14.回転する世界
「ランプ用の油が不足しています」
燈月は報告を受けて、頭を悩ませた。銀の鳳凰が引いた光の帯は少しずつ闇を押しのけてはいるが、非常にゆっくりだ。辺りは常に暗く、陽の光はまだ遠い。何をするにもランプの灯りが必要だった。
すぐに答えを出せない燈月は、返事を待つ天位五の男をチラリと見やった。漆黒の髪と瞳を持つ、なかなかの美青年である。理想郷が確立されてから大講堂でちょくちょく見かけるようになった顔だが、物静かで少し影があるせいか、容姿の割には目立たない。
困った燈月は、となりで事務処理をしている烈火に声をかけた。
「おぬしの力でどうにかできないか」
烈火は渋い顔をした。
「霊力で起こす火の持続時間は三時間程度。実用的ではありません」
燈月は大きくため息ついた。灯りはこれまで必要なかったため、蓄えはほとんどない。これから生成するにしても、需要に追いつくには相当の時間がかかる。どう考えても早急に解決できる問題ではなかった。
「申し訳ないが、ロウソクを使うよりほか手立てがない。そのロウソクも数が限られている。節約してほしい」
すると青年は顎をつまんで少しうつむいた。
「ロウソク、ですか」
「……どうした?」
「在庫に、心当たりが」
燈月は目を見開いた。
「本当か」
「はい。遠方ですが、今なら取りに行けないこともないかと」
「では、早速手配しよう」
「あ、それは是非、私にお任せを」
「しかし、遠方なのだろう。守護石を使うより、現地の居住区民に任せたほうが良くはないか」
「いえ、少々危険な場所なので、ある程度の天位は必要です」
「そうか。ならば仕方ない。よろしく頼む」
青年は一礼して事務室を出た。そして頼まれたことを実行するため自室へ立ち寄り、クローゼットを開けた。が、人が訪ねて来たのでいったん閉めた。
「はい?」
ノックされたドアに向かって返事をすると、
「私。雪菜」
と返って来たので青年はドアを開けた。雪菜は天位四の使族の女神である。青年が大講堂に入って一年ほどした頃に知り合い、交際している相手だ。長く美しい白髪でツツジ色の瞳をしている。見た目の年は十七、八で、目が大きく童顔だ。身長も一五九センチと、天上人にしては小柄である。
「どうしたの?」
「入っていい?」
「どうぞ」
青年は雪菜を招き入れ、茶器を用意した。
「適当に座ってて。紅茶でいい?」
「うん。ごめんなさい。忙しくなかった?」
「大丈夫」
雪菜がソファに腰掛けて待っていると、青年は茶器のセットをローテーブルに置き、ティーポットの横で手を振ってから紅茶を注いだ。
昔からそうである。青年は何か行動を起こす時、決まっておかしな動作をする。たとえば本を読む時は本を回転させ、字を書く時は紙の上に鏡を置く。雪菜は始め変な癖のある人だと思ったが、今は見慣れたので気にしてはいない。
青年が向かいに座って「で? どうしたの?」と再び尋ねたので、雪菜はうなずいた。
「理想郷が、壊れてしまったでしょ?」
「……うん」
「本当はずっと恋人のままでいるほうが楽しくていいと思っていたの。でも先が見えなくなってしまった今は、とても不安で——」
「うん」
「それが確かな物って言えないかも知れないけど、なんていうか、精神的に落ち着きたいの」
「うん」
「それでね、もし良かったら……結婚を考えて欲しいと思って」
「けっ……こん」
青年は驚いて、やや絶句した。雪菜は肩をすぼめて背筋を伸ばした。ショックではないと言えない反応だったからだ。しかし青年は言った。
「それはすごく嬉しいけど、僕なんかでいいのかな?」
雪菜はうつむきかけていた顔を上げた。
「いいに決まってるわ」
「うーん」
青年は目を閉じて腕組みし、何やら思案した。雪菜にしてみれば、何をそんなに考える必要があるのかといったところだが、青年には青年の、よんどころない事情があるのだ。
青年は腕を解き、目を開けて雪菜を見つめた。
「恋を楽しむ分には二人の気持ちがあればいいわけだけど、結婚となると僕の過去とか、家族とか、いろんな問題が出てくるよね?」
「え? ……ええ、そうかもね」
「君がそれを知っても気持ちが変わらないなら、僕はいいよ」
何かあるのかしら、と雪菜は途端に不安になった。なので「少し時間をちょうだい」と言って部屋を出ることになってしまった。そしてそのことをほかの女神たちに相談すると、
「なにそれ。怪しい」
「ていうか、今更あなたの気持ちを確かめようとするなんて、やな感じ」
という意見が返って来た。客観的に見れば確かにそうなのだが、雪菜は何か違うような気がしていた。とはいえ、女神たちは大講堂における恋愛の事情通だ。つまりはこういう問題を解決へ導く専門家である。感想は真摯に受け止めなければならなかった。
「とりあえず、その過去とか家族とか、いろんな問題ってやつを聞いてやればいいじゃない」
と言ったのは麗だ。雪菜は彼女の桜色の目を見つめて、小さくうなずいた。
***
そのころ青年は、ロウソクを補充するためにある人物を部屋へ呼んだ。死神こと沙石克猪である。
「そういうわけだから」
青年は克猪の肩を軽く叩いた。克猪は頬を引きつらせた。
「何がそういうわけだ」
「協力してよ」
「しないとは言わない。だが勝手に頼まれるな」
「勝手に頼まれないと動かないだろ?」
ニッコリと悪意のある笑みを浮かべる青年に舌打ちしつつも、克猪は久しぶりに黒衣を纏った。ロウソクがある場所というのが、生身で立ち入れるような場所ではないからだ。一方、青年は血のように赤い衣を纏った。天上界へ来るまで愛用していた仕事着である。
青年は鏡の前に立ち、怪しげな呪文を唱えた。すると鏡は禍々しい気を放つ鉄扉へと変化した。それはいわゆる地獄門——の裏口である。
青年は扉を見つめ、肩で息をついた。
「良かった……のかどうか分からないけど、ちゃんと行けるようになってるね」
「確認してなかったのか」
「うん」
「開かなかったらどうするつもりだったんだ」
「駄目でしたって報告するつもりだったけど?」
克猪は口元をゆがめ、なんとも言えない顔をしてフードをかぶった。
「行くぞ」
地獄という場所は、何故かやたらとロウソクがある。おどろおどろしさを演出する小道具だと思うのだが、それにしては物がいい。おかげで有難い資源となった。
黒く尖った岩々に無造作に備え付けられたロウソクをひとつひとつ回収しながら、青年は言った。
「誰もいない地獄っていうのも、不気味だね」
「結構なことだ」
「どっちが?」
「ん?」
「誰もいないってことか、不気味だってことか」
「……誰もいないほうだ」
「ああ、そうだね」
どういう意図で質問したのか察した克猪は、沈痛な面持ちで視線をそらせた。青年にとって克猪は冷徹な男という印象の拭えない存在である。普通に考えれば地獄に誰もいないのを良しとするが、克猪がそのような感性を持ち合わせているのか疑問に思ったのだろう。
だが克猪は青年の中の己の印象を訂正する気もなく、己の中の青年への印象も変わる気はしなかった。
「さっさと回収しよう」
「うん」
「どのくらいあればいいんだ?」
「できるだけ」
***
克猪と一仕事終えた青年はその後、雪菜とともに茶会に呼ばれた。空呈と灯紗楴、烈火と暑旬恵、沙石と麗が出席する茶会である。
何故このような組み合わせなのかというと、女ばかりの席に男が一人というのを避ける目的もあるが、男女の目で見て平等に青年を評価するためである。空呈や沙石はともかく烈火まで駆り出されたのは、とうの昔に安土を諦め、今は暑旬恵といい仲だからだ。
場所は中庭で、テーブルの上空に女神によって作り出された光球が三つ浮かんでいる。光球が保つのは一時間程度だ。ちょっとした作業や茶会をするには丁度いいが、作り出すことのできる者が限られているため、やはり公に対しては実用的ではない。
「いっただっきまーす」
沙石がさっそく目の前のクッキーに手を伸ばすと、麗がペチッと叩いた。
「まだ! 挨拶が先でしょ?」
「えーっ、もういいじゃん。知らない仲じゃあるまいし」
「じゃ、本日の主役の顔は?」
「見たことある」
「名前は?」
沙石はいっとき考え、頭をかいて笑った。
「ワリ、知らねえ」
「ほら」
麗にたしなめられて沙石が手を引っ込めると、青年はニッコリと笑って自己紹介した。
「涼です。よろしく」
「おー、よろしく。オレは……」
「崇くんだろ? 知ってるよ」
涼が沙石のセリフに被せて言うと、周りは渋い顔をした。ことに雪菜は少し青くなって、涼の腕をつついた。
「ちょっと、失礼じゃない」
しかし沙石は、
「いいって、別に。んな畏まられるようなタイプじゃねえし、オレ」
と笑って流した。しかし雪菜が困ってうつむいてしまったので、今度は麗がフォローした。
「気にしないでいいのよ、ホントに」
だが烈火が口をはさんだ。
「いや、そこはやはり慎むべきだ」
そこで面倒くさそうに頭をかいたのは沙石である。
「別にいいって言ってんだろ? オレだって最高位にタメ口だし」
すると烈火は沙石に向いて言った。
「それは旧知の仲での話。一緒にするべきではありません」
「ちっ、相変わらず頭かてーな」
「申し訳ありません。しかし——」
茶会が始まっていきなり険悪な空気である。この場合、涼が自分の非を詫びれば丸く収まるはずだが、彼はそんなことよりナプキンの端に印刷されたロゴが気になり、手に取って上にかざし、右や左に傾けたり、回転させたりしながら眺めた。
「そう言われても、僕が崇くんを沙石様って呼ぶのはかなり抵抗があるよ——あ、そうか、タカヅカだ。このロゴ、タカヅカだよね?」
唐突な言動に、みな目を丸めた。そんな涼の姿は雪菜にとって日常茶飯事であったが、これまで接点のなかった者には奇怪に映る。雪菜は慌てて弁明した。
「ご、ごめんなさい。彼、だいたいいつもこんな調子なの」
みんなは呆気にとられた。
「変わってんな」
沙石がボソッと言うと、涼はナプキンを置いてじっと沙石を見つめた。
「な、なんだよ?」
沙石が問うと、涼はため息ついた。
「君は、全然似てないね。顔はそっくりだけど、中身が違いすぎる。正直、驚いたよ」
「は? なんの話だ?」
「うーん、つまりね、どうして君が、あんな情の薄い男の息子として生まれて来たか、という疑問。楓さんと結婚したことも意外だったけど、君はもっと意外だった。なのにあの男の情の薄さはまるっきり変わらないし——なんか意味あったのかな?」
沙石はポカンとした。そして何かフツフツとしたものが胃の奥からこみ上げて来るのを感じた。自分のことをどうこう言われるのは構わない。だが父親のことを言われるのは我慢ならなかった。あんな親でも親なのだ。
「なんでそんなこと言われなきゃなんねえの? あんたにゃ関係ねえだろ?」
沙石が不機嫌になったことを誰もが察したが、その原因である涼は笑みを浮かべた。
「それがあるんだよ。こういう世の中だから関係なく過ごしたかったけど、結婚となるとハードル高いから」
「はあ?」
沙石が大きく首をかしげた、その時。茶会の集団に向かって声をかけた人物がいた。帝人である。
「茶会とは平和だな。仕事はないのか」
みな一斉に襟元を正すように背筋を伸ばしたが、沙石は背もたれに肘をかけて横柄に応えた。
「たまにはいいじゃん」
「まあ暗いからな。気分だけでも明るくしようという姿勢ならば容赦しよう。ところで——」
帝人は涼へ視線を流した。
「あのロウソク、どこから持って来た?」
涼は頬を引きつらせた。
「聞かないでくださいよ。分かってるくせに」
帝人の頬もつられて引きつった。
「大丈夫なんだろうな」
「上等なロウソクですよ?」
「品質に文句があるわけじゃない」
「じゃあ別にいいじゃありませんか」
答える涼の瞳は純真無垢で、不毛な会話が続きそうだと思った帝人は、両手を腰に当ててため息ついた。
「念のため、保管はそちらで頼む」
「え、もう燈月様に渡しちゃいましたけど」
「事情を言って引き取れ」
「結構な量なんですが」
「克猪殿と協力してどうにかしろ」
涼は深く息を吐き、席を立った。
「しょーがないなあ。じゃあちょっと行ってきます」
そう言って涼が立ち去ると、帝人は空いた席に座った。そして沙石の顔をまじまじと眺めた。
「で、これは何の席だ?」
顔ぶれが顔ぶれだけに、帝人には普通の茶会だと思えなかった。互いにパートナーがいる者同士で親睦を深めているようにも見えるが、沙石と涼が同じ席にいるというところが少々奇妙だったのだ。
沙石は頭の後ろで手を組んで、背もたれに体重を預けつつ答えた。
「いやあ、雪菜ちゃんが野郎と結婚したいらしいんだけど、野郎のほうが煮え切らねえみたいでさあ」
「ふむ」
帝人は顎をつまんだ。
「なかなか難しい事情を抱えた男だからな。仕方ないだろう」
「えっ!? なんだよ、あいつのこと知ってんのか?」
「私はこの天上界に暮らす民のことは一人残らず把握しているつもりだ」
「おお、すげえ」
「というより、あの男についてはお前こそ知っておかなければならないはずだが?」
「あ?」
「沙石なんて名字はそうそうない。それが上位天位者で、おまけに地獄で番人をやっていたという経歴の持ち主だ。お前の父親と他人ではないことくらい推測できる」
「はあ!?」
沙石は驚いて席を立った。
「身内だって言うのか!?」
「ああ。どうも克猪殿の実弟らしい」
「なんだそれ! 全然聞いてねえし!」
「お前の父親は薄情なところがあるからな。紹介する気など毛頭ないのだろう」
「し、信じらんねえ……つか、親父があんなんなんだから、自分から名乗ってくりゃいいじゃん」
「いや、だからこそ意地でも克猪殿に紹介させたいのだろう」
「なんだそりゃ」
「さて。私も記憶の一部を覗いただけなので詳細は語れないが、家は兄が継ぐものと思い込んでいた彼は、克猪殿が帰ってくるのを辛抱強く待っていた時期がある。だが克猪殿は帰らず、勝手に死神になったあげく、いつのまにか結婚してさっさと異界の住人になっていた。必然的に次男である彼がすべてを被ったわけだが、それが実に面白くないらしい」
「……なんか、オレの親父最低だな」
「そうだな」
「おい、ちょっとは否定しろよ」
「いや、さすがに私もフォローできない。読み書きが得意ではなく、何をするにも人一倍時間のかかる彼にとって、家を継ぐのは不可能に近かった。それを無理矢理継がされたのだ。まさに仕方なく——無能どころか、人並みのことさえままならない次男を家長に据えねばならないと、親戚一同が揶揄する中で」
帝人は言いつつ、嫌な気分を振り払うように顔の前で一度手を振り、息を吐いた。
「誰も理解しなかった。回転している、彼の世界を。その苦悩を思うとな」
沙石は眉をひそめた。
「回転?」
「私も初めて彼の目を通して世の中を見たとき驚いたのだが、分かりやすく例えると、鏡の中だ。彼に見えているのはすべてが反転した世界だ」
「なっ——マジか。つか、そんなことあんのか?」
「ああ。脳の障害のひとつだが、彼の場合は症状が重い。普通は文字に対して顕著に現れる症状だが、目に映る全てのもの、となるとキツイ。しかも見え方が一定ではない」
「ていうと?」
「常に反転しているなら、反転しているものだと意識して慣れていけばいい。だが時に逆さまであったり、九十度傾斜しているだけのこともある。これでは目に見えることは当てにならない。故に、人並みのことを自然にできるようになるまでの努力は大抵ではなかったはずだ。だが誰もそれを知らない。知ろうともしなかった。お前の父親もだ、沙石」
帝人に見据えられ、沙石はビクリと肩を揺らした。
「とはいえ、克猪殿も人の子。周りが思うほど冷たくはない。その石の心は、死神に徹するために必要だっただけのこと。魂はちゃんと燃えている。ただ表に出すのが苦手なだけだ」
沙石は帝人を見つめ返し、拳を握った。
「オレ、親父を説得してくる」
帝人は笑みを浮かべた。
「ああ、そうしろ」