後編
明くる朝、古い歴史を持つ神社へ進むにつれて、さらに元気になっていく天使と女神。それにしても坂が急で、息を切らしていたその時にも、天使は伝える。
「身体をすこし後ろに傾けるっ」
天使の教えを聞いた彼女は重心を少しだけ引き上げ後ろにずらす。するとなぜだか楽に上れて鳥居までたどり着いた。
神社の中では天使は静かになり、かわりに女神がたくさん話し出す。鳥居を抜ける時に、彼女は振り返り頭を下げた。女神はいつものように明るく可愛く
「またねーっ」と見送りの言葉を伝えてきた。
坂を下る。ここからは観光だ。
行きたい場所はたくさんあって、展望台とワイナリーは外せない、と彼女は足を弾ませ横道に入り、美味しそうなお店を眺めながら歩いていくと、ロープウェーの乗り場に出た。リフトもあったが、迷いなくロープウェーを選び、乗り込んだ。左の窓際に座り、出発を待つ。上っていくなか景色を楽しんでいると、リフトの少女が手を振ってくる。彼女ははにかみながらも手を振る勇気はなくて、首をかしげながら微笑み返した。
あぁ、旅行だなぁ──。じんわりと、いま旅をしているという感激の気持ちが広がって、木々はますます鮮やかな色を放ち太陽の光はきらめいた。
到着後は人に紛れて、高いところから見渡す眺望を楽しんで、楽しみにしていた海鮮丼を食べようと、出発前から調べていたレストランを目指した。壁に貼られたメニューの写真は期待していたよりも貧相に思えて、入るかどうか迷ってしまったが、おなかもすいたことであるしここでお昼にしようと、階段を上った。神社へ向かう坂で酷使したはずの足であったのに、なぜか普段よりかは軽く上がることができて、意気揚々と店内に入っていった。客は誰もいなかった。これは外したかもしれないと不安がよぎるも、お昼どきはとっくに過ぎていたことを思い出して、まぁ不思議ではないかと納得をして、食券を買いショートカットの調理場の女性に渡し、貸し切りの店内で窓際に座った。ほんの数分で、午後の日差しの暑さがこたえてくる。彼女は窓辺での食事を諦めて、日の当たらないテーブルへと移動した。画面に番号が表示されたことに気付き食事を受け取りに行くと、そこにはちゃんと豪華な海鮮丼が準備されていて、なんとも言えない勝ち誇った気持ちになった。たくさん歩いたから、お吸い物の塩気が染み渡る。期待していた海鮮丼にありつけて、しあわせだ──。あっという間に食べすすめて、のこすは最後のふた口ほどとなったとき、彼女が好きでよく聴いていた曲が流れ始めた。意識が少し海鮮丼から離れる。海鮮丼を受け取ってから今の今まで、新鮮なお刺身とちょうど好みの具合に炊きあげられていたごはんの食感と優しい旨味に夢中でいて、景色を見ていなかったことに気付いた彼女は、我にかえって外を眺めながら音楽にしばらくのあいだ耳を傾けてから、さいごの二口ほどを三口に分けて大事に食べきった。おなかもいっぱいになって余裕が出たのか、彼女は階段を下りてから再び絶景を満喫して、ロープウェーに乗り込んだ。
もう一つのお目当てはワイナリーだ。なんとなく方向はわかっていたから無計画に歩き始めるも、意外と遠い予感がしてきたためスマホを取り出し経路を調べたら、歩くとかなりの距離であった。タクシーが来ないかと、時々振り返りながら進んでいくも一向にこない。そうこうしているあいだにバス停があったから、時刻表を見てみたら、あと10分ほどで来るようだった。バスに乗り込むと、あっという間にワイナリーに着いた。
スタイリッシュで横に広い建物を持つワイナリーでは、いくつかのワインを有料で試すことができて、葡萄畑を見ながら楽しめた。葡萄畑は広くって、奥には海が広がっていた。甘みのあるワインは普段はあまり選ばないのだが、葡萄畑と海を見ながら飲むみずみずしい甘口のワインはときめく美味しさで、思わずお土産にはその甘口ワインを選んで買った。
最終便の船の時間まで観光を堪能した彼女は、早めに桟橋にたどり着いて船の到着を待っていた。お土産のワインを左手に持った彼女は、待合室から抜け出し海を眺める。白鷺が美しく近づいて、こちらを気にせず水面をつつく。彼女は昨日の海のことを思い出していた。ずっとここに住めたらいいのに。彼女は夕暮れ前の潮風を感じながら佇んでいた。
船に乗り込み、空と海を眺め、海猫が舞い交う様子を見上げた。ゆっくり進む船。平日の最終便は人も少なく、夕暮れが沈む西側の柵に腕をのせて、優しい潮風に吹かれていた。白いぷっくりとした海猫が、1匹ゆうゆうと船のポールに止まっている。少しのあいだ、胸に引っかかるような、なにかの違和感が漂った。
彼女はふと気付いた。それは、しばらく天使の存在がないということであった。鳥居をくぐってから数時間、あれだけはしゃいでいた天使の存在は消えていた。今までも、常時いるわけではなく時々存在はなかったものだから、特に気に留めてはいなかった彼女は、予想もしていなかった天使との急な別れに戸惑った。
もう夕暮れだからか、海猫もまばらな船のデッキで、静かな海を眺めていた。さみしさとはまだならない感情の前触れのようなものを抱えて眺める海は、もう薄暗くって、日がずんずん落ちていく。
昨日黒鷺がいた小さな岬には白鷺がいて、羽を大きく広げていた。船はゆっくりすぎていった。
天使は役目を果たしたのだろうか。天使は自分のもつ性質と役割を教えに来たのかもしれないな。彼女はどこか冷静に思いながらも、天使はもう出てこないのかもしれない、神社に入る前が最後のときだったの? と別れになりそうな実感がじわじわと増していくなかで、涙はまだ出ていないけれど目の下と頭がぐっと重く痛くなりそうなのを抑えようとしながら、少しのあいだ時が過ぎた。
そして、彼女はそっと呟いた。
「ありがとうね、ミカエル」
口角を上げて、別れを受け入れる覚悟をして、そっと優しく呟いた。
船はいつの間にか岸へと着いていて、日もほとんど暮れて薄暗く少しかすんだ街並みが彼女を静かに迎えいれた。
ミカエルとの別れはもう何回目だろう。いつもはもっと悲しいはずだったけれど、今回は優しい感謝に包まれることに、彼女は自分自身でもおどろいた。涙は流れてこなかった。ただただ温かい心につつまれていて、さみしさももちろんあってかみしめるのだけれど、その二つの感情が優しくあらわれてくる心はまるで塩キャラメルみたいに甘じょっぱくて、ソフトクリームのようにあまくゆっくりとおなかの中に溶けていった。
実を言うとミカエルがこんなに平和のまま去っていったのは初めてであったから、今回も波乱を半分覚悟していた彼女は、ほんとうに拍子抜けした気分で、数時間のあいだミカエルはたしかにいなくなっていたけれど、まさか本当にいなくなったとは思っていない部分もあった。ただ最近の日々のなかで比べると、不自然なくらい気配がなかったから、ほんとうにもう出てこないかもしれないとも思っていて、それは半分半分くらいのバランスであっただろうか。
だから、またすぐにミカエルは出てくるのではないかと半信半疑であったこともあって、彼女のさみしさはずいぶんと和らいだのかもしれない。
でも、家に帰っていくつかの夜が過ぎても、ミカエルの気配はもうなかった。




