18.真の願い
実際に吸収された地獄世界に対する加護をおこなうと、単純に沙石を心配して委託されたのではないということと、記憶を戻された理由を、寅瞳は知った。それは神王として、界王に浄化の基本を教わったことのある寅瞳でなければ成し得ないことだったのだ。
むろんシュウヤが使う究極浄化には及ばない力だが、大龍神が放つ気の浄化能力よりは幾分上である。その力がなければ地獄のように不浄な地へ加護をもたらすというのは苦行だ。そしてなによりも大切なのは、究極浄化の世界である始点界への知識と理解である。この概念を持たなければ、浄化の力を細大漏らさず自在に操ることはできない。根源がそこにあるからだ。魔族が魔力のない地で生きられないように、使族が聖なる力に頼るように、神族が霊力を司るように、浄化の根源を知らずして制御することは不可能である。
しかしここへ来て、新たな問題が起こった。記憶が戻ったことで魂の深部にある信念に気付き、目を反らせなくなってしまったのだ。己が最初にして最古の神であることの意味、つまりは己がこの世に誕生した理由がそこにあり、どんなに捻じ曲げようとしても曲がらなかった事実が今、目の前にある。それを見る時、これは抗えないのではなく、真の願いだからこそ外れまいとする無意識の力が働いた結果だと分かるのだ。
寅瞳は開け放っていた窓に向かい、空から吹いてくる風を胸いっぱいに吸い込んだ。そうしてしばし景色を眺めたあと、意を決して踵を返した。
寅瞳が自室を出て向かった先は、帝人のところだ。
応接室に案内された寅瞳は、勧められるままソファに腰掛け、帝人と向かい合った。
「私が以前、神界の聖域でお話ししたことは覚えていらっしゃいますか」
帝人は眉をひそめた。
「ああ、面会したことは覚えている。だが内容は……すまない。思い出せない」
「でしょうね。界王の話をしましたから」
帝人は渋い顔で寅瞳の表情を窺った。
「あの男の?」
「はい。飛鳥様は始点界という星で暮らしています。そこは究極浄化に覆われた世界です」
「究極浄化に?」
帝人は驚いた様子で背筋を伸ばした。すべてが昇華されてしまうような場所で暮らしていると聞かされれば当然の反応であるが、それもこれも界王という存在がなんたるかを本当に忘れてしまっているからだ。
寅瞳は少しうつむいて話を続けた。
「私は神王として、少しでも飛鳥様のお役に立てればと頑張りました。でも始点界へは行けないと知った時、私ではダメなのだと悟り、とても残念に思ったことをお話ししました」
「……それで?」
帝人の問いかけに寅瞳は顔を上げ、目をまっすぐに見つめた。
「その残念に思う気持ちは、私一人の感情ではなかったのです」
帝人はやや戸惑いを見せ、眉間を寄せた。どう返答していいのか困るのは当たり前である。まして覚えていないのだ、と慮りながらも、寅瞳は続けた。どのような事だろうと、真実は真実だからだ。
「私はすべての民の指針でした。この魂の域に達するまで精進しようという、いわば目印です。そしてみな一斉に神を目指しました。いずれ昇華するために」
帝人は寅瞳を凝視し、額に汗を浮かべた。寅瞳は曇りない瞳で語った——それはこの世に発生した魂の最初の誓いであり、成し遂げなくてはならない究極の夢だと。
「飛鳥様は私たちの望みを叶えるために、この世をお創りになりました。ですから理想郷とは相容れない世界なのです。当然ですよね? 昇華を目指す世界と、昇華を拒絶する世界なんですから。私たちは一体どこで……道を間違えてしまったんでしょう。こんなに大事な目的を忘れて理想郷を望み、飛鳥様を犠牲にして」
寅瞳は不意に固く唇を閉ざし、膝の上で拳を握った。その時を思い出したのだ。しかしやがて強い眼差しを向け、姿勢を正して述べた。
「今度こそ、間違えずに進まなければなりません。私たちは今こそ、飛鳥様から頂いたものをお返ししなければならないのです」
帝人は愕然とした。肉体が持つ望みと魂の願いはまるで違うのだと、神王は告げる。その言葉の重さを理解できない帝人ではない。それゆえに頭を抱えた。
「……ならば何故、忘却の時代にそれを果たさなかった」
帝人の苦悩に寅瞳は困った顔で答えた。
「指針だと申し上げました。私だけでなく、貴方も。私たちには全ての魂を導く義務があったのです。あの印はそのために付けられた天位のようなもの。表面に現れていないだけで、今もあるはずです。貴方には、ずっと見えていたんじゃありませんか?」
帝人が顔を上げると、寅瞳が穏やかに、だが寂しげに笑った。その額には神王の証として刻まれる青い印が見えた。今は透視の力でしか見ることのできない印である。
「理想郷という概念が現れてから、飛鳥様は地上に降りた私を常に観察していました。指針に関わる者の中から天位一位を与えるにふさわしい神を見定めるためです。そして貴方が選ばれ、実際に一位の宝玉を得ても耐えうる精神を鍛えるため、透視能力をお授けになりました。そして何度世界が滅びても再建してくださいました。だけど私たちが本当に望んでいるのは、すべての魂が崇高であることです。理想郷でもなく、限られた誰かでもない。飛鳥様はそのこともご存知だから、選択の自由も三つくださったのです」
「理想郷と昇華と滅亡、だな」
「はい」
「しかし結局、本当に望んでいるのは昇華だと」
「ええ」
「だが我々は肉体を得ると忘れた。そうだな?」
帝人は苦悶の表情で寅瞳を見据えた。寅瞳は唇を噛んでうなずいた。
「肉体とは本来、物質世界で魂を磨くために授かる容れ物です。それを忘れてしまうのは、魂の事情を知っていると偶然が必然になり、感動が薄れて効率的に磨くことができなくなってしまうから——でも身体から離れてしまえば思い出します。そして物質世界でやり残したことや失敗したことを反省して、また生まれ変わる。そうしているうちに磨かれた魂は神格を得ます。ですが、本当に問題なのはここからで」
帝人は指を組んで硬く握った。
「神は肉体を得ても魂の存在でなくてはならなかった。しかし天界へ移行するときに、なんらかの不具合が生じた?」
「はい」
寅瞳は目を閉じ、深く息を吸った。
「神になったことで人は驕り、豊かで穏やかな天上の世界で永遠に暮らせたら問題ないと錯覚し、理想郷を夢見てしまいました。私たちの魂の昇華のために創り上げられた世界なのに、感謝を忘れて忌み嫌い、新たな願いのために界王を苦しめました。しかしそんな中でも界王は、私たちの我が儘を聞いてくださいました。犠牲を最小限にとどめて叶える術を探してくださいました。そしてついに実現させたのです」
帝人は強く目を閉じた。その先は聞かなくても知っているからだ。記憶ではなく、話として。それを帝人は口惜しく思った。どれほどの罪かは想像できる。だからこそ思い出さねばならないのに、記憶は固く閉ざされている。沙石は界王の慈悲だと言った。その優しさが今は恨めしいのだ。
「それで……目指すのか。魂の真の願いを叶えようと言うのか」
やや憔悴した様子で帝人が問うと、寅瞳は何故か微笑んだ。
「そうです。でも忘れないでください。すべての願いには目的があるということを」
帝人は眉をひそめた。
「どういうことだ?」
「帝人様ならお分かりになるでしょう?」
それは心を視ろという意味だ。
言葉に従い、笑顔を浮かべる寅瞳の心を透視した帝人は、目を見開いた。すべてがこの「たったひとつの想い」ために巡っていたのだと知った、その瞬間に。
かといって、長らく理想郷を目指し、そこに暮らした肉を持つ民に魂の願いを理解しろと言うのは、なかなかに難しい問題だ。当面はこの世界を安定させることに終始するだろう。
帝人はそう考え、寅瞳の想いに歯止めをかけた。
「今はそれを明かすべきではない。記憶を戻したのはほんの一部の者だけだ。理解は得られない」
寅瞳は眉を曇らせた。
「また遠回りするんですか?」
「必要ならば仕方ない。だがそれが導かれる運命なら、たとえどんなに遠回りをしても、また道を間違えたとしても、必ずたどり着くだろう」
寅瞳は帝人の真摯な眼差しを信じてうなずいた。帝人が背負った罪はすべての民の罪だ。しかし結局、誰よりも深い傷を負っているのは帝人なのだと知ればこそ。
寅瞳との談話で心労を抱え込んだ帝人が部屋へ戻ると、待っていたという顔で虎里がソファから立ち上がった。
「どこへ行っていた」
「寅瞳殿と話していただけだが」
「そうか」
虎里はホッとした様子で再びソファに腰掛けた。
「そっちこそ何だ。私に用か?」
「い、いや……」
額にうっすら汗を浮かべて目をそらす挙動のおかしい虎里を訝って、帝人は心を覗いた。そして唖然とした。以前、泰善にそれとなく助言されたことが、そのまま投影されていたからだ。
帝人は静かに虎里の横へ腰掛けた。
「十九階と最上階を解放する時、私にはひとつだけ危惧することがあった」
突然そう語り出した帝人を虎里が驚いて見ると、まっすぐに前を見ていた帝人も顔を向けた。それからおかしそうに笑った。
「界王という男は、あの通り凄まじく美しい。もしかしたら……お前の心も奪われるのではないかと」
虎里は何度か大きく瞬きをした。
「それは——」
何か言いかけた虎里の口を、帝人は人差し指で素早く封じた。
「その時に言われた。お前は私が感じるように感じるだけだと」
人差し指を当てられながら、虎里は照れとも苦笑いともつかない表情を浮かべた。
「そんな心配をされるようでは、俺もまだまだだな」
言いながら、唇に当てられた手を握り、肩をすくめる。
「まあ許してくれ。あれ以来、周りの連中も上の空だ。おかげで仕事が滞っている」
あれ以来の「あれ」とは、涼と雪菜の披露宴のことだ。帝人は顔をしかめた。
「そんなに?」
「ああ。表向きだけでも平常心を保っているおぬしや核が、むしろ異常に見える」
「それは問題だ」
というわけで外出のみならず、大講堂内の往来も控えて欲しいという旨を告げに行くと、泰善は不服そうにした。
「またか」
帝人は首をかしげた。
「また?」
「お前の苦言はいつも同じだ。〝引きこもっていろ〟——ふざけるな。俺は神に自由を与えた。お前たちに俺を拘束する権利はない」
もっともな主張に返す言葉もなく、黙して引き下がった帝人だが、ふと既視感に襲われた。以前にもこんなことがなかったか、と。泰善が指摘する苦言のことではない。こちらに自由を与えているのだから拘束する権利はないと言った部分である。
帝人は気になって夜も寝ずに思い出そうとしていたが、いつのまにか眠っていて、断片的な夢を見た。そこでは泰善が魔神・悠崔と対面していた。
泰善は言った。
〝俺がここにいるのは相応の覚悟があるからだ。一時的とはいえ、一介の封術師が魔族に魔剣を献上し支援するとなれば、失業だってしかねない。大変なリスクだ。それを負う俺に、おまえ達は文句を言える立場ではない〟
帝人はハッとして目覚めた。部屋はまだ薄暗い。夜中の二時か三時といったところだ。
帝人はゆっくり身を起こし、その夢が夢ではなく記憶であることを悟った。そこから分かるのは、雪剛の魔剣を譲渡したのは偽りなく泰善だったということだ。
雪剛の魔剣はスノーフィールド全住人の魂を焼いて造ったと言っていた。帝人はその訳を知りたくて、翌日も泰善を訪ねた。しかし泰善は不在で、シュウヤが代わりに答えた。
「頼まれたからだよ」
帝人は眉をしかめた。
「スノーフィールドの民が?」
「そう。化け物になってサンドライトを襲いたくないからって。世の中が平和になったら戻してやるつもりだったらしいけど、どういうわけか連中が戻りたがらなくてさ。あいつも困ってたよ」
帝人はじわりと目を見開いた。旧天上界での出来事は悲惨な記憶でしかなかったが、スノーフィールドの民の心と泰善の慈悲に慰められ、心の景色が広がるような感動を覚えた。あの地にも確かに愛はあったのだ、と。
シュウヤの部屋から出たあと、帝人はその足で雪剛の魔剣を安置している蔵へ向かい、手に取ってみた。戻りたがらない理由も知りたかったからだ。しかし魔剣は沈黙して何も語ろうとはしなかった。
記憶では泰善が「一介の封術師」と名乗っていることから察するに、身分を明かしていなかったと推測できる。譲渡に関しても渋っていたので、どうでも魔族側が要求した可能性が高い。言うまでもなく、雪剛の魔剣は上位天位者でも封を施すことなどできるはずもない強力な剣だ。界王と名乗る男の力なくして治められるものではなかっただろう。にもかかわらず、それがこの世に現れた理由を考える時、思いが至るのはひとつだ。
界王との接触。
理想郷確立の際に記憶操作することを承知していた界王なら、天上人と接触することは極力避けたはずだ。が、天上界に降りなければならない事情が生じた場合はどうか。雪剛の魔剣を製造し、由来も知っている人物が、それを預けるのにふさわしい場所を求めるならどこか。
帝人は「この世に偶然はない」という理の原点に立ち返り、魔剣の中に眠る同胞の魂を想って、持つ手に力を込めた。
そう、すべての事には意味がある。願いの先に目的があるように——
帝人はその意味を模索し、宙を見据えた。