09.虚偽の愛
沙石と寅瞳はしばらく謹慎処分をくらったが、怪我人や病人の情報と薬品不足の現状について詳細を伝えられたほかの核は、燈月、虎里、烈火、珀画の護衛のもと、方々へ治療にあたることとなった。むろん沙石と寅瞳も「行く」と言い張ったが、大事があった後なので認められるはずはなく、帝人の監視下にある。
その際に事故の時の記憶を透視した帝人は、しぶい顔をした。寅瞳がそれについて少しも触れないからだ。
「なぜ言わない」
不意に問われた寅瞳がビクリと肩を揺らすと、隣に腰掛けていた沙石が顔を向けた。
「なんだ? 急に」
「事故現場に青衣の男が現れたことを、誰にも話さない理由はなんだ」
沙石は目を丸めて寅瞳を見た。
「そうなのか!?」
寅瞳は目を泳がせてうつむいた。
「……すみません」
「理由を言ってくれ」
寅瞳は膝の上でギュッと拳を握った。
「怖いんです。みんなに危害が加えられるんじゃないかと思うと。あの時は無我夢中で、怒りに任せて刃向かったんですけど」
帝人は大きく息を吐いた。
「口から出たものは戻せない。そんなことを後悔しても仕方がないし、その場に私がいれば、代わりに同じことを言っていた。何があっても正直に話してくれ。一人で抱え込まれると、余計に心配になる」
「も、申し訳ありません」
「で? 何があったんだよ」
沙石が気にして聞くので、寅瞳は正直に打ち明けた。すると沙石は憤慨して立ち上がった。
「あの野郎! そんなこと言ったのか!? なんで話してくんなかったんだよ!」
「お前がそうやって気を高ぶらせるからだろう」
帝人が代わりに答えつつ、沙石の肩をつかんで力を加えた。
「座って落ち着け」
「けどよお!」
「すみません。みんなが嫌な思いをするかと思って」
「バッカ野郎! そういうのは分け合えってずっと言ってるだろ?」
「……はい」
寅瞳が反省したところで、沙石はようやくソファにドカッと腰を下ろした。
「にしてもムカつくな。だれが足掻いてやるかってんだ」
「しかし勢力は増している。流転の世はこの世の始まりから理想郷の確立まであったのだ。その支配力は半端ではないだろう。必死に抗わなければ簡単に飲まれかねない」
「でもまだどうにか第一居住区でおさまってんじゃん。案外大したことねえんじゃね? いま大龍神とかが頑張ってんけど、朱の紋様が一瞬で消えるっつってたし、うまいこと停止の理が働いてんだよ。オレらが優勢で間違いないって」
「だといいが」
帝人は頬杖ついて窓の外を見た。寅瞳の強い意思のおかげか、嵐の峠は越えたように感じる。沙石の言うように、停止の理が流転の理の支配力を押し返しているのだろう。しかし——
(かつての支配者だと言うなら、浄真界の神の影響力が大きいことは分かっていたはず。それを突き放したのは何故だ。どんな勝機があってそんなことをする)
帝人は心の中で問いながら、ゆっくり目を閉じた。
***
シュウヤは泰善の腕で増殖を続ける朱の紋様に苛立っていた。痛みを和らげるため懸命に究極浄化の力を当てているが、描かれるほうが速いのだ。
「どういうことだよ。停止の理が優勢になれば楽になるんじゃなかったのか?」
ベッドに横たわっている泰善は、右腕で目元を覆った。
「むろん、楽になった」
「いやいや、説得力ないから」
「沙石と寅瞳の痛みを請け負う際、導線を引いておいた。その影響だ」
「導線?」
「五人の核が請け負うものを、自動的に転送させている」
シュウヤは目を見開き、毛を逆立てた。
「なんでそんなこと!」
「嵐が続けばつらい状態になる、と話したはずだが」
「……連中のことじゃなかったのかよ」
「連中がつらいのは当然だ。そのうえ核まで弱っては、じきに立ち行かなくなる。だが奴らは怪我人や病人を放っておける性分ではない」
「だから仕方ないって言うのか?」
「そうだ」
「納得いかない。お前はもう充分苦しみに耐えた。これ以上、請け負って欲しくない」
「すべての死を請け負った、その苦しみに耐えられたからこそ自信を持って請け負えるのだ」
「前向き過ぎる」
「お前は悲観的だ」
「しょうがないだろ! 悲しいんだから」
シュウヤは泰善の腕に額を押し当てて目を閉じた。泰善はその頭に右手を置いた。
「俺は幸せだ。お前を得られずに今を迎えていたらと思うとゾッとする」
シュウヤは涙を流して呟いた。
「……馬鹿野郎」
その後も朱の紋様は増え続け、泰善は熱にうなされた。
「負担がないので調子に乗っているようだな」
単に不調を説明するための、叱責する意図のないセリフである。泰善がどういう男かよく分かっているシュウヤにもそれは伝わったが、やるせなさは募った。
「大丈夫か?」
「ああ。ダメだと思ったら、いったん始点界へ引き上げる」
シュウヤは窓の外を見た。寅瞳の強い反感を買ったおかげで、嵐は弱まっている。だがそのせいで核の活動には支障がなくなり、泰善の腕に描かれる朱の紋様は増殖している。いつまで続くのか、いつ終わるのか。シュウヤの気持ちは焦りと苛立ち、苦しみと悲しみにとらわれていった。
そんな心を察した泰善は、左腕の上にあるシュウヤの手に右手を重ねた。
「俺と生きるかぎり、終わりは来る。苦しみの後には至福がある。悲しみとは続かないものだ。夜明けを信じろ」
シュウヤは泣きそうになって歯を食いしばった。
「そのセリフ、寅瞳に言ってやりゃあ良かったんだ」
泰善は苦笑した。
「正反対の言葉で伝えたつもりだが」
「伝わらないだろ」
「だろうな」
***
嵐は半年続いた。徐々に弱まってはいるが、完全に落ち着くにはまだ期間を要する。
しかし、謹慎を解かれてからは沙石や寅瞳もほかの核と一緒になって治癒活動を始め、天上人は士気を高めていた。核はいつの時代も民の希望というわけだ。
「この調子でいけばオレたちの勝利だな」
「ですね」
廊下を行きつつ意気揚々と話す沙石に、寅瞳は笑顔で答えた。
その一方で克猪は、当初に感じていた疑問をさらに大きくしていた。核の朱の紋様についてである。
よしんば停止の理の働きによるものだとしても、請け負った瞬間に消化してしまうということが、はたして可能だろうかと。怪我人や病人が跡を絶たないのは、流転の理が支配しているからだ。そんな状況下で核にかぎって停止の理の恩恵を受けているというのが、どうにも解せないのである。
この大いなる矛盾を解き明かすものが必ずあるはずだ、と克猪は思い、行動を起こした。これまでも核の身辺を調べていたのだが、疑問が増すばかりで解決の糸口は見つからない。そこで百八十度、視点を変えてみることにしたのだ。つまり敵側に立って考えてみようというわけである。
それは正義ではない。先にも述べたとおり、息子を救った奇跡の原因を探りたいだけだ。そもそも流転の理にあれば怪我や病気などキリがない。治癒を施したところで終わりの見えない作業である。核の犠牲が報われないこのような行為に、克猪は何の意義も見出せなかった。むしろ加護や治癒に頼らない生き方を善とみなしているくらいだった。死にゆく者の未練を断ち切らせ、魂の行く先を先導してきた彼らしい考え方である。より高みへ導ける魂はみな、相応の試練を乗り越えているからだ。ようは、その試練を軽減したりなくしたりする核のやり方には異議大有り、といったところだ。ゆえに、
「核の力に頼る者も、頼ってくる者を甘やかす核も気に食わない」
というのが彼の主張だ。
もちろん、どうしても核の力が必要だという者もあるだろう。しかしそれは例外的であり、稀でなければならなかった。
克猪は鷹塚永治のもとへ向かった。普段は誰の呼びかけにも応じない永治だったが、克猪が「朱の紋様について確かめたいことがある」と言うと、素直に応じた。
居間へ通された克猪は、まず目元をしかめた。永治が桶一杯の氷を製造していたからだ。嵐が長く続いているせいで肌寒く感じるほどであるのに何をしているんだ、といったところだ。
永治は克猪の視線の先を見て、苦笑した。
「長官の依頼です」
永治が言う長官とはシュウヤのことだ。
「何故こんなものを?」
「元帥の苦痛を少しでも和らげるために」
「——どういうことだ?」
「知りたいですか?」
永治は不敵に笑み、克猪を見据えた。克猪は固く拳を握ってうなずいた。
「お話するより見たほうが早いでしょう」
と言って永治が克猪を連れて行ったのは、隣の部屋だ。つまり青衣の男が占拠している部屋である。
「氷を持って来ました」
永治が言うと、ドアはあっさり開いた。しかしドアを開けたシュウヤは、克猪の姿を見て眉をひそめた。
「なんだ?」
「すみません。どうしても知りたいことがあるようでしたので」
永治が断ると、シュウヤは何かを察したように口を閉ざした。克猪は不審に思いながらも、うながされるまま奥の寝室へ向かった。
その日を境に、克猪は引きこもった。そうせずにはいられないほど精神的に参ったのである。
「理想郷の崩壊を招いたのは、俺です」
と告白した永治の顔が、克猪の脳裏に焼きついていた。
「元帥は、その罪をかばってくださるおつもりなのです。核全員の痛みを請け負い、かつ己を敵に回して、この理想郷を立て直そうと苦心なさっています。どうか克猪様も、元帥の御心をおくみ取りください」
淡々と述べる永治の目は、何も知らない天上人を嘲笑っていた。愚かとも呼べないほど哀れだと言いたげに、冷めていた。しかし克猪の心には一切の嫌悪も怒りもなかった。真にその通りだと思ったからだ。
動揺を抑えられなかった克猪は、大きな窓へ歩み寄って空を仰いだ。そして気がついた。この世界は青衣の男の気によって守られていると。真実ではないことを真実であるかのように映してきた空——そこには果てしなく深い愛が溢れている。そのことが神の目を通して明確に感じられた。
「あれは、目覚めた者にしか見えないんですよ」
窓辺に並んで同じように空を見上げた永治に、克猪は顔を向けた。
永治は清々しい眼差しで、達観した笑みを浮かべていた。
克猪はすべてを理解して目を伏せた。
この男は「真理」に気がついたのだ。だからこそ理想郷を壊した。ただそれだけが真実なのだと。