15.石の心
説得という名の鉄拳を克猪の右頬に食らわせた沙石は、すかさずその胸倉をつかんで引き寄せた。
「おいこら、どういうことか説明してもらおうか」
「それはこっちの台詞だ。部屋へ入って来るなり殴るとは、一体どういう了見だ」
空気が穏やかとは言えないまでも無難に箱詰め作業をしていたところへ、思わぬ乱入者である。涼はロウソクを握ったまま青くなって硬直した。兄に似ていない甥だと分かってはいたが、ここまで激しい性格とは思わなかったのだ。
「オレになんか言わなきゃなんねえことがあるんじゃねえのかって聞いてんだよ!」
熱く問う息子の顔を冷静に見つめながら考えた克猪だが、あまりにも思い当たることがないので目をそらせた。
「……いや、ない」
「はあ!? てめえ、ふざけんな!」
沙石は怒鳴り散らして涼を指差した。
「こいつは何なんだ! 言ってみろ!」
克猪は涼を見て眉をしかめた。
「何……と言われても、どう答えればいいんだ?」
「って、まじかテメエ! 普通に弟だって紹介すりゃいいんだよ!」
「何故わざわざそんなことを」
答える克猪の顔はいたって真面目である。別にとぼけているわけではないと感じた沙石は言葉を失って、思わず涼に目をやった。むろん涼も唖然としていて、言葉はないようだった。
「——なあ、オレの親父って重症じゃね?」
「そうだね。最近ちょっとマトモになってきたかと思ったけど、その辺の感情は欠落したままみたいだ。僕が悪かった。もう諦めるよ」
「えっ! 諦めんの?」
「だって、どうしようもない」
うつむく涼が哀れに思えて、沙石はもう一度、克猪に向き直った。
「いまさら聞くのもなんだけど、てめえは本当に家族のこと、なんとも思ってねえのか?」
すると克猪は沙石の目を見て答えた。
「さあ。昔はいろいろ考えていたような気がするが、あまり覚えていない」
「ん? なんだそれ」
「死神の契約を交わした時、感情は捨てるように言われた。まあ、言われなくてもあんな仕事をしていれば、感情は薄れていく。感情が薄れると記憶もおぼろげになるようだ。理想郷へ移り住んでからはわずかに回復したが、もう戻ることはないのかもしれない」
沙石が絶句して再び涼へ目を向けると、涼はポカンとして克猪を見ていた。
死神になる前もたいして感情を表に出さない人間だったじゃないかとも言いたげだが、克猪の言い草があまりにも寂しげだったので驚いたのだ。
「後悔してる?」
涼がポソリと問うと、克猪は沙石の手をほどいて襟を整えながら答えた。
「後悔はしていない。もともと全てを捨てる覚悟だった」
「死神になるために?」
克猪は視線を向けたあと、スッとそらせた。
「さあ——何のためだったかは思い出せないが、とにかく覚悟が固かったことだけは覚えている」
そう答えたきり口を閉ざして作業に戻ったため、沙石も涼もこれ以上は問えず、黙って手伝った。
***
銀の鳳凰に光の筋を描かせた泰善は、闇に覆われた空を見上げた。
その空を超えた場所に新世界を創造しようと思うのだが、流転の世を造るように上手くはいかない。己が理想と思うこの世界さえ、完璧だと断言するに至るまで多くの試行錯誤があった。そうまでして完成させてきた世界を超えるものなどできるはずもない、というのが本音なのだ。
ベランダに立つ泰善の背を眺めつつ、シュウヤは椅子にかけてテーブルに肘を置いた。
「調子はどうだ?」
泰善は不服そうに振り返った。
「いいわけがない」
「そんな顔するなよ。俺も強引だったけどさあ」
泰善は腕組みをして足を軽く交差させ、ベランダの手摺りにもたれた。
「こんな状況でなければ、お前との約束は永遠に果たせなくても、さしたる問題はなかった」
「そうなの?」
「どうせ不可能だ」
「うわっ、ひで」
「仕方ない」
泰善は言って腕組みを解き、再び背を向けて空を見上げた。
新世界を創造することに時間を費やすのは無駄だ。もっと確実で現実的な解決が求められる、と。だがそれには危険が伴う。その決定は界王たる泰善でも相当な覚悟が必要だった。
「この闇、晴らすつもりはあるんだろ?」
シュウヤの問いを背に受け、泰善はため息ついた。
「ラインが描いた銀の帯は闇を切り払う。だが思っていたより遅い。天上界は表向き持ち堪えたが、裏面の事情は深刻なようだ」
「は? じゃあ核の加護なんてあんまり意味ないじゃないか」
「延命させるくらいの効果はある」
「みんなどうにかなると思って頑張ってんだぞ? どうして本当のこと言わなかったんだ」
「希望を持つことは大切だ。俺が考える時間を稼ぐためにもな」
「何を考えるんだ?」
シュウヤは話の流れで質問したが、泰善は言葉を詰まらせた。滅多にない様子にシュウヤは驚き、席を立った。
「何を……考えてるんだ?」
そのころ十八階では、最上階と十九階から追い出された面々が不服を申し立てていた。流転の理になったからといって浄化濃度が階層式なのに変わりはないからだ。
「争う必要がなくなったのだから、上層階を解放してくれ」
虎里が言うのを、帝人は眉をしかめて見やった。
「私に言われても困る」
「誰に言えというのだ」
確かに最高位以外に申し立てる相手はいない。帝人はしぶしぶ最上階へ行き、泰善を訪ねた。そこで顔を見た帝人は、ふと首をかしげた。
「聞いておいていいか」
「なんだ」
「どう呼べばいい」
「名は飛鳥泰善、称号は界王だ。好きに呼べ」
「……分かった。ところで、そろそろこの階と十九階を解放していただきたいのだが」
名前を聞いても思い出す事柄がなかった帝人は、やや残念に思いながら率直に要求を述べた。
泰善は軽く眉をしかめた。
「別に構わないが、いいのか?」
「——なにか?」
「俺がうろつくのを、お前は快く思っていない」
帝人はこめかみを引きつらせた。
「申し訳ない。しかし——」
「その情景は、自然界に対する畏敬と望郷だ。案ずることはない」
次の台詞を発する前に返された言葉は、唐突で意外だったが、帝人の顔を赤らめさせるには充分だった。
泰善を見て万人が抱く想いは、美しい大自然を眺めて感じるそれと変わらない。だから虎里のことは心配するな、と遠回しに言われたのである。世界のことでもなく、仲間のことでもなく、民のことでもない。帝人は己が最も危惧していることを悟られた恥ずかしさで汗が吹き出た。
「本当に……大丈夫だろうか」
「お前が感じたように感じるだけだ」
己が感じたように感じる——それはそれでどうだろうと帝人は思いつつ、上層部が解放されることを皆に伝えた。
「青衣の男を目にすることもあると思うが、うろたえないように」
そのように念も押してみたが、
「無理じゃね?」
という沙石の一言にまぶたを伏せた。
「まあ、まず無理だろうが忠告はした。あとは自己責任で頼む」
噂ではとんでもない怪物らしいと聞き及んでいた神界人や上位天位者らは、固唾を飲んだ。ゆえに、しばらくは部屋にいても落ち着かない日々が続いたが、一週間経っても姿を見ることがなかったので平穏を取り戻しつつあった。そんな矢先のことである。
「この闇は一体いつになったら晴れるのじゃ」
と大御神が廊下を行きながら燈月に問うた。燈月は渋い顔をして窓の外を見た。
「天上に少し晴れ間がのぞいている。この様子だと一年か二年といったところだろう」
大御神は深いため息をついた。
「そんなにか。暗いのは好かぬ」
「それは皆同じだ」
「界王、とかいう男は世の理を築いたのであろう。このような闇くらいどうにかできぬのか」
「どうにかしている結果があれだろう。辛抱強く待つしかない」
そう答える燈月の横顔を、大御神は目を細めて見つめた。象牙色の髪と黄金の瞳。かつては狼の姿をした高級霊だったというが、神界においては認知されていなかった。しかし肉体を持って神界へ上がれたところをみると、並の神ではない。その姿は確かに神界の出であることを証明しているようにもみえる。だが真相は分からずじまいだ。
「おぬしは、消極的じゃな」
「は?」
「思い返せば、我が畜生に落とすと言った時も素直に受け入れた。そのようなことだから、界王とかいう男にも強く要求できぬのであろう。もう少し早く現状を改善できるよう、申し立ててみてはどうじゃ」
燈月は眉根を寄せた。
「お言葉だが、彼はすでに多くのものを請け負っている。これ以上なにを要求しろと?」
「一時的とはいえ、この最上階を追われ窮屈な思いをした。そのうえ闇に閉ざされた日々を耐えねばならぬとは、あまりに非情じゃ。そなたには分かるまいが、長い時を霊体で過ごし、神界から離れたことのない身の者が、肉体をもってここにあることはつらい。かつて神王がわざわざ穢れを負って地上に降りておられた時のようにな」
燈月はグッと奥歯を噛んだ。寅瞳を引き合いに出されては何も言い返せないからだ。そのような不穏な空気を読んだのか否か、空呈が自室から出て来た。
「……お二人で、立ち話ですか?」
空呈が眉をひそめると、燈月は目を伏せ、大御神は前で軽く腕組みした。
「そなたらが不甲斐ないと申しておったのじゃ」
「えっ」
「界王とか申す者に要求できることは全て要求したのか?」
「え、ええ、それはもう」
「聞くところによると、かの者は見るに耐えぬほどの化け物とか。本当はそなたら、臆して半分も要求しておらぬのではないか?」
燈月と空呈はやや目を丸めて互いの顔を見合った。
「とんでもない。第一こちらが要求せずとも、あちらから手を差し伸べてくださったわけですから」
そこへ、下の階から上がって来た覇碕悠崔と海野拡果が加わった。
「なんの話をしているんです?」
燈月が経緯を話すと、悠崔はいたって真面目な顔で言った。
「大御神様、皆様はよくやっていらっしゃいます。時間はかかるかもしれませんが、ここはひとつ、ご辛抱ください」
「しかしのう、顔も知らぬ相手のやることを信じ、黙って見ていろと言われても」
「それはそうですが」
悠崔がなんとなく燈月と空呈を見やると、二人は苦笑いした。
「顔……は見ないほうがいいのでは」
「そうだな。心臓に悪い」
空呈の言葉に燈月が同意した時、一室のドアが開いた。一番奥の扉である。みな一瞬息を止めた。シュウヤの部屋だからだ。
ややあってシュウヤが姿を現した。遠目だが、みな視力は良いのでハッキリと分かる。彼は身なりを整えながら少し背後を気にするようにして言った。
「本当に出かけるのか?」
すると扉の影から声が聞こえた。青衣の男の声である。
「何故だ」
「いやあ、目立つから」
「気のせいだ」
「はあ?」
「部屋の中にこもっていて全て解決とはいかないのだから仕方ない」
「青衣着れば?」
「今は力を抑制するわけにいかない」
「え、あれってそういう?」
「……なんだと思っていたんだ?」
そこでようやく歩を踏み出したシュウヤのあとから、泰善が姿を現した。その途端、みな目を丸めて硬直した。
恐ろしいほどの美貌だ。頭のてっぺんからつま先まで、一片の曇りもない。あまたの美を蹂躙し、あらゆる物の価値を失わせる凄絶な美しさである。
滅紫色の丈長外套を纏い、カフスボタンを止めながら歩いて来る姿に全員が茫然とみとれ、口をポカンと開けていると、集団に気付いた泰善がその顔に笑みをたたえた。
「どうした、こんなところに集まって」
華やかな笑みに、みな心を奪われてしまったが、一度謁見している空呈と燈月はかろうじて己を律した。しかし「あなたの顔のことを話していました」とはさすがに言えず、沈黙した。
泰善は返事がないので笑みを消し、眉をひそめた。そんな表情さえ美しく、つい虜になってしまうのだが、燈月は咳払いして少し目をそらし、場を取り繕った。
「この闇がいつまで続くのか、と」
泰善は渋い顔をした。
「六億年分の負だ。そう簡単には晴れない」
「何か手は」
「打ってある。崩壊しなかっただけでも奇跡だ。贅沢を言うな」
「申し訳ありません。ところで、お出かけですか」
「ああ」
「どのようなご用件で? 差し支えなければお答えください」
「様子を見て来るだけだ」
「そうですか。お戻りはいつ頃になりますか」
「明日には戻る。帝人にもそう伝えておいてくれ」
「かしこまりました」
会釈する燈月を見て泰善はうなずき、シュウヤに声をかけた。
「行くぞ」
そうして二人の姿が階段下へ消えてしまうまでみな惚けていたが、ふと我に返った大御神が尋ねた。
「な、なんじゃあれは」
「え? ですから界王とかいう男です」
空呈が答えたが、大御神は納得しなかった。
「どこが見るに耐えぬ化け物じゃ」
「どうしてそんな噂が立ったのか知りませんが、彼に間違いありませんよ。一瞥で魂を奪われそうなほど美しい、という点では怪物と言えるかもしれませんが」
「莫迦め。奪われたわ」
「すみません。説明不足で」
「そなたは無事であろうな?」
「無事なわけはありませんが、妻と子は裏切りません」
「よかろう」
大御神は言って、よろよろと自室へ向かった。その際、燈月に囁いた。
「すまなかった。できる要求はすべてしたと信じよう」
「は?」
「あなどっておった。あれでは面と向かうだけでも一苦労。その労もねぎらわず、不平ばかり述べた」
「い、いや」
「しばらく休む」
大御神が部屋にこもってしまうと、廊下にたむろしていた四人も解散してそれぞれ自室へ戻った。
シュウヤと階段を下りて行った泰善はと言えば、ちょうど出くわした沙石に捕まっていた。
「あ、いい所で会った」
泰善はざっと周りを見た。
「ただの廊下だ」
「場所じゃねえよ」
「俺は忙しい」
「そう言うなって。ちょっと聞くだけだから」
「なんだ」
「親父がどうして死神になったか、あんたなら知ってんじゃないかと思って」
「ああ」
「えっ! 知ってんのか!?」
「契約して死神にしたのは俺だからな」
「んなっ……!」
沙石は驚き、やや強ばった顔で泰善を見つめた。
「なんで?」
「知ってどうする」
「いや、どんな理由があれば感情捨ててまで死神になろうなんて考えんのかなって思って」
「克猪には、己が天上界の核となる魂の子の親になるという自覚があった。その運命を共にする伴侶が人間ならば、子を世に送り出す時、命を懸けなければならないことも知っていた。神が人を生むのは容易いが、人が神を生むという行為は天地の理を枉げるからだ。しかし子には母が必要だと考えた克猪は、人の魂をこの世に繋ぎ止める力を必要とした」
沙石は目を見開き、固まった。自分が死にかけた時、克猪が銀糸を繋ぎ止めに来た日のことを思い出したのだ。ただその力を得るために、心を石に変えた父——沙石の視界は自然と涙で歪んだ。
「……親父の、感情を戻すことって、できねえの?」
泰善は困ったように顎をつまんだ。
「力を得るには相応の代償がいる。それを承知で選んだ道だ。自分の都合で払ったものを返してくれというのは、虫が良すぎるだろう」
泰善の言葉が素っ気なく聞こえて思わず睨み上げた沙石だが、右目の輝きに当てられて、すぐに目を伏せた。克猪が妻や子に払った代償など小さく感じられるほど、この世界のために多大なる代償を払った男である。牙を剥ける相手ではなかった。
「親父が死神になりたいって言った時、止めなかったのか?」
「よくよく説得したが、あまりに意思が固く、どうにもならなかった。それに旧天上界の民のことを考えると、適任だった。俺との利害が一致した時点で、方向は定まってしまった」
「旧天上界の……?」
眉をひそめる沙石を見つめて、泰善はうなずいた。
「闇の力に飲まれたとはいえ、核の命を脅かしたことを、彼らは最も悔いていた。その苦しみから解き放てるのは、サンドライトの姿をした死神に違いなかった」
泰善は言って、沙石の左肩に手を乗せた。
「許してくれ」
沙石は驚き、とっさに首を横へ振った。
「あんたが謝ることねえよ。ごめん、俺こそ、なんにも知らねえで」
泰善はそっと手を離し、沙石の横を通り過ぎた。シュウヤはその後を追うように一歩踏み出したが、不意に沙石に腕をつかまれ、止められた。
「どこ行くんだ?」
シュウヤはやや頬を引きつらせるように笑った。
「下準備、らしいんだが」
「なんの?」
「さあな。とにかくアイツが天上界を立て直すために必死だってことは分かる。俺が答えられるのはそれだけだ」
「残さなかったものってやつを使えばいいんじゃね?」
「それはなんか、どうしてもやりたくないみたいでさ。なんでか知らないけど」
「そんなに嫌がるなんて、一体なんなんだ?」
「さあ」
二人は遠ざかる泰善の背になんとなく目をやった。
「で、マジでどこ行くんだ?」
「うーん、あっちこっち? 見て回るんじゃないか?」
「あれで?」
「あれで」
泰善の姿を目にする者が果たして正気を保っていられるのか、二人は共通の心配事を胸に抱いて、異常に不安になった。
「止めるんなら今じゃね?」
「止められなかったから、ここまで降りて来たんだろ?」
シュウヤの残念な回答に、沙石は深く溜め息ついた。