04【帝人】その壱
だがその夜。
帝人の前に永遠の支配者である界王こと飛鳥泰善が現れた。泰善は手に一位の宝玉を持っている。
月明かりの下、窓辺にたたずむ泰善の美貌は異様だ。陽の輝きと陰の艶に縁取られる姿は、あまたの美を飲み込んで消し去ってしまいそうである。そこへ一位の宝玉だ。
帝人は少しだけカーンデルの苦悩を理解した。とてつもない威力を感じさせる宝玉の煌めきを、究極の美を誇る最高権力者が持って目の前に現れれば、大抵の者が精神を崩壊させるだろうと信じられたのだ。
しかし帝人は踏みとどまることができた。さすがに神王と核を守り抜いた賢者である。
泰善は厳格な面持ちでうなずき、宝玉を差し出した。
「受け取れ」
「お待ちください」
帝人は跪いた。
「今はそれよりも、やらねばならないことが」
「リードレイは戻らない」
帝人はギクリとして肩を揺らした。
リードレイ、と胸の奥で復唱する。それは寅瞳が古の時代に語っていた名前であると、思い出すのに時間はかからなかった。
なぜ今その名を呼ぶのかと、帝人は不思議に思って顔を上げた。すると泰善が答えた。
「リードレイは地上での名を、穢れという足枷とともに捨てた。もう戻ることはできない」
帝人は胸に絶望が降りてくるのを感じて固まった。この度の過ちは取り返しがつかないことだったのだと知り、無理矢理にでも引き止めなかった己の弱さが悔やまれた。
「お前のせいではない。リードレイも限界だったのだ。さあ、迷わずに一位の宝玉を受け取れ。この力で天上界を浮上させることができる」
帝人の瞳は戸惑いに揺れた。
「……私に、やれとおっしゃるのですか」
「俺が天上界を浮上させる主たる目的は失せた。問題はお前たちの手に渡ったのだ」
帝人は宝玉を見つめた。燦然たる様子は陽の光のように強烈で、空呈の内に見た二位の宝玉さえ霞んで見える。一瞥で、そこに恐るべき力があると分かる。
手を伸ばせば届く。だが手にしてしまえば振り返れない。
帝人は迷いに迷い、悩みに悩んだ。
この天上界のために手にする価値があるのか。天上人のために使う価値のある力なのか。
泰善は、帝人のためらいは当然であると思う一方、一位の宝玉を差し出されて躊躇するマトモな精神を、高く評価した。ゆえに、
「天上界が神界と一体になれば、お前のほうから会いに行く手立てができる」
と言った。帝人は宝玉から目をそらして泰善を見つめた。
「会いに、行く?」
「リードレイは霊体であろうとなかろうと、神界の聖域までなら自由に行き来できる。一位を手にすれば、お前も神界の聖域まで踏み入ることができるだろう。むろん、いろいろ面倒な手続きはあるが」
帝人は目を見開いた。
「しかし、それでは私欲のために得ることになります」
泰善は人差し指を立てて唇に当てた。「静かに」というサインだが、泰善のそれは意味が違う。
「今回は見逃してやろう」
帝人は唖然とした。泰善のその仕草は言葉の力を制御するものである。抑える場合も効力を持たせる場合も同じだ。そして界王たる泰善は今、私欲のために一位を得ることで起こりうる弊害を抹消すべく、絶対的な支配力を使ったのである。
帝人は、それが何を意味するのか分からぬ盆暗ではない。否応なく沸き起こる歓喜は抑えようもなく、勝手に身体が震えた。
界王は理を枉げたのだ——帝人一人のために。
かつても、理を枉げたことがあった。再挧真を蘇らせた時だ。だがそれは再挧真のためではなく、核の一人である妝真の道を示すためだったという見解が、今の常識である。つまり帝人は、やっと神王や核と同等の信頼を界王から得たのだ。
帝人は恐る恐る手を伸ばした。宝玉の光が指先にかかると、熱が全身を巡った。血肉へ侵入してくる力に骨が砕けるような痛みが走り、強い風に皮膚を切り裂かれているような感覚に陥る。
帝人は耐え難い苦しみに目を閉じた。と、突然、淡い緑色に染まる大海が眼下に広がった。彼方には白い砂の大陸が見える。空は泰善の左目を映したかのような青だ。
——始点界。
悟った瞬間、帝人は津波のように押し寄せる悲しみに飲まれそうになった。息をするのも困難なほど、底なしの悲哀である。だがその中には、強い愛も溢れていた。いかなる傷みにも打ち勝つ愛は、滝のように流れ落ち、とめどなく、惜しみなく下界へ注がれている。
界王が偉大だと言うのは、むろん全てを創造し破壊する力に起因するが、なによりもこの深い愛に由来するものだろう。
帝人は涙を流しながら、瞼を上げた。そして、そこに泰善はもういなかったが、心からの感謝を込めてゆっくりと頭を下げた。
***
翌日。
天位一位を得た帝人を見て、誰もが驚愕したあと跪いて頭をたれた。何者も比較にならぬ天位の輝きに恐れをなしたのだ。
ただ例外というのはどこにでもいる。沙石は驚いただけで、別に敬意など払わなかった。帝人もそれでいいと思った。沙石にかしこまられても気味が悪いだけだ。第一、天位一位と核の立場にあまり差はない。
「つか、もうやめたんじゃなかったのかよ」
「そのつもりだったが、天上界を浮上させるには一位の力が必要だというから、やむなく」
「え、界王がやってくれんじゃねえの?」
「我々の一存で止めたのだから、我々の責任で遂行しろということだろう」
「うえ〜、厳しい」
「解決する力はくださったのだ。贅沢は言えん」
「え、じゃあ寅瞳は? 呼び戻さねえの?」
帝人はやや黙したあと、静かに答えた。
「戻らないと、言われた」
「……え? 寅瞳が?」
「いや、界王が。まあ、あちらへ行くということが、二度と戻らないという意味なのは当人も承知だったと思うが、おそらく界王も、浄真界へ帰るようなことがあれば地上へは戻さないと決めてあったのだろう。余程のことがないかぎり、そんなことにはならないからな」
「そんな」
沙石は悲しそうにうつむいた。帝人はその肩を叩いた。
「だからといって、まったく会えなくなるわけではない。お前は核だから、神界の聖域へ行けばいつでも会える。私も一位を得たので、手続きを踏めば面会は可能だそうだ。そのためにも天上界を上昇させて、神界と一世界になる必要がある」
沙石は眉をしかめた。
「え? 天上界のためとかじゃなくて?」
同じ疑問を抱いたことが、帝人には若干おかしくて笑えた。
「今回は特別、私個人の欲求でも構わないそうだ」
「マジかよ! いいのか!? そんないい加減で!」
「界王がいいと言うんだから、いいだろう」
「信じらんねえ……」
沙石は唖然とした。しかしよく考えると、動機がどうあれ結果が同じなら問題ないのかも知れないと思った。もちろん、とんでもない理由では困るが。
「で、具体的にどうすんだ?」
「この一ヶ月で神界ギリギリまで押し上げる。かなり速いが、光を失った影響で自然界のバランスが崩れると後々厄介だ。できるだけ急ぎたい」
「大丈夫か?」
「ああ。ぶつかる寸前で止めて、接触時は慎重にやる。衝撃が極力ないように努めるつもりだ。それでもお前と桜蓮に負担をかけると思うが、よろしく頼む」
「おう、任せとけ」
通路という人目につくような場所で、天上界の一大事について堂々と話す二人を、物陰からこっそり覗く少女がいた。桜蓮だ。花も恥じらう乙女だが、表情は浮かない。
帝人はふと視線を感じて顧みた。桜蓮は慌てて廊下の角に隠れたが、金髪の巻き毛がチラリと過ぎ去るのを見逃がしてはもらえなかった。むろん、感情の起伏も。
桜蓮は一位の宝玉が恐ろしいのだ。正確に言えば、それを持つ男が恐ろしいのだ。かつての一位が、世界を移動させるほどの力で何をしたのか、帝人らが話に聞いたのは記憶に新しい。
帝人は踵を返し、曲がり角のところでしゃがみこんでいる桜蓮に声をかけた。
「大丈夫か?」
桜蓮はヒッと肩をすくめた。沙石はその様子を、やや離れたところから見守っている。桜蓮が乗り越えねばならない試練を分かっているのだ。
「心配するな。私は裏切らない。閉じられる世界がどれほど悲惨か、この目に焼き付けている。そして私には、失えないものが沢山ある。空も、海も、大地も、私の愛する者たちを育てる大切なものだ。決して道を誤ったりしない」
桜蓮はそっと帝人を見上げた。
「本当?」
「もちろんだ」
「信じていいのね?」
「ああ」
桜蓮は視線を落として、ひとつ息をついた。
帝人が天位一位の神として理想郷を確立すれば、深い心の傷は癒される。そう信じようと決めたのだ。だが、その時は界王のことを忘れてしまう。それは悲しい。あちらが良ければこちらが悪い。桜蓮はそんな狭間で揺れていた。
「どうしても忘れなきゃいけないのかしら」
独り言のような質問に、帝人は答えられなかった。
忘却は今も変わらず、人々を苦しめている。しかし忘れなければ救われないこともあるのだと分かっている今は、どれが正解とは言えなかった。