04.終日の夢
その日の終日。といっても、昼も夜もないので決まった終日ではない。個々が就寝すると決めた時間である。
永治はシュウヤの呟きが気になって、眠れずに何度も寝返りを打った。
分かることは、みんなが忘れていることをシュウヤだけが覚えているということだ。そしてシュウヤは、そのことに憤りを感じている。
***
「長官、最高位に向かって恨んでるって言ったんだ」
大講堂へ帰る道すがら光治から聞いて、開会式に出席していなかった永治は驚いた。
「そうなのか? くそっ、俺も出れば良かった」
「え? なんで?」
光治は口元をゆがめた。出席するのが当然のところを蹴っておいて、騒動に出くわさなかったことを後悔するなんてどういうつもりかと。
すると永治は意地悪そうに口の端を上げた。
「俺も、理想郷なんてものを確立した最高位に不満があるからだ」
光治は少し青くなって永治を凝視した。
「兄さん」
「確かに、世の中から不幸は一掃されたかもしれない。だがそのために失ったものが、あまりにも多い。この世界には、愛でるものがひとつもないと断言できるくらいにな」
永治は言って、顎を上げた。
「見ろ。雲もないのに白くぼやけたあの空を。昔は吸い込まれそうなほど透明で鮮やかな青だった。俺が望んだのは、お前を失わないことじゃない。あの美しい世界で、お前と共に生きることだった。どんな痛みも分かち合う覚悟で、生きることを望んだ」
「兄さん!」
光治は永治の腕をつかんだ。それ以上言ってはダメだと、目で訴えた。しかし永治は目をそらせた。
「あの決意はどこへ行った。こんなのを生きていると言えるのか」
「言えるよ!」
「言えない! これじゃまるで、あの時と同じだ。お前と生き別れていた、あの時と。何をやっても虚しい」
「マチルダがいたのに」
「確かに愛していた——いや、きっと今でも愛している。でも俺の心は満たされなかった」
「魂が不完全だったからだよ。でも今は違う。同じ世界に同じ両親から同時に生まれたんだ。とても充実してるじゃないか」
「同じ世界に同じ両親から同時に生まれた?」
永治は光治の言葉を確かめるようにして、不敵な笑みを浮かべた。
「それは俺たちの意思なのか?」
「え?」
「それとも奇跡か。意思だとして、そんな力が当時の俺たちにあったのか。奇跡だとして、その奇跡はどうして起きた」
「そんなの分からないよ。どっちも答えようがない」
「神代の世界に答えのない疑問があっていいのか」
「そんな」
「やっぱりこの世界は何かがおかしい。人間だった頃、奇跡は神が起こすものだと思っていた。だが実際は違った。そして結局わからないままだ。こんな神の英知に何の価値がある」
「兄さん!」
永治の腕をつかむ光治の手に力が入った。しかし永治は悲しそうな瞳で自分と同じ顔を見つめた。
「本当はおまえだって気づいている。俺たちは、永遠の命を手に入れたはずなのに、生きているという実感がない。何故だ」
光治は目をつむって首を横に振った。
「分からない」
「では思い出してみろ。かつての世を。あの世界には真実があった。英知には必ず答えがあった。確かにあったのに、どうして今はないんだ」
光治は目を開け、足元を見つめた。確かにあったものがない、そんな漠然とした喪失感を抱いているのは事実だ。だが永治の言うようなものとは違うと思って、顔を上げた。
「俺たちが失ったのは、流転の世界だけだよ」
しかし永治は光治を見据えて言った。
「同時に真実も失ったんだ。それが証拠に、全てを悟ったような顔をして、いざ物事の核心に迫ろうとすると、急に分からなくなる」
「なんだよ、真実って」
「分からない」
永治は光治の手をほどいて、背を向けた。
「分からないから知りたい。この世の真実の、答えが欲しい」
***
途中、光治と別れて一人で帰った永治は、部屋にこもり、また一から記憶の再生を始めた。地球に生まれて、弟が出来て、テロにあって生き別れ、再会するまでの出来事や、戦争のことを。
弟を探すため軍に入ったが、やっと再会した弟は、恐るべき破壊能力を持つセフィラだった。そして弟をグラウコス軍が匿うことになってから、ガゲード・パラディオンという巨大テロ組織や六軍と一戦を交えた。その際に恋人であるマチルダを失ったが、彼女は生き返った。弟が地球の崩壊を阻止するのと引き換えに命を落としたことで失意し、自分がマチルダの死を請け負って後を追ったからだ。
これらの記憶は鮮明であり、少しも疑わしいところはない。しかしブレッド・カーマルなる人物の名が浮上したことで、少々引っかかりが生じてきた。
永治はまた寝返りを打った。
自分の意思で軍人になったと思っていたが、本当は誰かに誘われたのではないか。決意したのは五歳の時だ。考えてみれば、当時は本当の五歳だった。つまり中身も子供だった。そんな幼い心で、弟を探すには軍人になるのがベストだと思い付く知恵があったのかどうか。
なんにしても結局入隊し、弟と再会できたのは事実だが、セフィラだった弟を軍が匿うことになったのは、どうしてなのか。改めて思い返してみると、GPの破壊兵器であった者をほとんど躊躇なく安易に受け入れたような印象が残っている。あまりに不自然な出来事だ。
戦略的な意味もあったと思うが、それ以上の力が働いたとしか思えない。となると一番可能性が高いのは、全軍のトップに君臨するグラウコス軍の将軍がGOサインを出したという道筋だ。
では、そのグラウコス軍の将軍とは誰なのか。
永治は眉根を寄せた。
姿形どころか影すらも見えないが、名前だけは確かにある。
全軍に匹敵する規模の自衛隊を率いていたのは長官ではなく、この将軍ではなかったか。長官の隣には、常に誰かがいなかっただろうか。
そんなことを思いながらようやく眠りについた永治は夢を見た。昔の夢だ。
腕の中で体温を失ってゆく弟の身体がある。揺れているのは車内だからだ。悲嘆に暮れていると、運転席から声がした。
「忘れんなよ!」
そんなことを必死に叫ぶ者がいる。かつての友人だ。戦場を共に駆け抜けた戦友である。
「忘れんなよ! マチルダのことも、俺のことも、みんなのことも!」
永治は答えた。
「ああ、忘れない」
そうして顔を上げると、驚くほど美しい顔をした男が言った。
「では行こう」
永治は大量の汗をかいて飛び起きた。息は荒く、開ききった目は泳いでいる。
永治は震える手で髪をかき分け、頭を抱えた。
***
大創立祭開幕から一週間。宴もたけなわな今日この頃。ほかの区間へも行ってみたいという欲求が、ある者の胸に起こった。寅瞳である。
天上界で暮らそうと浄真界にいようと理想郷で落ち着こうと、結局は行動範囲が定められる彼にとって、祭という大義名分は蜜の味だ。誰にはばかることなく外に出られるという誘惑には打ち勝てない。
寅瞳は守護石を両方のポケットにひとつずつ忍ばせ、帝人や燈月の目を盗んで下位区間へ入った。今しがた「誰にはばかることなく」と言ったばかりだが、帝人と燈月の目は気にしなくてはならない。二人は祭だからといって手綱を緩めたりしてくれないからだ。
やや小柄とはいえ、もう大の大人である。それなのに一人で堂々と行動させてもらえないのは、未だに心配されるその性格のせいだ。
人混みの中ですれ違いざま人にぶつかれば、慌てて頭を下げて謝り、周囲に遠慮して端っこを歩いたり、声が小さいので店主に気付かれず、なかなか欲しいものを買えなかったりと、まったく不憫としか言いようがない。周りは見かねていろいろ世話をやくのだが、寅瞳はそれにも申し訳ないと感じて萎縮してしまうのである。
本人も「これではいけない」という自覚はある。だが性格はそうそう簡単に直せないものだ。そこで寅瞳は、この祭を利用しようと考えた。八割は「たまには一人で羽を伸ばしたい」というだけのものだが、残り二割は「ちょっと精神鍛えよう」という前向きな目的である。
寅瞳はやはり堂々とは歩かなかったが、多くの人に混じって露店や大道芸を見て楽しんだ。昼も夜もない世界なので時間など気にせず店に立ち寄ればいいし、飽きれば帰ってもいい。まさに自由気ままとはこういうことだと感じられる世界である。
「良い世の中になりました」
寅瞳は呟き、のんびりと街を散策した。しかし、そうした気の緩みからよそ見をして、人にぶつかってしまった。寅瞳が慌てて「すみません!」と言いながら道の端によけると、ぶつかった相手から肩をつかまれた。
ガタイのいい男である。人相は良くも悪くもない。男はじろじろと寅瞳を眺めてから舌打ちした。
「ちっ、上位天位者じゃないのか」
「……は?」
「けど身なりはいいな。神界人か」
「え、ええっと」
寅瞳がしどろもどろになっていると、男は勝手に寅瞳の上着のポケットから守護石を取り出した。
「これ持ってるってことは、神界人で決まりだな」
「あ、返してください」
寅瞳が手を伸ばすと、男は腕を振り上げつつ避けた。男の態度が横柄なのは、神界人でもピンからキリまでいることを知っているからだ。そしてまさか第五居住区にピンが、それも浄真界の神がやって来るとは夢にも思っていないからである。
「おっと、ダメダメ。俺の頼みを聞いてくれたら返してやるぜ」
「な、なんですか?」
「ひと目でいいから最高位を見てみたい。理想郷一の美人だって噂だからなあ」
「え、あの、でも男性ですよ?」
「んなのどっちだって構わねえんだよ! なんてったって最高位だからな。どんなのだって見る価値はある。だが九千位代の域を出ない俺にその可能性はない。あちらから出向いてもらわねえことにはな」
男の言うことは確かである。パレードすら第四居住区までで、第五居住区は回らない。元来、徳の高い神が立ち寄れるような場所ではないからだ。つまり、第五居住区に住む天位者は第四居住区の住人になる以外、最高位の顔を拝める機会はないのである。
しかも第五居住区にある天位者のほとんどは九千位代だ。これは天位者とは名ばかりのほぼ人間であるから、よほど努力をしないかぎり天位を上げられる期待も少ない。
寅瞳は気の毒に思ったが、正直に現実を伝えることにした。
「第五居住区へお越しいただくなんて無理ですよ」
すると男は憤慨した。
「神界人のあんたが来られたんだ。いくら最高位でも無理ってこたあねえだろ!」
「それは特別に良い守護石を二つ持って来られたからで……最高位が来られるとなると相応の警固も付きますから、全員の守護石を揃えることができない現状では不可能です」
男はピクリと片眉を上げた。
「二つ?」
「う、運良く借りることができたんです」
「見せてみろ」
男は言うなり、無理矢理もう片方のポケットから守護石を奪った。
「あっ……」
男は二つの守護石を見比べた。「確かに両方とも質がいい」と言いつつ、やがて持っていられなくなった様子で、建物の高い位置にある小窓の桟へ置いた。背の低い寅瞳には届かない。
「強烈だな。すげえ浄化能力だ」
一方で、寅瞳は両膝を地について座り込んでしまった。守護石を奪われたので立っていられなくなったのだ。
「か、返してください」
それを男は物珍しそうに眺めやった。
「へえ、やっぱり不浄な土地はキツイのか」
「早く、返してください」
「だから、頼みを聞いてくれたら返すって言ってるだろ」
「私の一存ではお約束できません」
「ちっ、やっぱ下っ端か。つっても俺よりゃ数千倍もお偉いんだろうけどな。あーあ、どうするかなあ。こんなチャンス二度と巡ってこねえと思うんだけど。なあ、本当にできねえか?」
寅瞳はうつむいて考えた。一人で第五居住区へ来たという事実を伝えるだけでも大目玉を食らうだろう。そのうえ勝手な約束をして帰ったらどうなるか——想像するだけでも恐ろしい話である。
「で、できません」
「だったら没収だな。これだけの品なら高く売れるだろう」
「えっ!」
寅瞳が焦って見上げると、男は懐から取り出した小袋に守護石を収めようとしていた。
「ま、待ってください!」
寅瞳がそう言って止めにかかった時。
青い布を全身にまとった背の高い人物が現れ、男のみぞおちに拳をしたたか打ち込んだ。停止の理の世界に痛みはないが、力学は存在する。男は勢いで吹っ飛んだ。
眼の前で揺れる青い布。縁には草花のモチーフが、金色の糸で刺繍されている。どことなく死の印章を思わせるような美しさだと、寅瞳が見とれつつ唖然としていると、その人物は男の手からこぼれ落ちた守護石を拾い、寅瞳に差し出した。黒い手袋をしている。
寅瞳は目を何度も瞬かせ、その人物を見上げた。しかし布に覆われた顔を見ることは叶わない。戸惑っていると、守護石をさらに差し出された。「取れ」と言っているのだ。
意を解した寅瞳は、守護石を取った。そこへまた一人、ある人物が現れた。こちらも負けず劣らず背の高い男である。
「なんなんだよ、いきなりどっか行くなよ——って、あれ? 寅瞳?」
寅瞳は再び驚いた。その男は亜麻色の髪に紺青色の瞳の、よく知る人物である。
「シュウヤ様!」
「なに? お前一人?」
「は、はあ」
「ダメだろ、神王が一人でこんなとこウロウロしちゃあ」
「すみません」
神王と聞いて腰を抜かすほど仰天したのは他でもない、寅瞳から守護石を奪った男である。
「んなっ、な、し、神王!?」
狼狽する男をシュウヤが一睨みすると、男は「ひいっ」と情けない叫び声を上げながら逃げ去った。
寅瞳は一息ついて守護石をポケットに収めると、立ち上がって頭を下げた。
「ありがとうございます。助かりました」
「いや。それにしても、理想郷っていったってロクでもない奴はロクでもないままなんだな。階層構造ってどうなんだって思ってたけど、納得だ」
シュウヤの嘆きにどう答えていいのか分からない寅瞳は、目を泳がせたあと、全身を青い布で覆った人物に目をやった。背の高さからしても、ガタイのいい男を一発で退けた腕力を見ても、十中八九男だろうとは思うのだが……
「あの、ありがとうございます」
礼を言ったが、青衣の男は無反応だった。困った寅瞳は、視線でシュウヤに助けを求めた。するとシュウヤも困った顔で頭をかいた。
「こいつのことは気にしないでくれ。とにかく大講堂まで送る」
「一人で帰れます」
「いや、俺らも用あるし」
***
馬車と時空のひずみをいくつか利用し、最短五時間の道のりを経て、三人は大講堂に到着した。寅瞳を慌てた様子で迎えたのは、むろん燈月と帝人だ。
「どこへ行っていたんだ」
帝人の厳しい言葉に、寅瞳は萎縮した。
「すみません。ちょっと遠くへ行き過ぎちゃって。でも帰りはシュウヤ様とずっと一緒でしたから」
「安心してください、とでも言うつもりか」
「うっ」
帝人は肩をすぼめる寅瞳を眺め、シュウヤを見やった。そして眉をひそめた。青衣の男が目に触れたからだ。顔も全身も青い布に覆われ、一見して分かることといえば身の丈くらいで、怪しいことこの上ない人物である。天位もなく平気で第一居住区の地を踏んでいるところを見ると、神界出身者だろう……が、シュウヤと同じ不可視の心を持っている。
「そちらは?」
尋ねると、シュウヤは青衣の男に肩を寄せ、顔近くに耳を寄せた。それから気まずそうに帝人へ向いた。
「ちょっと中見て帰るだけだから」
つまり紹介はパスということだ。帝人は目元をしかめた。
「素性の知れない者を中へ入れるわけにはいかん」
「俺が責任持つ」
「信用できません」
と言ったのは燈月だ。
「なんで」
「最高位を敵対視しているはずでは?」
シュウヤは「しまった」という顔をした。過去の発言を悔いているのではない。その事実を青衣の男に知られて焦ったのだ。
〝どういうことだ〟
青衣の男は低い声で唸った。
「え、えーと、それはつまり言葉の綾で」
〝大バカ者〟
「だ、だってよー」
〝あのことを恨んでいるなら筋違いだ。儀式なんだからしょうがないだろう〟
「そんな簡単に割り切れるかよ」
この様子を帝人らは奇妙に思いながら眺めた。どう見てもシュウヤが一人で喋っているようにしか映らないからだ。しかしなんとなく、青衣の男と対話していることや、怒られているのだろうということくらいは分かった。
「おぬしのような男でも、頭の上がらない相手がいるのだな」
帝人が言うと、シュウヤはふてくされた。
「うるせえよ。さっさとそこ通せ」
「断る」
「俺、天位零だぞ?」
「これまで大講堂への入居を拒否してきたのは貴殿のほうだ」
「それとこれとを結び付けんなよ。ちょっと見て帰るだけだって言ってるだろ?」
「なんのために」
「調査」
「なんの調査だ」
「あ——安全調査?」
帝人は思い切りしかめ面をした。
「ここはいたって安全だが」
「うん、だからさ、なんつーかその」
〝まどろっこしいな〟
青衣の男はため息つき、そばにいた寅瞳を片腕で抱え上げた。
「うわわっ!」
寅瞳は思わず声を上げ、帝人と燈月はとっさに身構えた。突然の行動にシュウヤも驚いたが、通訳はしっかり果たした。
「寅瞳を無事に返してほしかったら通せ、だって」
「なんだと!」
「まあまあ。素直に通してくれれば何もしない」
「貴様!」
「寅瞳を返して欲しくないのか?」
「くっ、卑怯な」
燈月は腰に携えた剣に手をかけ、引き抜いた。理想郷においてそれは本来の役割を果たせないが、天位の力を込めて振れば相手をなぎ倒すことくらいはできる。寅瞳も巻き添えを食うかもしれないが、病気や怪我など無縁な世界だ。救い出す隙さえできればいい。
しかしとっさにシュウヤが立ちはだかった。
「昇華されたくなかったら、物騒な物はしまって、言うことを聞け」
燈月と帝人はそろって唸った。どのような力をもってしても、究極浄化には敵わない。ここは従うよりほかなかった。
だが寅瞳を返してもらうことは叶わなかった。そのことについて抗議すると、
「調査が済んだら返す」
と言われ、帝人は憤った。
「約束が違う」
「いま返したら妨害するだろうが」
「妨害はしない。解放してくれ」
「ダメ。とにかく調査が終わるまでお預けだ」
「どうこうするつもりは、なかったのではないか?」
「気が変わったんだ」
シュウヤはそう言って、前方を歩く青衣の男と並んで歩いた。その後を、帝人と燈月は距離を取りつつ、ついて歩いた。
背の高い男二人の間に挟まれている寅瞳は、まるで子供のようである。恐怖におののいているだろうと思うと、帝人も燈月もいたたまれなかった。
ところが存外、寅瞳は怯えていなかった。シュウヤが小声で話す内容を聞いていたからだ。
「まさかお前が寅瞳を人質にとるなんてな。超意外」
〝このさい仕方がない〟
「本当はスゲエ嫌だろ」
〝うるさい〟
「まあ、大事だっていうのは分かるけど」
〝分かっているならいちいち聞くな〟
青衣の男の声は聞こえないが、シュウヤの応答から中身はだいだい想像できる。寅瞳はくすぐったい気持ちがして頬を紅潮させた。
一行は、十九階まで上ってきた。この段階で帝人と燈月は、青衣の男が只者ではないことを知った。十九階は少なくとも五位以上の者でなければ立ち入れない。神気に拒まれるからだ。
青衣の男はゆっくりと廊下を進み、ある部屋の前で止まった。
〝ここは誰の部屋だ〟
即座にシュウヤが通訳して尋ねると、鷹塚永治の部屋という回答だった。青衣の男はドアに触れた。その時、彼が黒い手袋をしていることに、帝人も燈月も気付いた。顔や全身だけでなく、指先まで布で覆い隠しているのだ。
寅瞳は守護石を渡された時すでに見ていたが、いま改めて見ても異様だった。まるで外気に触れることを恐れているようである。
寅瞳が訝しげに眺めていると、青衣の男がドアを押し開けた。すると中から風が吹いたように感じた。それに反応したのか、青衣の男は一歩下がった。
〝流れている〟
「え? どうした?」
聞き逃したシュウヤが問いただすも、青衣の男は答えず部屋に入って行った。無人だったが、ベランダへ通じる窓が開いている。青衣の男はそこへ出て、眼下に広がる景色を眺めた。そして、永治の想いとシンクロした。
〝どうやらあの誓いが原因らしい〟
「誓い?」
〝ラインビルが死を迎えた時、ファウストは誓った。忘れない、と〟
シュウヤは眉をひそめた。
「それだけで?」
〝当事者は正しい歴史を歩む。その岐路で命をかけて誓った言葉は、俺の前で紡がれた〟
シュウヤは寒気を感じて背筋を伸ばした。
「お、おいおい」
〝あれはおそらく、理の螺旋の中に〟
シュウヤは真っ青になって一歩後ろへ引いた。理の螺旋とは、あらゆる理の基礎となるDNAみたいなものである。それは当然、界王にしか触れられない聖域であるが、その界王すら滅多に触らない代物だ。
「螺旋は……修復できないんだったよな?」
シュウヤが問うと、青衣の男は軽く首をかしげた。
〝まあ、やってみてもいいが、リスクが高い。すべてが消滅するか否かの大博打だ〟
「お、おい!」
〝しかし、その前にできる限りの処置を施してみよう〟
「な、なんか策があるのか!?」
〝ないこともない〟
シュウヤは目元をしかめた。
「なんか、頼りない返事だな」
〝そういうな〟
「まあお前のことだから、大丈夫とは思うけど……で、どうするんだ?」
〝とりあえず、片割れを捕らえよう〟
あまりにサラリと言ってのけたので、シュウヤはいっとき理解できずに頭が真っ白になった。が、次の瞬間には理解して目を見開いた。
「はあ〜!?」
寅瞳を人質にしたあげく、鷹塚光治を囮にしようという、あまりにらしくない言動が続く青衣の男に対して、シュウヤは動揺しつつ呆れた。だが滅多なことはしないと信じているので、従った。寅瞳を解放し、帝人と燈月が安堵した隙をついて、隣室へ乗り込んだのだ。