を売らされるシングルマザーの話、高層ビルから飛び降りようとする話、ケーキが食べたくて騒いでいる太った女性の話、彼女のペンネームと同じ名前の村、彼女の友人や好きなアーティストによく似た登場人物、路地裏で卑猥なことをしている話──どれもこれも、彼女は知っている。


「どういうこと……?」


 これらの漫画を読んだから知っているのではない。彼女が経験したことが大半だった。身体を売らされていることと路地裏で卑猥なことをしたのだけは、真実でない。性に潔癖な彼女はそのようなことをしない。過去の性的DVによって、彼女はその手のことを極端に嫌う。描き手の悪意を隠そうともせず、センセーショナルに描き立てたその内容に、彼女の呼吸が荒くなった。目眩がする。


 切れ切れの息の合間をつくように、突如として光が灯る。床にテレビが置かれているようだ。画面にはアニメが流れている。先ほどの漫画のようだった。


 ──名誉毀損じゃないか。フィクションだから問題ない? ならばプライバシーの侵害だ。


 怒りで目の前が真っ赤になる。震える彼女の前で、テレビ画面に大きな赤いバツ印が表示される。放送の途中でのどかな野原の景色が映し出され、「おわび」の文字が表示された。廊下のあちこちに週刊誌や新聞の記事がベタベタと貼られていく。漫画が彼女や母にしたように、記事はセンセーショナルに書き立てられている。


 ワイドショーに切り替わったテレビ画面でコメンテーターたちが「いくら有名だからって、不正に得た情報を元に漫画作っちゃダメですよ」と口々に非難をはじめる。ザッピングするように次々とテレビのチャンネルは移り変わっていくが、どのニュースでも先ほどの漫画への非難が続いている。


「因果応報だよ」


 背後から聞こえた男性の声に、彼女は振り返る。テレビの光にぼんやりとその表情が浮かんでいる。見知らぬ男だ。


「君、誰かを小説のモデルにしただろう。だから彼らは君の経験を漫画にした」


 なぜ小説を書いているのを知っているのだろうと、彼女は面食らいながらも反論する。


「……多分、あなたたちと私で、モデルという言葉が差すものが違います。私は要素のモデルにはするけれど、そのままは書きません。要素に分解して抽出して、別の人物に再構成して書いています」

「いいや、昔付き合っていた人をモデルにしただろう?」

「その人は私をモデルにした作品を書いてたんです。内容はともかく、モデルにしたという点ではお互い様ですよ。だけど恋人でもなかった人に、こんなことをされる筋合いはないです」


 出版社から出てくる漫画家をフラッシュが囲み、スーツ姿の人々がいくつもの段ボールを車のトランクに詰め込んでいく。家宅捜索か書類送検だろうかと、彼女はぼんやりとテレビ画面を見つめる。


「……この漫画家さんが、因果応報に遭ってるんじゃないですかね。私や母や友人にしたことの因果応報」


 男はいけすかないとでも言うようにふんと鼻を鳴らして食い下がろうとする。


「君は再構成と言ったが、何人かの要素を混ぜれば問題ないということかね」

「……これらの漫画には別の問題があります。私の知人の経験が含まれています。私がたった一人とだけメールで話した内容が無断利用されている。センシティブな内容だから、一人としか話していないことです。不正アクセスをしない限り、この情報を知ることはできない。それがまるで私のことのように語られているんです。名誉毀損も甚だしいですよ」


 男は小さく舌打ちをすると、闇に紛れて消えていった。


「……母は病気になる前に、発症後の姿は見せたくないと言っていました。これは母の意思を無視する無断利用です。私は娘として、この漫画のしたことを許せません。絶対に」


 彼女の言葉が男に届いたかどうか、定かでない。怒りに震える息を吐き出して、彼女は漫画を踏みしめて進んだ。その漫画には、彼女の親友によく似た登場人物もいるようだ。踏みしめる足が、ほんの少し迷った。


 足元に落ちていた漫画がなくなって、リノリウムの床が現れる。彼女は自分を落ち着かせるように息を長く吐き出した。胸焼けがする。


 廊下の先にスマホの明かりを向ける。薄暗い廊下の壁に何かが貼られている。彼女はいらだちも露わに眉を寄せると、壁に貼られた大量の原稿用紙を眺めた。


 彼女の書いた小説によく似た作品だった。あるいは、先ほどの漫画と同じように彼女の経験を元にした作品のようだった。知らない作者だ。


 ──それにしても、よくこんなに古い作品まで調べ上げたものだ。


 彼女が長いブランクを経て書いた、今読むとお世辞にも上手いと言えない小説もある。そういった作品のアイデアを要素として抽出し、再利用したもののようだった。文言が一致するわけではないし、アイデアや現実での言動についても著作権侵害には問えない。けれども、と彼女は首をひねる。


 ──どのようにしてこの情報を入手したのだろうか? すでに公開していない作品もある。先ほどの漫画のように違法な情報取得があったのでは?


 彼女は疑心暗鬼に駆られそうになったが、以前から個人Webサイトやメールマガジン、オンライン投稿所で小説を公開してきたことを思い出した。しかし作品については調べ上げていても、そこに付随している情報にはいくつも齟齬があるようだ。たとえば先ほどの漫画の「モデルにする」の差す意味が違ったように。


 デッサンのモデルじゃあるまいしと原稿用紙を流し読みしていた彼女の目が、ふとある作品に留まる。彼女がプロット段階で書くのをやめた作品とよく似ていた。小説賞に応募しているようだった。


 彼女はときどきプロットを練りきれなかったり、プロットを作ったものの書く気になれずに放置することがある。創作は産みの苦しみによく喩えられるが、そうすると流産のようなものだろうか。もちろん本当の流産とは比べるべくもないし、あとから形を変えてひょっこり生まれてくることもあるのだけれど。


 ──ああ、連中は自分たちが盗んだことを隠すために必死で私にケチをつけて、なんとか作品を「問題ない」と認めさせようとしているんだな。自分の作品の瑕疵を隠し、名声や金銭を得るために。


 ようやく彼女は思い至ったが、ならば創作の楽しみとは連中にとってどういうものだろうか。人から盗むということは、観察や着眼点やテーマの掘り下げ、構成を練ること、それらを文章に落とし込むことを楽しんでいないことになる。


 ──評価だけが欲しいのだろうか?


 それは歪んだ承認欲求ではないかと、彼女はあごに手を当てて悩んだ。承認欲求自体は彼女にもある。しかし連中のやり方はいささかインスタントに過ぎるのではないか。自分が悩んで練り上げた作品が評価されてこそ、喜びもひとしおなのではないか。ましてや、誰かから盗んで作った作品を小説賞に応募するとは理解しがたい。


「あなただってパロディやオマージュをやっているじゃないですか」


 廊下に並んだ鉄扉の奥から声が聞こえる。どの扉から聞こえるのかわからないなと彼女は瞬きをした。


「ええ。けれども大半は比喩として使うものです。読んだ人が想像しやすいように作品名やキャラクター名を出す。参考資料にも記載していますよ。有名な作品から影響は受けていますけれど、ここの作品のようなことはしていません」

「影響と盗作をどう区別するんですか?」

「影響は、それを受けた作品が好きで雰囲気などが自然に似てしまうもの。盗作は文章や設定や構成をそのまま真似ること。……私の考えですけど」

「じゃあ歴史小説はどうなるんですか? 歴史人物をモデルにしたファンタジー作品は? あなたも書いてますよね?」


 なんとか作品を「問題ない」と認めさせようと食い下がっているのだなと、彼女は目を細める。


「歴史小説なら、その人物が誰なのかが明確です。歴史人物をモデルにしたファンタジー作品でも要素の分解抽出と再構成をしていますし、参考資料や後書きで人物名も記載しています」

「そんなことするのは面倒です」

「……そうですか。創作って大変ですよね。真面目に書くのって、すごく苦労するんですよ。人によって考え方が違う部分もあるでしょうが、私は影響の範囲なら参考資料に記載しなくてもいいと考えます」


 鉄扉の向こうの気配が消えた。しんと静まりかえった廊下がかえって不気味だ。彼女はあごに手を当てる。指先に一本だけ長く伸びたヒゲと、ぽつりとした毛穴の感触があった。


 彼女が気を取り直して廊下を進むと、既に通り過ぎた鉄扉の向こうから追いかけるように声が聞こえた。


「二次創作は?」

「二次創作やファンアートは、元ネタがわかるじゃないですか。元ネタのキャラクターだから意味があるものでしょう?」

「じゃあ王道展開やテンプレはなし?」

「王道展開もテンプレもありますね。そういったものは影響じゃないですか? 日本には和歌の本歌取りのような技法もありますが、あれは影響ですよ。たくさんの人が書いていて、元ネタを見つけにくいものもありますが」

「偶然の一致は起こらないってこと?」

「いいえ、それは起こりうる。作者が作品を書く前に知らなければ問題もない。影響を受けようがないですから。……でも貼り出されてる作品を見ていると、実際読んでいなくても情報を使う人もいるようですね。あまり多く読まれなかった私の作品が無断利用されているので。生成AIで小説を書いていると、元ネタがあることに気付かないまま使ってしまうことがあるのかもしれません。私は文章を自分で書くことにこだわりがあるので生成AIで小説を書くことはしませんが、校正や分析のためには使うことがあった。一つの作品で三つ以上同じ作者から共通点があるなら怪しいというのが、私の考えです」

「……問題があるなら通報すればいいのに」

「アイデアや日常生活での言動は著作権では保護されていない。取り合わないでしょうね。プライバシー権の問題はあるはずだけれど」


 嫌がっている人に対して無理強いすることはレイプに近い行為なのではないかという言葉を、彼女はかろうじて飲み込んだ。先ほどの漫画を思い出す。似顔絵の無断利用は肖像権の侵害にあたるが、亡くなった人間には適用されない。亡くなった母があまりにも哀れだと、彼女は目を伏せた。今度こそ、食い下がろうとする声は聞こえなくなった。


 このようなことがまかり通るのであれば、きっと書かなくなっていったクリエイターもいるだろう。彼女自身がそうであるように。


 連中はどうやら彼女が以前した悪事の因果応報だと言いたいようである。しかし現実に彼女自身に瑕疵があるわけではない。ならば言いがかりをつけてきた側に応報があるのが道理ではないかと彼女は考える。


 ふと、以前紹介制のSNSで友人になった人のことが頭をよぎった。資料のやり取りをしていた仲だが、その友人とのことも言われるかもしれない。風景に細やかな違和感を入れるような素晴らしい作品を作る人だったが、ある日突然いなくなってしまった。


 廊下の上部にある、空気を入れ替えるための小窓がバタンと大きな音を立てて開いた。湿気と雨音が流れ込んでくる。青紫色の顔をした子供が、窓からこちらを覗いていた。今何階かはわからないが、少なくとも一階や二階ではないだろう。


「……その人からパクったんだね?」

「いいえ。その友人の作品を私のWebサイトで紹介していました。感想も書いた。相互リンクでした。いなくなってしまったけれど」

「でも、パクったんじゃないの? 言い訳でしょ?」

「髪飾りを贈るシーンは似ていると思います。けれども現代で言えば、恋人に指輪を贈るような一般的な行為でしょう。トリスバーという存在もその友人の作品で知って、私の感想への返信でさらに教わりました。資料のやり取りもしていました。私はゲームの背景写真の素材提供もしていた。相手は使っていないかもしれないけれど。……なにより、もしもパクったと言えるとしたら、その人本人だけです。本人が言うなら謝らなくてはならないけれど、他人が勝手に判断して因果応報と言うのは正義感の暴走でしかない」


 青紫色の顔をした子供が窓枠に腕を乗せて、ぐいっと身を乗り出した。腐り落ちるように、手首が廊下にずるりと落ちる。ハエが飛んでいる。


「やりとり、本当にしてたの?」

「はい。参考になるURLを伝えていました。その人は会員制SNSで私に紹介文を書いてくれました。『困ったときに現れてさっと助けてくれる方』って。……パクリと認識しているなら、この紹介はしないはずです」


 ハエの羽音が止まる。きっと前脚をこすり合わせているのだろう。窓から身を乗り出した子供は大きな目でじっと彼女を見つめると、首を横に振った。


「いいや、パクったって言ってた人がいたよ。ファンの多いWeb作家さんだ」

「……そのWeb作家さん、ずっと私に突っかかってきていた人じゃないですか? その方が嫌いになったゲームの続編を、私が楽しみにしていたのが気に入らなかったみたいです。推しが悪役になってしまったんですって。……私は当時、読んだ本の感想を個人Webサイトに書いていたのですが、それにエアリプのような形で突っかかってきて……有名な作家さんを薬物中毒者のようだとディスって非難されてましたね」


 青紫色の顔の中で、目が丸く見開かれる。


「……え、理由はそんなことなの?」

「おそらくは。最初にお話ししたのは、私が主催していた企画に参加してくれたときです。感想の厳しさを甘口・中辛・辛口・激辛の中から選べるんですけど、激辛を選んでらしたので、他の企画参加者さんから厳しめの感想が寄せられたんです。主催者なので私はフォローもしたのですが……なぜか私に矛先が向いたんです」

「……変なの」


 窓の上はバランスが悪いのか、子供が何度か身をよじっている。


「そのWeb作家さんが遠回しにパクリだと私を非難しているんだろうなということはありました。でも会員制SNSのやりとりは外から見えないので。……直接質問してくれていれば、お答えしたんですが」

「ふぅん……そう」


 子供はあごをしゃくれさせると、ふっと窓の向こうに消えた。雨がざあざあと降っているのが見える。彼女は窓の向こうを一瞥すると、再び歩み出した。非常階段はもうすぐだ。


 ──こんなにひどい嫌がらせに遭って、一度治ったパニック障害が再発悪化して、これまでにないほど……寝ていても目眩と吐き気に襲われるほど重症化して仕事もままならないのに、まだ自分は小説を書くのだろうか?


 お母さん、もう小説書くのやめたら? と彼女の娘なら言うだろう。


 分厚い鉄扉は非常階段に繋がっている。かつて体力作りのために何度か階段を降りたことがある彼女は、それを知っている。


 ゆっくりと鉄扉を開く。軋む音がこれまで歩んできた長い廊下にこだましている。彼女の目の前で、ぶらりと両脚が垂れ下がっていた。つま先から雫がぽたりと落ちた。


 ──揺れている。


<おわり>

【参考資料】

小説家になろう/カクヨム/Pixiv/mixi

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― 新着の感想 ―
網笠せい様 いろいろと含みをもたせた作品だと思いました。 言及はしませんが、しばらく作品の発表がなかったので、何かあったのではないかと。 勝手なことを並べ立て申し訳ありません。 もし私の勘違いであっ…
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