表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

中編

 「愛と勇気を見つけてほしい」


 これがノートの最後のページの冒頭に記された天使の言葉。振り返るとその通りで、愛と勇気が道を開くカギであった。勇気を出せば、ささやかに温かな日々はそこにあり、愛を持てば幸せだった。いつの間にか現実を整えたいという欲に近い気持ちは穏やかになっていて、そうすると身近なチャンスの入り口が見えてくるもので、彼女は少しずつ健全な思考を取り戻していた。この世界の体験と学びを楽しみ始めていた。

 

 時はすぎ、2025年。十分に回復した心と身体は、以前よりも強くなっていて、楽しいという気持ちを大事に暮らす日々。着実に道が開けていく感覚は、自信を彼女にもたらした。このまま生きて行けたら幸せだ。そう心から思えた。


 まだ暑さの残る秋の始まりに明確な変化が意識として突如現れた。整った土壌から、薄緑の芽が出るように、何かがちょこんと現れた。深呼吸をしてみた。目を瞑りピンクがかった白のなかで呼吸を整えてみた。大丈夫だ。様子をうかがいながら殻をたたいていく。思いつく方法で。今なら自分の性質を抑えようとしなくてもいい。もし仮に何かが開けたとしても、闇にいざなわれずに碇を下ろして生きていけるかもしれない。そう何故だか思えた。


 根拠はない。ただ、風向きが変わったことを知らせるシグナルのようなものをぱらぱらと暮らしに見つけるなかで、ようやく水面下の流れが整いつつあることを感じ取っていたのだろう。なんどかの嵐を迎え、凪を経て、ようやく爽やかな追い風が吹き始めた気配を肌で感じていた彼女は、解放することにした。封印が解けてもいい。素直に心の赴くままに生きてみたい──。そう思い、殻から抜け出るのであった。

 

 それまでの数年間は、性質を抑え込むかのように暮らしの中で重りと器具で矯正していたし、見えない世界を開きそうななにかはことごとく避けてきた。途中で、ちょっとくらいなら大丈夫かなと何度か心が惹かれるも、勇気が出ずに引き返す。そして心が進みたがる方向から目をそらし、守りに入り満足していた。


 もちろんその過程にも意味があったのであろう。外から矯正しながらも、同時に内から一歩ずつ詰まりや埃やサビを溶かしていたからこそ、すんなり働いてくれる碇と健全な肉体を手に入れつつあるわけで、生まれてから見て見ぬふりをして放置していた余計な何かは溶けて流れ出るときを待っていた。


 これからは怖がらずに、見えない世界のことにも向き合ってみよう。そう決めた彼女は、様子をうかがいながら現実向けに整えた装備を外していく。なぜだかますますすんなりと進む日常。久しぶりの旅にも出てみることにした。奇異の始まりは、ある温泉宿と神社に向かう旅の直前から起きたものであったから、彼女は旅からもしばらく遠ざかっていた。温泉宿も好きだった神社巡りも封印していた。


 今回の旅先には、温泉も神社もある。神社を訪問することを決めた時、天使は再び彼女の世界に姿を現した。


 天使は、様子を見ながらであるのか、始めは少し顔を出しては引っ込めて、それを繰り返していたのだが、引っ込んでいる間隔はどんどん短くなっていく。またエスカレートしていったら怖いなと彼女は心配になりつつも、仕方がないから声を聞く。天使の出現はますます頻度を増してゆく。少し何かを思えば、質問をしているわけではないのに勝手に答えを届けてくるのだ。


 そんな天使の存在であったが、ただ彼女の日常を賑やかに彩ったのは確かで、それは彼女にとっては楽しいものでもあった。始めは警戒していた彼女だったが、無邪気な天使のペースに飲まれていき、徐々に心が緩みはじめる。脳に微かなシグナルを感じたのなら、天使の声を受けいれる準備を整えていることに気付くも、それを拒否の方向へ変えようとはしなかった。翻弄されてはいけないという心のストッパーと、ミカエルの出現は嬉しいという感情とのあいだにある、彼女の葛藤の揺らぎはどんどん小さく収束していく。


 「おはよう」と朝に天使が現れたときの感情は、やがて戸惑いよりも温かい気持ちになることの方が増えていったのであった。


 久しぶりの旅は雨の予報。旅の日を迎えた彼女は、天使のいる暮らしも悪くないな、なんて思う余裕も出てきていた。折りたたみ傘を持ち、家を出る。道中たびたび天使と話しながら久しぶりの旅を楽しんでいた。雨が列車の窓にパチパチと当たり始める。


 列車が緩やかに止まり降りれば、涼やかな風が歓迎した。雨はやんでいた。列車が雨雲を越えたのかな、降らないうちに楽しまなくちゃ、と足早に階段を登った。荷物を預けて身軽になる。傘はどうしようかと少し悩んだが、預けることにした。こういうことには楽天的な彼女。上着も傘も預けて、旅を楽しむ気は満々だ。濡れてもいいやと、薄手のワンピース1枚と小さな白いバッグを斜めに掛けてコインロッカーに鍵をかけた。


 初めての道の新鮮さを味わいながら、駅前の賑わいを抜けていく。橋を渡り道が始まろうとするも、海辺に吸い寄せられた彼女は、人気のない浜辺を歩くことにした。人が向かう方向から少しそれた道を選び、背の高い松と松の間の細い道を抜けていく。


 そこにあったのは、白く細かな砂の浜辺で、視線を上げた彼女の前には遥かな海が広がっていた。それは木々の隙間から見える海からは想像できないほどの壮大な海であったから、彼女は嬉しくなった。青い空には薄く白い雲がかかる。まだ雨は降らないだろう。始めは上品に歩き進めていたが、次第に開放感に導かれ、裸足になった。靴は左手に持ち、海へと入ってみた彼女。水は思っていたより優しく冷たい。時々ふくらはぎまでやってくる波の先と、足の下から抜け出す砂と沈む足。心地よく繰り返すリズムのなか、波打ち際を踏みしめながら歩いていく。


 青空を眺めていると、女神が現れた。

「神社もいいけど海でたくさん遊んでねっ!」

まるで自分の庭を誇るかのように女神は言った。久しぶりの女神は、変わらない可愛さで美しく自信に満ちていた。


 綺麗な砂浜が続く海だった。ワンピースの裾が濡れることも気にせず、波と戯れながらゆっくりすすむ。潮の香りを吸い込んで。全身を包む風と香りと音。まるで数年間の淀みが流されていくようで、彼女は精いっぱい胸に空気を吸い込みながら、じんわりと足から何かが抜けていく様を感じていた──。
















評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ