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神影(しんえい)改訂版  作者: 礎衣 織姫
第十三章 完結
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03.巡る想い

 ひと仕事終えた永治は、大講堂居住施設十九階にある自室のベランダへ立ち、眼下に広がる景色を眺めていた。六億年前と変わらぬ景色である。

 東には常に朝日が輝き、西には月が見える。白々とした空と、一定の気温。新緑のままの山々と、せせらぎのない川。

 ここは静寂の世界だ。そして退屈な世界だ。

 常に朝であり、昼も夜もない。常に春であり、夏も秋も冬もない。常に晴天であり、雲も雨も風もない。

 永治は盛大なため息をついた。

 理想郷確立前に見たこの景色の中には風が吹いていた、と。

 やや強く感じる風の中には野生があった。穏やかに流れる川は時おり水かさを増して激しく流れ、木々はざわめき、平原を渡る雲の影に心が追われた。

 風のない日は強い日差しが辺りを照らし、夜の空には満点の星がきらめいた。嵐がすぎると虹がかかり、夕刻はオレンジ色に染まる。同じ景色の中で目まぐるしく変化する音と光。その世界は今思い出しても美しい世界である。

 永治は目を閉じ、瞼の裏にハッキリと浮かぶ景色を見つめた。古い記憶を何度も再生することで、色褪せぬ思い出を構築することに成功したのだ。それは理想郷確立以前からの彼の夢であり、果たさねばならない使命だった。

 流転の世界を愛するがゆえ、せめて記憶にとどめて救済しようと思い立ったのが始まりだ。

 永治は目を閉じたまま、またため息ついた。せっかく記憶を鮮明に再生できるようになったというのに虚しさは積もるばかりで、少しも気分が晴れないからである。

「俺がしてきたことは何だったんだ。それとも、本当は別の目的があったのか……?」

 だが、なんど記憶を掘り起こしても別の理由など思い当たらなかった。美しい景色と思い出を色褪せないファイルに残して投影する——そのことに必死になっていただけで、まるで趣味の域を出ない行為だ。冷静になってみると、何故こんなにも執着し、修練を積んで来たのかと思える。しかし瞼を開けると、白けた景色にうんざりしたあと憤りを感じるのだ。

 こんなのは間違いだ。こんなものは望んでいない。こんな世界が理想であるはずがない、と。

 天位五を得ながら、どうしてこう理に背くような感情が芽生えるのか、永治には分からなかった。双子の弟である光治は「それだけ昔の世界が好きだったんだよ」と慰めてくれるが、それだけでは説明のつかない想いが身体の中を駆け巡っているのである。

 思い出さなければいけない。忘れてはいけない——そんな叫びが。

 永治はベランダの手すりを拳で叩いた。

「くそっ! なんなんだ!」


***


 理想郷確立より数えて七回目となる大創立祭初日。シュウヤが参加を果たしたのは今回が初である。大講堂の謁見の間では、その地に足を踏み入れられる神々が代わるがわる前へ進み出て、左右に最終位を従えた最高位に挨拶をしていた。

「第七回となります大創立祭を無事に迎えられましたことは大変喜ばしいことでございます。これもひとえに最高位のお力があればこそ、叶えられた至福にございます」

 帝人は述べる言葉に嘘偽りのないことを確認して、満足げにうなずいた。以前は煩わしかった透視能力であるが、今となっては、ないほうが落ち着かない。

 旧天上界で得たというその能力は、実は親から受け継いだものであったが、単に受け継いだのではない。マークレイ家の人々の力は万能ではなかった。月に一度、祈りによって授けられる預かり物の能力だったからだ。しかしキールこと帝人の力は本物だった。

 彼の前では何者も偽ることができない。彼の前では誰もが正義であり、額突けぬ者は穢れである。ゆえに神々は深々と頭を下げるのだ。彼を讃美する言葉と共に——


 しかし不届きな輩というのは理想郷のような世界でも一人くらいはいるものだ。

 シュウヤは番が回ってくると不機嫌そうな顔で帝人を見上げた。

「まったくいい気なもんだよな。言っとくけど、俺は美辞麗句なんか並べないぞ。なぜなら、その言葉は真に美しい者へすでに捧げているからだ」

 本人は「決まったぜ」と言わんばかりのどや顔だが、会場は凍りついた。最終位の六名は額に青筋を立て、克猪は黙って視線をそらせている。

 帝人はため息ついた。

「六億年ぶりに顔を見たと思ったら、ずいぶんな物言いだ。だがいっそスッキリする。私は別に誉め讃えられたいわけではないからな」

「そうかい」

「だが目の敵のように文句を言われる筋合いもない。いい機会だから、何が気に入らないのか洗いざらい述べてもらおう」

「別に」

「嘘をつくな。たとえその心が不可視だろうと、態度を見れば分かる」

 シュウヤは舌打ちしてそっぽを向いた。

 むろん、言いたいことなら山ほどある。だが声にならない。どんなに叫んでも理に遮られて聞こえないのだ。それはこの世から排除された者の名であり、理想郷の犠牲となった者の痛みである。

 帝人に胸を貫かれた直後、界王は始点界に転生した。死の瞬間に生まれ変わるのが流転の理を支配する者の宿命なのだ。しかしそれは残酷な(さが)である。生きながら死の苦しみに耐えねばならないからだ。そして、どれほどの歳月を費やせば消えるのか分からないほどおびただしく張り巡らされた朱の紋様は、見る者の心をも蝕んだ。

「……憎むなって言うなよ」

 シュウヤの不意な呟きに、帝人は片眉を上げた。

「なんだと?」

「恨むなって言ったって無理だ。俺はお前が憎い」

 帝人はやや唖然としてシュウヤを眺めた。シュウヤはそらせていた顔を正面に向け、帝人を睨みつけた。

 ——お前は俺の最も愛する者を殺した。お前はお前が最も尊敬し崇める者を排除した。その罪は、たとえ忘れたって消えやしない。あいつが苦しんでいる間、理想郷でのうのうと暮らしていたお前たちを、どうして憎まずにいられる?

 そう訴えたかったが、シュウヤは心の中にとどめた。言ってしまえば多少は楽になるかもしれない。だがそれだけのために泰善が払った犠牲を無駄にはできなかった。

 一方、睨みつけられた帝人は、シュウヤの胸の内を視ることはできないまでも、目の奥の情念を感じることができた。何を恨みに思っているのかは定かでないが、確かにその瞳には憎しみが滾っている。

 互いはしばらく視線を外すことなく睨み合っていた。が、やがてシュウヤが目をそらせるように、うつむいた。

「だからってどうこうしようだなんて、思っちゃいない。俺の事は放っておいてくれ」

 シュウヤは踵を返した。帝人はその背を呼び止めた。

「理由ぐらい言って行け」

 シュウヤは片手を軽く上げ、

「知らぬが仏だ」

 と言って、そのまま振り返ることなく謁見の間を立ち去った。

 重い空気に周囲は沈黙を貫いている。帝人の出方を待っているのだ。しかし帝人は、六億年も無縁であった負の感情に困惑していて、そんなことに気を遣う余裕をなくしていた。

 それほど接点もなく、顔を合わせたことも数えるほどしかないのに恨まれるとは心外である。が、シュウヤの憎しみがとても深いというのは、目のそらしようがない事実のようだ。

 天位零で究極浄化を司る男と、闇王の称号をもって天位一位に立つ男の軋轢は、この天上界にとって由々しき問題である。

「なあ、なんか心当たりないのかよ」

 沈黙に痺れを切らせた沙石が問うと、帝人は無意識に止めていた息を吐いた。

「ない」

「ほんとに?」

「あるとするなら、やはり理想郷の確立に関することだとは思うが」

「なんで?」

「あの古い家に住み続けているのが、停止の理に対する当てつけだと考えると、なんとなく辻褄があう」

「まじかよ。けどそんなことするなら、直接文句言やあいいのに」

「こればっかりはどうにもならないと分かっているのだろう。一度改変した理は、二度と戻せない」

「お前でも?」

「理を戻すには確立したとき以上の力が必要だろうから、不可能だ」

 帝人は答えて、またしばし沈黙した。


 確立の瞬間——己の中の英知と力が一体となって高まった時、周囲に黄金の記述が見えた。解読不能な文字と記号。それらのひとつひとつが煌めき、渦巻いていた。自由に漂いながらも、規則正しく羅列を組んで、常に回転し、流れ、一周して戻ってくる。まるで大いなる自然そのもののように。


 帝人は、美しいとしか言いようのない光景を思い返しながら目を閉じた。流転の理は言うなれば、黄金の川、金色の風、光の調べである。

 しかし確立の際、それらは止まった。流転する彼らは自由を奪われ、その場に縫いとめられた。そして輝きを失い、死んだように動かなくなってしまった。

「あの時の不快感は今でも拭い去れない」と帝人は思いつつ瞼を上げて、謁見の間に集まっている神々を見渡し、ようやく自分の言葉を待つ彼らの気持ちに応える気になった。

「これより大創立祭を開催する」

 会場は一気に沸き返り、長い宴が始まった。


***


 大創立祭の期間は一ヶ月である。普通なら長すぎると思うところだが、一億年に一度ということを考慮すれば一瞬の出来事と言っても過言ではないだろう。ゆえに大通りは露店で賑わい、空には花火が上がり、色とりどりに飾られた街並みの中を大勢の人が行き交った。長いようで短い一ヶ月、盛り上がらねば損というわけだ。

 しかし楽しむのはあくまでも己の居住区間内に限られる。下位天位者が上位区間へ入ることはもとより不可能であるし、上位天位者も下位区間へ行くには多少の負担がかかる。とはいえ、たまに守護石を持って足を運ぶこともあるため、下位天位者は気を抜けない。未浄化の地を上位天位者が歩くという有難い光景を見逃すことこそ、人生における最大の損失であるからだ。


 その上位天位者の一人である鷹塚永治は、初日から下位区間へと足を運んだ。といっても第二居住区なので、それほど下位でもないし負担はかからない。第一居住区は見飽きているから他所へ行きたいが、そうそう遠くへ行くわけにもいかないので、無難な所を選んだというわけだ。

 出かける際、光治に「一緒に見て回ろうよ。桜蓮とも約束してるんだ」と誘われたが、別に桜蓮に気があるわけじゃなし、光治の内心は桜蓮と二人きりで行きたいのだろうと思って断った。

 永治は人の流れを見ながらブラブラと歩いた。この世で唯一、動いていて変化のあるものといえば人の歩みと表情だろう。しかしそれさえも、本当は時を止めている。彼らの笑顔は六億年前と変わらない。それを良しとするかどうかは個人的な問題だが、永治にはやはり、少し表情の曇る出来事だった。

 笑顔が変わらないのは、これまで何の変化も乗り越えて来なかったからだ。何かを乗り越えた者ならば、以前よりもいっそう強い輝きを宿した瞳で、達観した笑みを浮かべていることだろう。

 そう思うと残念でならないのである。

 理想郷は平穏な毎日をくれるが、魂の成長を極端に緩めてしまった。「時間は無限にあるのだから、ゆっくりやれば良いではないか」と言う者もある。だが高い天位を志す者にとってはもどかしいことこの上ない。

 永治もその一人だ。天位五という身分からすると贅沢な悩みとなってしまうかもしれないが、天位者の夢はあくまでも最終位なのである。


 おそらくほぼ全ての天上人が楽しんでいるはずの大創立祭において、浮かない顔をして歩く空色の髪の青年こと永治を目にとめた一人の男が、嬉々とした顔でカフェテラスのイスから立ち上がった。向かいに座る金髪美女が眉をひそめるのも構わず、そそくさと身なりを整え、永治に近寄る。

「君! 一人?」

 永治は目元をしかめた。

「……ああ」

「良かったら俺らとお茶しない? 今ならもれなく金髪美女がついてきまっす!」

 茶髪の男は明るく言って、カフェテラスのほうを指差した。その先には確かに金髪美女がいる。頬杖ついて白けた顔をしているのはこのさい置いておいて、誰が見ても最高の釣り餌だ。

 しかし永治はいただけないような目つきで男と女を交互に見やった。どうも初めて見るような気がしなかったからだ。

「あれは……お前の女じゃないのか」

「いやいや、友達友達! あとで俺か彼女、どっちでも好きなほうをお持ち帰りしちゃっていいよ〜」

 永治は満面の笑みを浮かべていう男を怪訝そうに見て、女のほうに視線を向けた。すると女はため息ついて目をそらした。

 男の喋り方、女の仕草、ひとつひとつがひっかかる。少し様子は違うが、古い知人の面影がなくはない。

 永治は男に誘われるままカフェテラスのイスについた。女は意外そうに永治を見つめたあと、ニッコリと笑った。

「こんな怪しい男の誘いによく乗ってくれたわね? 別に断ってくれちゃっても良かったのよ?」

「こらこら! せっかく上等なのが釣れたのに、なんてこと言うんだ」

「私がこのどうしようもない男とつるんでいるのはね、不幸なことに男の趣味が同じだからなの」

「お前なあ、ちゃんとナンパする気あるのかよぉ〜」

 永治は沈痛な面持ちでこめかみを押さえた。男と女がよく知る人物であるという確信を持ったからだ。

「相変わらずだな、お前たちは」

 男と女は互いの顔を見たあと、永治を見つめて小首をかしげた。

「えっ……と?」

「ファウスト・ロスレインだ」

 二人はこれ以上見開きようがないというほど目を丸めて驚いた。

「えっ! ええ〜っ!」

 男のほうはサウス・ウィビーン、女のほうはマチルダ・マイセン。永治が地球にあった頃の戦友と恋人である。

「お、俺、今は唐市(からいち)って言うんだ。マチルダは(あずさ)。お前は?」

「鷹塚永治」

「たっ——鷹塚永治ぃ!?」

 鷹塚永治といえば父に天位二の空呈、母に天位三の灯紗楴を持つ天位五の神である。上位中の上位であるから当然有名人だが、再生能力の持ち主としても崇められている人物だ。本来なら対等に言葉を交わせる相手ではない。

 二人は途端に恐縮してうつむいた。困ったのは永治だ。

「別に畏まらなくてもいいぞ?」

「い、いやいや、いやいやいや。無理だろそれ。あ、もしかして双子の弟の光治ってシルバー?」

「ああ」

「兄弟そろって相変わらずスゲエな」

「別に」

「や、でも良かった。本当に会えたな」

 その言葉に永治はやや間をあけて答えた。

「そうだな」

 返答に詰まったのは、唐市の言い回しが気になったからだ。一応無難に答えたものの、どうにもスッキリしない。

 永治はしばらく迷ったが、問いただしてみた。

「……本当に会えたって? 約束でもしていたか?」

 唐市は顔を上げた。

「え? 絶対また会えるって、言ってなかったっけ?」

「誰が?」

「誰がって——あれ? 誰だろう」

 その時、永治の胸に冷たいものが降りてきた。

 記憶は完璧に再生したと思っていたが、そもそもマチルダの死をどのように請け負ったか覚えていないと気づいたからだ。そのために歴史が一時的に改ざんされたが、核でない者が他人の死を請け負うと理が枉がり、元に戻るまでそうなるのか。だとしたら、そのような仕組みは誰が確立したのか。

 ここは神代の世界である。本来ならすべては神々の手によって支配されていなければならない。なのに何故、理だけままならないのか。

 これまで思いもしなかった疑問が一気に吹き出し、永治は嫌な汗をかいて立ち上がった。この世の神秘に隠された恐るべき真実が、目に見えない壁の向こうにあるような、そんな予感に動かされたのだ。

 唐市と梓は不思議そうに永治を見上げた。

「どうした?」

「俺たちは、どうやってセフィラ戦を戦った?」

「え? そりゃ、自衛隊を味方につけて……」

「GPと、六軍相手に?」

「セフィラもいたし」

「攻撃には使わなかった」

「ああ、公約だったから。でも」

「その公約、誰がした?」

「俺らの将軍だろ? ミハイル将軍」

 唐市の答えに永治は眉をしかめた。ミハイルは良い将軍だったと言えるが、セフィラ戦を指揮できるほどの器ではなかったと記憶するからだ。

 すると、梓が不意に言った。

「ミハイル将軍は、後任を決めて引退したんじゃなかったかしら?」

「そうだっけ?」

「そうよ」

「じゃあ、後任って?」

「確かベストラ・ファミリーを壊滅させたっていう、グラスゲートキング……えっと、なんて言ったかしら」

 梓の話を聞きつつ、記憶の糸を手繰り寄せるように再生していた永治は、じわりと前を見据えた。

「ブレッド——ブレッド・カーマル」

「あ、それ!」

 梓が反応よく人差し指を立て、唐市は眉間を寄せた。

「そんな奴いたっけ」

「いたわよ。顔とかは覚えてないけど」

「そう、覚えていない」と、永治は表情を曇らせた。今ふと名前だけが浮かび上がったので口にしてみたのだが、それ以外は何ひとつ思い出せなかった。

 三人はしばらく黙って珈琲や紅茶を飲んだ。六億年以上も昔の出来事とはいえ、歴史的な一ページの中心にいて、肝心なことを覚えていないというのは、どうにも妙である。作為的な記憶操作、あるいは歴史の改ざんがおこなわれたのではないか、と思えてならなかった。しかしいくら考えてみても答えはなかった。

 そんな三人を、光治がたまたま見かけた。

「あれ? 兄さんだ。一緒にいるの誰だろう」

 光治に誘われてついて来た桜蓮も視線をやった。

「美人といる。デートじゃない?」

「三人で?」

「あら、ごめんなさい。男の人のほうは目に入らなかったわ。声かけてみたら?」

 光治は桜蓮の言葉に従って声をかけた。

「兄さん」

 永治が顔を向けると、唐市と梓も光治を見た。そしてじわりと目を見開いたあと、頭を抱えた。

「……信じられない。双子とは聞いてたけど、見分けがつかないわね」

「いやあ、表情が違う。昔と変わんねえって」

 梓と唐市が言うのを聞いて、光治は小首をかしげた。

「誰?」

「マチルダとサウス」

 永治がサラッと答えて、光治は目を丸めた。

「えっ!」

「そうだ、おまえ覚えてないか」

「は? 何を?」

 驚きも冷めやらない光治に、永治は聞いた。返答によっては余計に悩むことになるかもしれないが、この話題に関してまだ白紙状態の光治に聞けば、何かつかめる可能性があると考えたからだ。

「ブレッド・カーマル」

 あえて名前だけを呈示すると、光治はわずかに眉をひそめ、記憶を探るようにして視線をそらせ、また戻した。

「——将軍?」

「覚えてるのか!?」

「な、名前だけ。でもたぶん……」

「たぶん?」

「その名前、本当の名前じゃなかったよ」

「なんだって?」

「その通り。本当の名前じゃないから覚えていられたんだ」

 と、急に誰かが話題に入ってきた。

 永治と光治、唐市と梓、そして桜蓮はギョッとして一斉に目を向けた。そこには不機嫌そうなシュウヤが立っていた。

「あなた、帝人様にあんな態度とっておいて、お祭りには呑気に参加なの?」

 桜蓮が文句を言うと、シュウヤは煩わしそうに小指で耳栓した。

「うるせえ女だな。俺の恋人につきまとってたかと思ったら、今度は帝人様〜かよ。この尻軽女」

「んなっ、なんですって〜! 私がいつあなたの恋人にちょっかいだしたっていうのよ!」

「忘れてるだけだよ。つーか、おまえら、ブレッドの話はもうするな」

「何故ですか?」

 永治はシュウヤを見据えた。この問題に関して事情を知っていそうな口ぶりのシュウヤに期待を込めた質問である。

 シュウヤは頬を引きつらせた。

「食えない野郎だな。肝が冷えるぜ」

「あなたの肝を冷やせるだけの力はありませんよ」

「謙遜するな。おかげでブレッドって名前なら使えるってこと、初めて知った。一応感謝しとこうか?」

「それって、本名は使えないってこと?」

 光治が横から入ってきて無心に聞くので、シュウヤは苦笑いした。

「この世界じゃな。まあともかく、いつまでも末長く理想郷でぬくぬく暮らしたいなら、首突っ込まないことだ」

「なんか言い方にトゲあるなあ」

 そう指摘したのは唐市である。会ったばかりで嫌いだと断言されたためシュウヤへの第一印象は最悪で、今でも引きずっているといったところだ。

 シュウヤは口の端を上げて、思い切り嫌味ったらしく言い返した。

「よく分かったな。そのくらいの勘があの時にあれば、謹慎処分なんて喰らわなかったんじゃないか?」

「なんだと、この野郎!」

 唐市が拳を握って立ち上がった。今にも殴りかかりそうな勢いに永治は驚いて、慌てて制した。

「頭を冷やせ! 相手は天位零だぞ!」

 永治の喝で、唐市は一気に失速した。唐市と梓は天位五十四である。天位零が最高位と並ぶ地位にあることを踏まえると、本来ならシュウヤは仰ぎ見ようと思っても見えないくらい遥か高みにある神だ。楯突くなど言語道断である。

 現実を叩きつけられ、青ざめた唐市の顔を見て、シュウヤは悲しそうに眉をひそめた。いまさらながら泰善の孤独が分かったような気がしたからだ。

 シュウヤは肩をすくめた。

「別に、俺のことを殴ろうが嫌おうが自由だ。俺だってこの世を恨んでる。お互い様だ」

「本性見せたわね!」

 桜蓮がすかさず言って指をさすと、シュウヤは皮肉げに笑って見せた。

「可愛さ余って憎さ百倍ってやつだ。本気で幸せになってもらいたいって思ってたから、なんか余計に虚しくて」

 シュウヤは言って背を見せ、空を仰ぎ見た。

「どうして忘れちまったんだろうな、この世界は」

 その呟きは切なさに満ちていて、桜蓮さえ黙らせた。

 理想郷において存在しないはずの悲しみが、みんなの胸にゆっくりとしみたのである。

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