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神影(しんえい)改訂版  作者: 礎衣 織姫
第十三章 完結
85/108

05.侵略者

 鷹塚永治の双子の弟である鷹塚光治は、突然押しかけてきた青衣の男に驚いて硬直した。顔を含む全身を青い布で覆い隠した、高身長の、世にも奇妙な不審者である。しかし高級感漂う青衣の縁に施された刺繍の美しさは目を引く。

 相応の身分がある者かもしれない。そもそも大講堂の十九階で悪事など働けるはずはないので、警戒する必要はないと光治は思った。が——

 ほぼ同時に入ってきたシュウヤが勢い良くドアを閉め、錠をかけた。直後にけたたましく廊下側から叩かれたが、青衣の男もシュウヤも無視して、光治が座っている向かい側のソファに腰を下ろした。なんとも太々しい態度だ。

 光治はキョトンとしつつ、読んでいた本を閉じた。

「何やってるんですか?」

「悪いけど、しばらく人質になってくれ」

「はぁ!?」

「別に危害は加えないから」

「当たり前です。ていうか、いくら長官の頼みでも、そんなの聞けませんよ。何やったんですか」

「何かやったのは、お前の兄貴だ」

「え?」

「永治の身柄を確保するまで、お前を解放するわけにはいかない」

 光治は動揺しつつ、閉じられたドアを見た。廊下側に誰か駆けつけていることは疑いようがないので、念動力で開けようと試みたのだ。しかし上手くいかなかった。するとシュウヤが、

「無駄だ」

 と言った。そして親指で青衣の男を指し示した。

「お前の力は封印してある。この部屋にも結界を張った。連中はこいつの許可なしに入ってくることはできないし、お前も兄貴が来るまで力を使えない」

「どうしてそんなことが」

「余計なことは聞くな。とにかく永治を寄越すよう、外の連中に言え」

 光治は険しい目つきでシュウヤを睨んだあと、青衣の男を眺めた。

 先ほどからひと言も発しない。表情が見えないだけに不気味だ。しかし比較的ゆったりとした青衣を身に纏っていても、ソファに掛けて背もたれにもたれ、腕や足を組むと、それなりに身体の線が出る。これで背の高さだけでなく、全体の様子も少しは掴める。

 そう思って観察し始めた光治だが、次第に惹きつけられて茫然とした。隠された頭部から肩までのライン、肩から肘、肘から袖口に少し見える指先までの長さ、そして腰元から膝、膝からつま先。じっくり見れば見るほど異常にバランスが良く、美しい造形であることが分かる。

 無意識に目が離せなくなっていると、その隣に座っていたシュウヤが光治を見据えながら青衣の男の肩を抱いた。

「これは俺のだから、妙な気起こすなよ」

 光治は我に返って頬を紅潮させた。

「起こしませんよ。それより兄さんを呼んでどうするんです? 危害を加える気なら、要求には絶対に応じませんよ?」

「そんな物騒なことするかよ、なあ?」

 シュウヤは青衣の男に問うたが、青衣の男は首を横に振った。

〝永治を呼ばないのなら、光治を始末する〟

 シュウヤは真っ青になった。とても彼の言葉とは思えなかったからだ。

「冗談だろ?」

〝奴は停止の理を破壊しつつある。放ってはおけない〟

「でも」

〝光治は永治の半身だ。失っては生きて行けないだろう。永治がこの世を去れば崩壊は免れる〟

「ほかに方法があるだろ!?」

〝ほかの方法では間に合わない。被害を最小限に抑えるには、まず原因を排除し、次に拡大を阻止するため境界を定め、流転の理を再構築したのち、縫い止める。これが最速で最善だ〟

「話し合ってから決めたって遅くないだろ!? 今ごろ後悔してるかも知れないし」

〝後悔しても遅い〟

 青衣の男の声はまったく聞こえないが、血色を失くしたシュウヤの顔を見て、光治は何か良くない話をしているのだろうと察した。

「兄さんはどうなるんですか?」

 静かな声で問うと、シュウヤはゆっくりと光治を見据えた。

「とにかく、説得できるのはお前だけだ。一刻も早くここへ連れて来るように言ってくれ」

「でも……」

 光治は青衣の男をチラリと見た。するとシュウヤが大きく息を吸ってキッパリと言った。

「心配するな。絶対に傷つけない」

 光治はシュウヤと青衣の男を交互に観察した。しかし青衣の男がシュウヤに何か反対しているふうはない。なんにしても、シュウヤには恩がある。一番大変な時に味方になってくれた人だ。その人が言うことなら信じようと思った。

「——分かりました」


***


 帝人から事の次第を聞いて、空呈は真っ青になった。

 大講堂を訪ねてきたシュウヤと正体不明の男が永治の部屋へ立ち寄り、何事か囁き合ったと思ったら、急に走り出して隣室へ立てこもり、光治を人質にして永治を呼べと要求したのだ。目的は分からない。だが呼ばなければ光治の身の安全は保証しないと言う。

 死も苦痛も存在しない理想郷にあってそのような脅迫は本来なら通用しない。だが相手はシュウヤだ。究極浄化を使われたらおしまいである。

「申し訳ない。私がついていながら」

「いえ。相手はシュウヤ様。寅瞳様を人質に取られて脅されたのでは仕方ありません。しかし、なんのつもりで」

「再三尋ねてみたのだが答えない。それで、永治は?」

「今、手分けをして捜していますが」

「そうか」

 帝人と空呈は閉ざされた扉を見つめた。

「どうにかして破れませんか」

「理想郷において、物を壊せるのは貴殿のご子息しかいない。しかしそうする様子はない。おそらくシュウヤ殿の究極浄化を恐れて自重しているのだろう」

 空呈は頭を抱えた。

 一方で、帝人は渋い顔をして顎をつまんだ。最も気になるのは青衣の男である。あのように異様な格好をするのには何か意味があるのだろう。考えられるのは、正体を知られたくないとか、単純に顔を見られたくないとかいうことだろうが、より穿った見方をするなら、未浄化の地の者が浄化された地へ踏み入るための手段であるかもしれない。これまでそのような方法はなかったが、偶然見つけ出したのだとしたら問題だ。

「とにかく、まずは要求に答えて出方を見よう」

「はい」


 一日、二日、三日と、日が経つごとに帝人らの緊張と苛立ちは募った。光治を人質に取ってシュウヤとその連れが立てこもっているという事件は、すでに周知のことである。創立祭も途中で打ち切られ、各所で心配する声も上がっている。しかし依然として永治の行方は知れず、事は一向に進展しないのだった。

 杉沢英路も騒ぎを聞きつけ、最高位に謁見を申し出た。彼は床に額をつけ、心の底から謝罪した。

「申し訳ありません。監督不行き届きでございました」

「仕方ない。もともと週に一度しか所在の知れぬ男だ」

「はあ、しかし」

「こちらも何度か監視をつけたが、そのたびにまかれて行方をつかむことはできなかった」

「本当に、申し訳ありませんでした」

 英路は一度も面を上げず謝り続けたが、実は帝人の言うとおり、分からなくても仕方のないことだった。シュウヤは週六日を始点界で過ごし、一日だけ天上界で暮らすという生活を続けているからだ。始点界への移動はもっぱら界王の召喚術でおこなわれ、天上界へ降りるのも同じ原理なので、つかまえられる訳はない。


 四日目。青衣の男が動いた。今までソファに腰掛けたまま身じろぎもしなかった男が不意に立ち上がったのだ。シュウヤと光治がギョッとして見上げると、青衣の男は片手を差し出し、シュウヤを介して光治に立つよう命令した。

「立って、そこに手を置けって」

 光治は立ち上がり、緊張しながら青衣の男の掌に自分の手を乗せた。

〝今から浄真界へ瞬間移動する。この六億年で、天上界は浄真界と同次元に並んだ。この階から上と同等の環境なので心配はいらない〟

 シュウヤは目を瞬かせながら、その言葉を光治に伝えた。そして安堵した。始末するなどと言っていたが、いったん異世界へやるということは、どうにかして最悪の事態を避けようとしている証拠である。口では厳しいことを言っても、中身はやはりいつも通りだと分かって嬉しかった。

 一方、光治は唖然としていた。浄真界は過去に神王が暮らしていた世界だが、今は理想郷との接点を持たない世界である。だからそんなところへ行けるはずがない、と思ったのだ。しかし息を飲んだ次の瞬間には、ガラッと変わった景色の中に立っていた。

 澄み渡る青い空。筋状に流れる白い雲。髪を揺らし、頬を撫でる風。それらはすべて永治が焦がれていたものだ。久しぶりに見る光景は、目に新鮮で美しい。

 光治が惚けていると、青衣の男が言った。

「屋敷へ案内しよう」

 光治は初めて聞く声に脳が痺れ、驚いて瞬いた。穏やかで心地よい美声であるが、「何かを支配する力がある」と感じさせる恐ろしさもある。

 知らない所へいきなり連れてこられて不安は募るばかりだが、光治は従うしかなく、ついて行った。すると川が流れる平原の真ん中に、それほど大きくはないが小さくもない屋敷が見えた。木枠のある白壁で、紺色の屋根瓦を使用した、二階建ての洋館だ。

「ここでは食事をしなければ空腹で動けなくなる。食料は台所にいけば充分にあるが、地下の貯蔵庫にもある。足りなくなったら勝手に補充しろ。部屋は好きな部屋を使え」

「はあ」

「差し当たって不自由なことはないと思うが、聞いておきたいことはあるか?」

「どうして俺をここへ連れて来たんです?」

「理想郷の崩壊を緩やかにするためだ。お前は永治の半身。半身がいなくなれば、影響力も半減する」

「ちょ、ちょっと待ってください! 兄さんが理想郷を壊してるっていうんですか!?」

「そうだ」

「どうしてそんなことが分かるんですか!」

 青衣の男は西を指さした。

「見ろ」

 光治は指されたほうを見た。地平線に近い位置に針でついたほどの小さな光がある。

「星ですか?」

「天上界だ」

「えっ!?」

「理想郷であるうちは見えない。流転の世であれば地球から見た月くらいの大きさに見える。あの光は理がほころび始めている証拠だ」

「……それで、どうして兄さんが」

「俺のことを思い出さない限り、停止の理がほころびることはない。あの世界に生きるすべての者の記憶をチェックした結果、該当者は永治一人だった」

 光治は絶句しそうになるのを懸命にこらえ、息を飲み込んだ。

「あなたは、何者なんですか?」

「知る必要はない」

 光治は眉をひそめた。

「そんな回答ってありですか?」

 しかし青衣の男は答えず、背を向けた。

「俺は天上界へ戻る。たまに様子を見に来る。要件があればその時に言ってくれ」

 そうして、青衣の男は止める間もなくかき消えるようにして浄真界を去った。


 残された光治は、とりあえず屋敷の中へ入ってみた。古さは感じるがよく手入れされていて綺麗だ。台所とリビングと、書庫と貯蔵庫、応接間、そして部屋が三つ。どの部屋もだいたい同じ広さだが、一部屋だけ木馬と積み木が置いてある。子供がいたんだろうかと思いながら部屋を見回すと、写真立てが伏せてあった。立ててみて、光治はハッとした。

 幼い頃の寅瞳が写っていた。カメラに向かって笑い、手を振っている。

「ここ、本当に浄真界なんだ……」

 光治は呟き、幸せそうな寅瞳の笑顔に安心感を得た。この写真を撮ったのは、おそらくあの青衣の男だろう。そして寅瞳の笑みは絶大な信頼を寄せているように見える。部屋も良い家具が揃えられていて、とても大切に育てられたのだと想像できる。ならば自分の身も一応安全だろう、と。

 しばらく写真を眺めていた光治は、ふと窓辺の明かりに気が付いた。オレンジ色の光に思わず駆け寄り、ガラス越しに空を見ると、燃えるような夕日が広がっている。茜色に染まる雲。ほんのひと時の芸術である。

「……すごい、綺麗だ」

 胸の奥からこみ上げてくる感動に、光治は震えた。

 ずっと見なかった景色は信じられないくらい美しく、懐かしかった。

「兄さんが焦がれるのも無理はない、かな」


 それからしばらく、光治は朝日が差すと共に目覚め、星の瞬きの下で眠りについた。

 ちゃんとしている、と光治は思った。好きな時に起き、好きな時に寝て、嗜好程度に飲食していた時と違って、ここでは何もかもが規律正しいと感じた。すると自然に背筋が伸びて、清々しい気持ちになった。

 毎日が充実していて、精神が日に日に成長しているのが分かる。こんな感覚はとても久しぶりだ、と。空腹で物を食べるのは美味しいし、運動した後の疲労感は、眠りにつく時の幸福につながる。なにもかもがバランスよく循環していると感じられた。


 二週間経った頃。光治は庭へ出て、落ち葉が溜まっているのを見つけた。風の匂いで、秋が近づいていることを知った。光治は倉庫へ行って竹箒を拝借し、庭を掃いた。そして掃くごとに心が晴れていくような不思議な気分を味わった。

「こういうの、修行って言うんだっけ」

 光治は一人つぶやき、顔をほころばせた。

「こんなに楽しいことが、昔はつらかったのかな?」

 顔を上げ、少し冷たい風を吸い込む。遠くの山は紅葉が始まっている。緑から黄色、黄色からオレンジ、オレンジから赤。美しい濃淡にしばし見とれ、陽の光を反射するうろこ雲に目を細める。

 光治は「生きている」と感じた。身体の内から漲る生命力と、大気に溢れる野生が一体となって渦巻いている、と。ゆえに自然と涙がこぼれた。

 この大自然は厳しくも、優しい。そんな大いなる存在があったことを、なぜ忘れていたのかと。


***


 光治を浄真界へ送り出した翌日。

 青衣の男が「境界を定める」と言ったので、シュウヤはいったん部屋を出て隣室へ赴き、帝人らに警告した。

「第一居住区を閉鎖しろ」

 永治の部屋で待機していた帝人、寅瞳、空呈、沙石、燈月、虎里は、腰を下ろしていたソファから一斉に立ち上がって、厳しい眼差しを向けた。

「どういうことだ」

「境界が敷かれる。以後、往来はできなくなる。第一居住区の者は速やかに戻るよう伝達し、明日までに完了させてくれ」

「光治は?」

 と尋ねたのは空呈だ。シュウヤはうなずいて答えた。

「心配ない」

「会わせてくれ」

「それはできない」

「何故だ」

「浄真界へ送った」

「なっ」

 みなが驚き、空呈が青ざめる中、シュウヤは寅瞳に向いた。

「あの洋館、覚えているだろ?」

「え、あ、はい」

「光治はそこにいる」

「ど、どうしてですか?」

「それは——言えない」

 顔をそむけて目を伏せるシュウヤに、脇から沙石が詰め寄った。

「いい加減にしやがれ! てめえ、自分が何やってるか分かってんのか!?」

「分かってる」

「じゃあ言えよ! 腹ん中で考えてること!」

 シュウヤはきつく沙石を睨んだ。

「言えたらとっくに言ってる! けどなあ、たとえ言えてもしょうがないんだよ! どうせお前らはまた……」

「なんだよ?」

 睨み返してくる沙石から目を外し、シュウヤは奥歯を噛み締めながら吐き捨てた。

「また忘れちまうんだ」

 シュウヤは踵を返して、背を向けた。

「とにかく第一居住区を閉鎖すること」

「何やらかす気だよ」

「その時が来れば分かる」

 そしていざとなれば、また泰善が犠牲を払う。

 シュウヤはそう心の中で呟いて、部屋を出た。


***


 シュウヤに言われるまま第一居住区を閉鎖したその日。永治の部屋で待機する六人にお茶をいれていた麗が、ティーカップを落とした。彼女は焦ることなく落ちてしまうまで待ったが、次の瞬間、全員の肩が揺れた。カップが高い音を鳴らして砕けたからだ。

「——え? 嘘」

 麗は青ざめ、金縛りにでもあったように固まった。停止の理において、物が壊れるというありえないことが起こったからだ。帝人らも同じ気持ちで茫然としたが、いくら理想郷での生活が長いといっても流転の世に暮らしていた時よりは短い。彼らは身に染みついている行動を自然と起こした。

「大丈夫か?」

 沙石は麗の手を握って落ち着かせ、燈月と空呈は割れたカップを手早く片付ける。帝人はそれを眺めつつ、思案した。

「シュウヤ殿の目的が見えてきたな」

 沙石は帝人を振り返った。

「なんだよ?」

「実験的なものか本気かは分からないが、第一居住区を理想郷の理から外し、流転の世を甦らせるつもりなのだろう」

 沙石は目を見開いた。

「そんなことできんのかよ」

「分からないが、実際こうしてカップが割れた。ここはもう流転の理に支配されはじめている」

「マジかよ、あの野郎」

「でも、それでどうして永治様を呼ぶ必要があるんでしょうか」

 寅瞳の疑問には燈月が答えた。

「再生の力が必要なのでは? 破壊と再生は流転の象徴。あの二人の力は不可欠でしょう」

 寅瞳は小首をかしげた。

「永治様がまだお戻りではないのに、実行してしまったんですか?」

「光治殿の力を使って理想郷を破壊させ、異変に気づいた永治殿をおびき寄せるつもりでは」

 燈月の意見は妥当と思うが、寅瞳は信じられずにうつむいた。

「シュウヤ様もあの人も——そんなに悪い人ではないような気がします」

「どこがだよ」

 沙石が反論したが、寅瞳は首を横に振った。

「分かりません。でも、私を人質にするのは不本意のようでしたし」

「そう言ったのか?」

「いいえ。そう話しているのを聞いたんです」

「だからって、今回のこととは関係ねえんじゃね?」

 寅瞳は黙った。沙石の言うことも、もっともだからだ。

「とにかく、このままにはしておけない」

 帝人が言って立ち上がったので、沙石が目で追った。

「どうすんだ?」

「昇華されるのを覚悟で真意を聞き出す」

 その場にいた一同は青ざめた。

「バカを言うな」

 とっさに帝人の腕をつかんで引き止めたのは虎里だ。帝人は反射的に虎里を見つめ、痛いほどの気持ちを受け取り、目を伏せた。

「永治が戻らないのは、利用されるのを恐れてのことかもしれない。しかし弟のことを知らされれば、否が応でも姿を現すだろう。連中の思う壺だ。そうなる前に手を打たねば」

 帝人が言って視線を上げると、何の前触れもなくドアが開いた。全員がなんとなく顔を向け、目を見開き、鳥肌を立てた。

 空色の髪の男が皮肉げに笑って立っていたからだ。

「永治!」

 空呈が真っ先に駆け寄り、腕をつかんだ。

「今までどこに!?」

「それより、俺に用のある人物が訪ねて来ていると聞いた。会わせてくれ」

「それは駄目だ」

「光治のことを聞きたい」

 その意見には、父親たる空呈も反対できずに手を離した。

「そうだな……だが、一人では行かせられない」


 永治と引き合わせる代わり、帝人を始めとする六名が同行するという条件を相手に呑ませ、一同は光治の部屋へ移った。青衣の男とシュウヤが座る真向かいのソファに永治が腰を下ろし、ほかは何かあった時のため素早く行動できるよう、起立している。

 そのように緊迫した空気など永治は気に留めず、しばらく青衣の男を観察したあと、口火を切った。

「ずいぶんと妙な出で立ちで」

〝この世に及ぼす影響は計り知れない〟

 永治は久しぶりに聞く声に身を震わせた。が同時に、周囲には聞こえていないようだと察した。青衣の男が、流転の理に属さぬ者には聞こえないよう制御しているからだ。ゆえに永治は、影響とはつまりそういうことだと解釈した。声、吐く息、触れる指、そのすべてに支配力があるのだと。

「なるほど。それで、どうされるおつもりですか。またこの記憶を消しますか、それとも」

〝理想郷において忘却の力を退けた者の記憶を再び封じるのは、良策ではない〟

「では異世界へ飛ばしますか」

〝お前たちを庭へ置くつもりはない〟

「ならば地獄へ堕としますか」

〝流転の理に沿う者は罪人ではない〟

 永治は眉をひそめた。

「一体、どうするつもりでお出でになられたのですか」

〝一番簡単なのは、お前がその死をもって贖うことだ〟

 永治は背筋を伸ばし、やや青ざめた。そんな様子に、帝人らは警戒心をいっそう強めた。青衣の男が少しでも永治に危害を加えようとすれば、総攻撃する構えである。

「光治は、もう?」

 という永治の問いに、青衣の男はため息ついた。

〝一時的に庭へ置いている〟

「では、自分も」

〝理想郷にあった者を長く置いておけるか分からない。なにしろ前例がないからな。念のため、お前はこちらへ残すことに決めた〟

 永治は落胆し、目を伏せた。そして、やはり死ぬよりほかないのかと思った刹那、青衣の男が言葉を添えた。

〝それは最終手段にしたい〟

 永治が顔を上げると、青衣の男はうなずいた。

〝どうにもならなくなった時は命をもらう。ただし、お前の死はこの民の死と同様、俺が消化してしまった。そのため単純な死ではないことを覚悟しなければならない〟

 永治は息を飲んだ。それが昇華であり、最悪の場合は消滅であると理解したからだ。

〝とにかく、あらゆる手を尽くしてみようと思う〟

「どんなことですか?」

〝とりあえず、これ以上破綻しないよう第一居住区に境界を設けた。中心部はいったん流転の理に支配されることになるが、よそへは波及しない。それで少し様子を見る〟

「いっそ、すべて元に戻してみては」

 本心から出る永治の言葉に、青衣の男は唸った。

〝お前は事を簡単に考えすぎている。理想郷を成した世界が、まともに流転の世へ戻れると思うのか〟

 永治は途端に血色をなくした。

「戻れないんですか」

〝流転の理を再構築しても、この世には死がない。完全にバランスを失っているのだ。死ぬことが叶わぬ世で、崩壊と衰退が始まる。それはまさに生き地獄だ。この世の民も、お前たち兄弟も同様に、理想郷に生きた。もう後戻りはできない。流転の理を捨てた代償は宇宙をひとつ失うほど大きいのだ〟

 永治は膝の上で拳を握った。

「……それは、承知いたしておりました」

〝ならば二度と求めるべきではなかったな。理想郷を叶えるには流転の理を排除する力が必要だ。しかしこの世界にはもう、俺を死に至らしめるだけの請け負うべき死がない〟

「理はもう縫い止められないのですか」

〝やってはみるが、自殺行為だからな。うまくいくかどうか〟

「それは、どういう?」

〝流転の理は俺の思考と直結している。それを縫い止めるには自我の否定をしなくてはならない。だが俺が己を否定すると全ての理が覆り、外側の世界が崩壊する。外側が崩壊すると内包されている理想郷も壊れる〟

 それで自殺行為かと納得した永治は、帝人を見やった。理想郷を確立したということは、流転の理を縫い止めた経験があるということだ。つまり、安全に縫い止めるには他人にやってもらうのが良いのだと解釈し、再び青衣の男に目を向けた。

「また頼むというのは?」

〝天位一位と言えど、理に干渉できるのは一度だけだ〟

「何故です?」

〝正気を保てなくなる〟

 永治は活路を断たれた気分で、しばし沈黙した。

 己のしたことを後悔したくはない。だが天上界が地獄と化すか否かの事態を招いたのであるから、重大な過失をおかしたことは否めない。しかし気が付くと求めている。流転の理が支配する、美しい世界を。真の永遠と究極のバランス。新鮮な驚きは常にそこにあり、魂を響かせてくれる。あの世界を取り戻せないのなら、死んだ方がマシだと。

 永治は自分の胸倉をつかんだ。

 苦しくて仕方がなかった。雨上がりの空や、夕日に染まる雲。夜空に煌めく星々。すべてが生きていた、あの時代を求めてやまない心があるから、やるせなかった。

 永治はいったん強く閉じたまぶたを開き、青衣の男を見据えた。

「自分には……分かっています。究極のバランスを実現した世界を無償で与えられたにも関わらず、不満を持つ神や人が理想郷を夢見て、貴方の愛に背いた代償がこの世界なのだと」

 永治は呻くように言って、立ち上がった。

「貴方は言った。己たちが良いと思う世界で至福を見出せるなら、払う犠牲も報われる、と。報われましたか?」

 永治の問いに、青衣の男はわずかに首を動かし、顔を背けた。布に覆われていても、目をそらしたことは容易に悟れる。

 永治は笑った。悲しみと悔しさがにじむような笑いである。やや狂気じみた様子に、帝人たちはギョッとした。しかし永治は彼らへの心証など意に介さず、青衣の男から一時も目を離さなかった。

「死が消え去った世界であるはずなのに、誰も生きていない。すべての心が死んでいる。それに気づかず過ごしている愚か者どもが、この世を神代の世界などと言っていい気になっているのは、さぞかし滑稽でしょう」

 永治が吐き捨てると、青衣の男も立ち上がった。

〝いい加減にしろ〟

「いいえ。我々は何も返せなかった。何も答えられなかった。そして今、痛いほど感じている。あの世界ほど素晴らしい世界はなかったと。みな最高位に遠慮して口にしないだけだ。罪を背負ってまで成した世界を、失敗だったと認めるのが怖いだけだ」

「おい、やめろ」

 シュウヤもたまらず席を立って永治を制した。しかし永治は聞かなかった。

 永治はやおら片膝つき、片手を胸に当てた。

「我が王よ、この世の神が地獄に堕ちるべき罪を負っているのは明らかです。救いの手を差し伸べるつもりがおありなのでしたら、どうぞ静観なさっていてください。すべての死は貴方が持ち去った。ならば生きながら地獄を見るのも定めでしょう」

 言い終わると永治は素早く起立し、部屋を出て行った。

 帝人らは茫然と見送り、シュウヤは青衣の男の見えない顔色をうかがい、青衣の男はため息ついた。

「あれ、放っといていいのか?」

 シュウヤの問いかけに対し、青衣の男は軽く肩をすくめた。

〝正論だからな。突っ込みようがない〟

「正論なのか」

〝それでも期待していた。自分たちで掴み取った世界で至福を見出せるのなら、それが一番だと。流転こそ究極だと知りながら譲歩した俺が間違っていたのかもしれない〟

 シュウヤは、少しうなだれた青衣の男の肩を抱き、慰めた。

「お前のせいじゃないさ。みんな死ぬのが怖かった。自分を失いたくなかった。お前はその願いを聞いただけだ」

 青衣の男は頭をシュウヤの首に寄りかからせた。そんな様子を空呈が咳払いで咎めた。どこかで見たような光景だとも思ったが、今はそんなことより二人の息子のことが気にかかるのだ。

「どういうことかご説明願えますか。永治は何故あんなことを。貴方は一体何者ですか」

「それは……」

 シュウヤが答えようとすると、青衣の男が止めた。そして黒い手袋に包まれた手で人差し指を立て、顔の前に持っていくと、不敵に言い放った。

「俺はこの世界を征服しにやって来た流転の理の支配者だ。俺を殺さぬかぎり、地上は地獄と化し、生きていることを後悔するような災厄に見舞われるだろう」

 脳髄を痺れさせるような美声で放たれた恐るべき宣言に、一同は驚いて毛を逆立て、鞘に手をかけた。

 異様な緊張が走る一方で、シュウヤは唖然とした。青衣の男が何を考えて発言したことなのか理解できなかったのだ。

「貴様の息子は洗脳によって我が手中に収まった。取り戻したければ、断固として理想郷を守り抜くという意志をもち、向かってくるがいい。その意志が俺の支配力より勝る時、お前たちは勝利を手にするだろう」

 言い終わると同時に皆の剣が抜き放たれた。しかし青衣の男が軽く手を払う仕草をすると、剣は一瞬にして花弁と化し床に散った。

「そんなもので殺せると思うな。俺はこの世のかつての支配者だ。古典的な技など通用しない」

 そしてもう一度手を振ると、全員宙に浮き、強制的に部屋を追い出された。同時に扉は堅く閉ざされ、封じられた。外からはどうやっても開けられそうにないほど強固である。

 しばらくドアを蹴飛ばしていた沙石は、諦めた様子で舌打ちし、背を向けた。

「くそっ!」

「かつての支配者だと言っていたが、本当だろうか」

 虎里の疑問に、帝人は青ざめた顔で目をそらした。

「永治は洗脳され、我々は赤子同然に追い払われた。流転の理も復活しつつある。それにあの能力——尋常ではない。おそらく本当だろう」

 あの能力とは、物質を完全に別の物へ変換させる能力のことである。理を直接支配していなければできるはずのない芸当だ。それを、片手を軽く振っただけで実現させて見せたのだから、もはや疑いようがない、というわけだ。

「……どうする?」

「分からん」

 最高位である帝人が分からないものは、みな分からない。

 帝人、寅瞳、沙石、空呈、燈月、虎里の六名はしばし固く閉ざされた扉の前にたたずんだ。

 数分の沈黙を破ったのは沙石である。

「けどオレたち、一度は勝ったんだよな? だったら今度もやれんじゃね?」

 帝人は沙石の顔を見つめた。そして理想郷を求めた当時の心を改めて振り返った。

 この世に生きる者には失いたくないものが多くあり、最も欲したのは永遠の命だった。理想郷はそれを叶える唯一の手段で、流転の理はこれを奪い去るものだった。神や人がどちらを選んだのか結果はここにあるが、あの頃の情熱は今、どうなっているだろうかと。

 帝人は顔を上げた。

「この世をかつて支配していたという男は、言うなれば死の支配者だ。多くの神や人が恐れ、忌み嫌った存在であったに違いない。そのために殺されたのだとしたら、あの男が成そうとしているのは復讐だろう」

 一同は息を飲み、沙石が帝人を指差した。

「じゃあ、シュウヤがお前のことを憎んでる理由も?」

 帝人はうなずいた。

「あの様子から察するに、恋人同士といったところか。最愛の者を殺されたので恨みに思っていたのだろう」

「マジか」

「とにかく対策を練ろう。ここでこうしていても始まらない」


***


 帝人らが立ち去ったのを音で確認したシュウヤは、大きく肩で息をついて、青衣の男を見据えた。

「どうするんだ、あれ。おまえ完全に悪の大王だぞ?」

 青衣の男は顔を覆う布を取り去りながら、笑った。

「違いない」

「おまえなあ!」

「冗談だ」

「冗談になってない」

 シュウヤは怒ったように言いつつ、あらわになった青衣の男の顔に見とれた。

 艶やかな臙脂色の髪、右に淡い緑、左に始点界の青を抱く瞳。恐ろしいほどに美しいその顔は、やっぱり何度見ても驚いてしまうのだ。

「取って大丈夫なのか?」

「鬱陶しいからな。部屋を封印していれば問題ない」

「そうか」

 言葉を交わしつつ惚けているシュウヤを、青衣の男こと泰善は苦笑いで見つめ返した。

「いいかげん慣れろ」

「無理」

「毎日見ているだろう」

「お前の美貌はそんなレベルじゃない。相変わらず自覚足りないな。それより本当にどうするんだ。つか、なに考えてんだ?」

「永治の強い願いが念となって理想郷の維持を阻害しているのだから、すべての民の意志を束ねて対抗するしかない。もともとあの兄弟は念の力が強いからな。迎え撃つ側にも相応のものがいる」

「……なるほど。それを煽ったってわけか」

 シュウヤは口の端を皮肉げに上げて、ソファに腰を下ろし、腕組みをした。

「でもだからって、あんな言い方することないんじゃないか?」

「嘘は言っていない。俺はかつて天上界を支配していたし、再び排除できなければ、理想郷は崩壊するまでだ」

「とかなんとか言って、救済する手段はいくつか備えてあるんだろう」

「干渉は極力少ないほうがいい」

 シュウヤはため息ついた。

 それでも、ここの連中の力でどうにもならなくなった時はまた、その身を犠牲にして救う用意があるのだと察するからだ。だが天上界の死はすべて消化してしまった。界王を死に至らしめるほどのエネルギーは残っていない。一体どうやって犠牲を払うというのか。いや、どのような犠牲を払うのか——シュウヤには想像もつかなかった。

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