17.遥かなる記憶
「克猪殿の弟君とはな」
神族の事務室にて、書類を提出するため訪れた涼を見て燈月が言うと、涼は苦笑いし、寅瞳と空呈は同意の意思を示してうなずいた。
「かなり疎遠でしたけどね」
涼は言うが、燈月は首を軽く横へ振った。
「いや、羨ましい」
「え?」
「俺は親兄弟というものに縁がなくてな。この世にあるのだから親くらいはいるのだろうが、まったく記憶にない」
「私なんて元よりいませんよ」
燈月と寅瞳が言うのを聞いて、涼は困ったように笑った。
「でも家族同然の仲間がいます。血なんて関係ありませんよ」
「そうは言うが、高位の天位を持つほどになると、血もあなどれない。むろん全てに当てはまるわけではないが、魂の上で近いものは家族として現れることが多い。実際、お前もその血筋によって一世界の管理を任される立場にあったのだろう。空呈殿の双子を見ても分かる。神の力の高低において、これは重要だ。逆に言えば俺の家族にはそういう者が現れなかったのだと思うと、寂しい気がする」
「そういえば、鷹塚の方は多いですね」
涼の視線が空呈に向くと、空呈は少し照れたように頭をかいた。
「おかげさまで。さかのぼれば大御神から、ということになりますし」
そんな会話をしていると、不意にノックもなしに事務室のドアが開いた。何気に目を向けた四人は瞬時に固まった。究極の美を体現した男が入って来たからだ。
「寅瞳、ちょっと来い」
寅瞳は慌てて席を立った。
「な、なんでしょう」
「話がある」
「は、はあ」
寅瞳が返事をして行こうとするのを、燈月がとっさに止めた。
「待て。話ならここで構わないだろう」
「え、でも」
寅瞳がチラリと泰善を見ると、泰善は不服そうな顔をした。
「内密な話のようですけど」
寅瞳がオドオドしながら言うので、燈月は泰善を見やった。
「ここではいけませんか」
泰善は寅瞳を見たまま答えた。
「どうせ反対するだろう」
そうと聞いては余計黙っておられず、燈月はやや勢いをつけて立ち上がった。
「そういうことでしたら、なおさら連れて行かせるわけには」
すると泰善は艶麗な瞳で燈月を見据えた。
「絶対に反対しないと約束するならここでしよう」
燈月は額に汗を浮かべて目を泳がせた。
「どのみち私の意見は無視というわけですか」
「勘違いをするな、セリアス・ランドール」
燈月はギクリとして顔を上げた。美しく真摯な瞳が燈月を見下ろしている。そこには偽りのない輝きがあった。
「寅瞳はかつてのグランスウォールではない。天上界が浄真界と同列の次元に並んだ今、リードレイと呼ばれていた頃の力を取り戻したのだ」
今度は寅瞳がドキッとして肩を揺らした。すっかり失われていた名を呼ばれ、記憶にかかる闇が晴れてゆくのを感じて震えた。
「あ……」
寅瞳は目に涙をにじませながら泰善を見上げた。
「飛鳥様」
泰善は静かに寅瞳を見つめ返した。
「すまない」
「……何を、お謝りになっているのですか?」
「真に神王としての立場を自覚してもらわなければ話にならないので、記憶を戻した。つらいのは分かっている。できることなら忘れたままにしてやりたかったが」
寅瞳は思い切り首を横へ振った。
「いいえ。私は思い出すことを望んでいました。感謝します」
そうして涙を拭うと、寅瞳は改めて泰善を見上げた。
「それで、どのようなご用件でしょう。私は私の意思で答えますから、ここで話してくださっても構いません」
「……では話そう」
泰善の話は、天上界を支える核の加護のことだった。現在沙石が六割を負担し、残りを一割ずつ寅瞳らが負担しているのだが、地獄世界が加わったために増加した負担は沙石に負わせるのではなく寅瞳に頼みたいというわけだ。
なるほど、燈月は反対するだろうと思いつつ、寅瞳はうなずいた。
「分かりました。お任せください」
「寅瞳!」
あまりにあっさり引き受けたので燈月は不満そうな顔を向けたが、寅瞳は無視した。泰善は自分に無理を言わない。むしろ過保護だ。にもかかわらず頼んで来たということは、沙石を心配してのことだろうと。ゆえに申し出を受けないという選択肢はなかった。
寅瞳の表情を見て、意思は曲げられそうにないと察した燈月は、泰善に向いた。
「他の核ではいけませんか」
「神王の位は一位に匹敵する。重い責務は率先して請け負うべきだ」
「貴方はどうです。理を形成する力を有するくらいです。加護の力もお持ちなのでは」
どうでも寅瞳に負担をかけたくない燈月が核心に触れようとするので、泰善は渋い顔をした。
「まともな生活を送れるかどうか分からない。駄目だった場合の保証もできない」
燈月は眉をひそめ、首をかしげた。寅瞳はそれを見て、「界王」という存在がどういうものか思い出せず、いまいち分かっていない者にはピンとこないだろうと察し、説明をした。
「燈月様、飛鳥様は出し惜しみをしているわけではありません。むしろ惜しみないので大変なんです」
「大変、とは?」
「飛鳥様の加護は世界を包む全宇宙に向けられています。つまり私たちはすでに飛鳥様の加護を受けていると言えます。飛鳥様の加護はそれほどに強大なのです。ですから、その注意が一世界に向くのは危険だと思います。受ける側にも相応の器が必要かと」
「加護なのに、か?」
「ええ」
「例えば、どんな弊害が?」
「……たぶん、涙が止まらなくなるのでは」
燈月と空呈、そして涼も、目を丸めて泰善を見た。すると泰善は目をそらせ、ほぼ同時に寅瞳が目を向けた。
「そういうわけですから、お願いします。私の心配はなさらないでください」
確かに一日中泣き通しでは困る、と燈月はやむなくうなずいた。一方で「それにしても」と顔をしかめた。寅瞳の眼差しは煌めいて生き生きとしている。こうも幸福そうに微笑むのは、界王と名乗る男との過去を思い出したからに他ならない。神王たる寅瞳にここまで信頼されている界王とは、天上界の民にとって一体どんな存在だったのだろうかと、想いを巡らせた。
燈月は泰善を見つめ、「自分も思い出したい」と強く願った。寅瞳と共通の喜びを感じたいと思ったのだ。だが見続けるのは毒である。魂を奪われぬうちにそらすのが賢明だ。
燈月はうつむいて、皮肉げに笑った。
「何も思い出すことができない自分が、正直うらめしいですよ」
泰善は目を向けて、表情なく答えた。
「脳が忘れても、魂は憶えている」
「我々はその記憶を引き出したいのです」
「魂の記憶には噓偽りがない。良いことも悪いことも、思い出のように脚色されはしない。現実と変わらないものだ」
「一度は通った現実です」
再び目を向けた燈月の切実さに、今度は泰善が目を伏せた。
魂の記憶の再生は一からである。思い出したいことだけを選別して見るというわけにはいかない。そして忘れた過去が、忘れても仕方ないと思えるほど他愛ないこととは限らない。現に燈月の生い立ちは、その後の命運を分けるほど重要だった。しかし全ては過ぎたことだ。今更——本当に今更それを思い出したからといって、何の益があるのか不明である。だがあるいは、と泰善は思案した。あるいは全てを知る時が来たのかもしれない、と。
六億年という年月を理想郷で生き、いま崩壊の危機に晒されている。それは神々の魂が成熟の時を迎えたという証と言えないこともないからだ。
泰善は伏せていた目を上げた。その瞳には、神から派生していった無数の魂の、最初の願いが蘇っていた。
己を高め、神格を得て神になること。それが人々の願いだった。そして魂を浄化し、清らかな光となること——それこそが神々の願いであった。
いつしか願いが変わり、当初の目的を実現するために開いた世はそぐわぬものとなり、やがて理想郷が求められたが、そうなっても尚、魂は記憶しているのだ。この世に生まれ出でたる時に強く願った想いと、約束を。ゆえに彼らは導かれるのだ。無意識の内に、それを果たすべく。
泰善は燈月をまっすぐに見据えた。
「明日の明け方、東に太陽が昇る頃、西にはまだ月が見えるだろう。大御神と背中合わせに立ち、彼女は月を、お前は太陽を見るといい」
燈月は首をかしげた。
「大御神と?」
泰善は黙ってうなずいた。
そんな話を聞かされた大御神は思い切り胡散臭そうな顔をした。
「そなたが自分の記憶を読み解くのに、我の力が必要と申すのか?」
大御神の反応は当然と思いつつ、燈月は顎をつまんでやや斜め上の宙を見つめた。
「ああ、まあ、ざっくり言うとそのようなことらしい」
「なんとも妙な話じゃが……まあ良かろう」
「そうか。恩に着る」
「むろん思い出したことは、聞かせてくれるのじゃろうな」
「お望みなら」
「楽しみにしておる」
大御神は笑みで答えた。
彼女が快く引き受けたのは他でもない。長らく燈月の出生に疑問を抱いていたからだ。魂の記憶を読み解くということは、この世に現れ出でたる時から順を辿るはずである。これでいよいよ神界人であったか否か解明されるのだ。そう思うと心が躍った。
ところが、大御神の期待は少々誤算であった。泰善が示した方法は、背中合わせにある互いの記憶を呼び覚ます方法だったからだ。
***
魂は光の中に生まれた。傍らには同じ明度と波動を放つ魂があった。互いは同時に生まれたことを意識しつつも、形を成して誕生する地を探していた。
しかし降りると決めた地には問題があった。それは双子の場合、弟妹を押しのけて先に生まれてくる者を邪として下界へ落とすという風習があったためだ。だが二人の運命は同じ腹に同時期に宿るものだった。魂がとても近しく、密に同じであったからだ。
のちの大御神の魂が迷っていると、もう一方の魂が言った。
〝私が先に生まれよう〟
〝しかしそれでは落とされてしまう〟
〝私は私が落ちてしまうより、あなたが落ちてしまうのを見るのが悲しい〟
〝それは私とて同じ〟
〝だが決めなければならない。だから私が落ちる〟
〝理由にならない〟
〝理由ならある。きっとあなたはあの世界にとって必要となる。あなたは残るべきだ。私なら心配ない〟
〝何故そんなことが分かる〟
〝分からないが予感がする。私は畜生に落ちても、広い大地を駆けていられるだろう。しかしあなたは空を見上げるたび、ここを離れたことを後悔するに違いない。それはこの地があなたを必要としていることを、のちのあなたが知るからだ〟
こうして、双子の兄となるはずだった魂は下界へ落とされた。大御神は誕生の瞬間、おおいに泣いた。「元気の良い子だ」と周りは喜んだが、娘が悲しみのために泣いていることを母は悟り、共に涙を流した。
一方、下界へ落とされた子は、冷たい土の上で拾われた。拾った者は言った。
「お前に相応しい場所を与えよう。望む姿を思い描くといい」
その声が界王と名乗る男の声だと気付くのに時間はいらなかった。稀なる美声だ。なによりも大いなる愛に満ちている。このような存在は他にない。
幼い魂は白銀の毛に覆われた大きな狼の姿を思い浮かべた。オオカミという言霊の響きが、大御神と名付けられた妹を忘れさせないだろうと考えたからだ。
しかし途方もなく長い時の流れが、過去を忘れさせた。兄妹は再会を果たしても、互いに思い出すことはなかったのだ。
己の魂の起源を知った二人は、衝撃のあまり言葉を失った。兄妹と知らずに過ごした時は気が遠くなるほど長く、これから先、取り戻そうと思っても取り戻せないと信じられるだけに、尚更やるせなかった。
燈月がゆっくり背を振り返ると、同時に振り返った大御神の頬には涙が伝っていた。
「そなたは……幸福であったか?」
燈月はうなずいた。
「常に界王の導きがあった。苦難もあったが、すべて血となり肉となった。今あなたとここにあるのも、その愛のおかげだろう」
大御神は涙を拭って笑みを浮かべた。
「そうじゃな」