03【寅瞳】その参
翌週。
寅瞳はシュウヤに連れられて天上界を去った。シュウヤが意外にあっさり引き受けて帰ったので、帝人も沙石も、燈月も桜蓮も、みな拍子抜けである。
「もしかして界王も、寅瞳を浄真界へ戻したかったのかな」
沙石が言い、帝人は「そうかもしれない」とうなずいた。
それから一週間、二週間と過ぎ行く中で、上昇をやめた天上界が平穏を取り戻したと思ったのは束の間である。
燈月は太陽を仰ぎ見た。雲ひとつない晴れの日だが、その輝きは弱く、辺りは薄暗い。まるで月でも愛でるように眺めていられる。
それについて帝人は、
「古の民は神王が新たに降りる地を照らすと誓った。去ってしまえば契約は無効ということなんだろう」
と言った。燈月は憮然とした。どうしてそれを言わなかったのかと、やや詰め寄った。しかし、
「まさかそんな昔の約束を、忠実に守るとは思っていなかった」
と沈痛な面持ちで答えられると、それ以上は何も言えなかった。古の時代、神王を見守り、最後まで仕えて世界の昇華に立ち会った男である。今このような形で神王を失ったという屈辱は幾ばくか知れない。現在一番の守り手とはいえ、さほど側にいることができなかった燈月より、喪失感も大きいはずだった。
そのような状況で、上位天位者は再び大会議室へ集合した。ここでも質疑応答の中心に立つのは帝人である。このまま天上界が闇に閉ざされれば、最も重要となる人物は闇王である帝人だからだ。
だが帝人は、虚ろな眼差しで宙を見つめていた。遥か彼方にある浄真界を想い、我ここにあらずといった体で壇上に立っている。そして「闇王の力でもってこの闇を払えないのか」という質問に対し、投げやりに答えた。
「神王を帰してしまったのだから、闇を払っても光は戻らない」
帝人は、寅瞳の一件ですこぶる機嫌が悪かった。そのうえこの度の災難の始末まで押し付けられようとしているので、ひどく嫌気がさしている様子だ。
しかしそれを承知であっても、質問者は問わねばならない。そして願い乞わねばならない。陽は刻々と弱まり、辺りは暗さを増すばかりだからだ。
「そこを……、そこをなんとか」
帝人は視線を落として発言者を見据えた。
「お前たちはいつもそうだ。自分たち以外の誰かが犠牲を払って事が済めばいいと思っている。違うとは言わせないぞ。私には心が視えているのだからな」
「そ、そんな」
「どうしてもと言うなら、代償を用意しろ」
「は?」
「私が犠牲を払うのだから、私に対する代償を払え。私は核のように無償で施しを与えるなどということはしない」
会場はざわめいた。ひときわ唸ったのは季条だ。
「おぬしは魔族の長の地位に就いた。世に対する責任を負うたのだ。我々はその責任を果たせと言っているのだぞ?」
よくよく真っ当な指摘をする女である。が、帝人は淡々と言い返した。
「知ったことではない。天位など、ふさわしくなければ奪われるだけ。むしろ今なら奪われてもいい」
周囲が動揺する中、思い切って立ち上がったのは空呈だ。
「一位を放棄なさるとおっしゃるのですか」
帝人は顔を向けた。じっと空呈を見つめる目は、その心情を述べている。
空呈は二の句を継げなかった。理想郷を叶える時、何をしなければならないのか知っているだけに、発言は慎重にしたい。それにもまして、憂いに満ちた目で見つめられるのは非常に居たたまれない。
空呈の心境を測った帝人は、仕方なく重い口を開いた。
「空呈殿。私はこの世界の民のために、永遠に償いきれない罪を負っても理想郷を叶えてやろうと思っていた。しっかりと覚悟もできていた。だがその想いは砕かれたのだ。切実に望まれたからこそ苦患に耐えてきた神を、こうも無下に追い払うとは、情けなくてやりきれない。恩に報いるどころか、わずかな痛みさえも分かち合おうとせず、己が苦難から逃れることばかり考えている。そのような民のために何をしろというのだ」
「て、帝人殿」
相当参っていることは知っていたが、思っていたより深刻だ、と空呈は焦った。しかし己も同意見である。正直言って、天位者というものを見損なっていた。
神格というのは、他を思いやり己を犠牲にする精神を持つことが基本である。にもかかわらず、彼らは小我に走った。それは人格にも劣る畜生の魂だ。
とはいえ、二世界の衝突というとてつもない試練を前にしたのだ。臆したからといって一概に責めることはできない。天位者と言ってもまだ未熟なのだ。普段は維持している神格も、大きな衝撃を食らえば途端に波長を乱し、人や畜生に成り下がってしまう。ゆえに、寅瞳に対する仕打ちが許せないからと言って、このまま見捨てるのはよろしくないことも承知していた。
空呈は迷った挙句、自分の中で最も有効な切り札を提示することにした。
「では、この度の件は、私の曽祖母に相談いたしましょう」
帝人は眉をひそめた。
「曽祖母?」
「ええ。彼女は陽を司っていますので、なにかできるかもしれません」
「で?」
「はい?」
「すぐに呼べるのか?」
「ああ、それが……」
空呈はチラッと燈月を見た。燈月はしかめ面をした。
「なんだ?」
「実は大御神なんですよ」
帝人は大きく目を丸めた。それは沙石も桜蓮も、そして燈月も同様である。
「まさか俺に呼んで来いと言うのか?」
空呈は頭をかいた。
「申し訳ありませんが、お願いします」
「冗談だろう」
「すみません。しかし肉体を持って神界へ上がれるのは貴方しかいませんし」
燈月は舌打ちして視線を巡らせた。全員の注目が集まっているが、中でも帝人の視線が一番痛い。民には失望していても、本気で滅亡を願っているわけではないのだ。その目は明らかに「とりあえず行け」と言っている。
燈月は仕方なく目を閉じ、意識を己の魂に集中した。身体が光に包まれ、閃光を放つ。見守る者たちは眩しさに目を閉じた。やがて光が弱まって目を開けると、そこには大きくたくましい銀色の狼が立っていた。
「もしまた申し出を受ける代わりに畜生へ落とすと言われたら、ここにいる全員分の札を持ち帰ってやるから、覚悟しろ」
銀狼は捨て台詞を吐いて机を蹴り、宙に舞った。そこに一筋の光が差す。神界へ続く道だ。銀狼が駆け上ると天井に着く手前で、光の筋も銀狼の姿も消えた。無事に神界へ行ったのだろう。
燈月の変化を初めて目にする者はみな呆気にとられ、しばし天井を見上げたまま口を開閉させた。
***
呆れたのは大御神も同じだ。ただ、彼女の場合は少々うんざりした様子である。
「そなたも懲りぬな」
「そう言わずに聞き届けてもらいたい」
「我が直接どうこうするわけにはゆかぬ。こちらの光は仙界や地球のもの。天上界まで面倒見切れぬ」
「だが」
「神王に頭を下げて戻ってもらえば良いではないか」
「しかし」
「衝突時の被害を恐れていては始まらぬ。こちらは着々と準備しておったというのに、勝手に回避しよって。愚か者どもが」
燈月は黙って奥歯を噛み締めた。
大御神はそれを眺めてため息ついた。引き止めたかったが力及ばず、泣く泣く別れたのだろうと察するからだ。
「仕方ないのう。光を分けることはできぬが、協力くらいはしても良い」
「ほ、本当か」
「ああ。説教なら喜んでしてやろう」
大御神がニッコリ笑うと、燈月はこめかみに汗した。
「説……教……?」
***
大会議室で、燈月の帰りを今か今かと待ちわびる上位天位者らの頭上から笛の音が聞こえてきたのは、小一時間たってからだ。妙なる調べは空間を浄化し、みなの心を落ち着かせ、乱れた波長を整える。
多くの者は、室内に神気が渦巻き充満する様を見て萎縮した。かつて己が人間だった時、天位者を仰ぎ見ていたのとは比較にならぬ神々しさだ。
やがて天井が輝き出すと、笛の音がやみ、四方に光が差した。その中から現れ出でたるは、世にも美しい女である。顔は、空呈から見れば懐かしさを覚えるものだ。かつて傾国を謳われた母によく似ている。
美しくまっすぐで艶のある黒髪と、夜空の眼差し。それでいて太陽のように明るい輝きを放っている。
〝界王より天位を賜ったからといって、神になったつもりでいる愚か者どもよ〟
大御神はいきなりそう告げた。
〝汝らはまだ入口へ立ったにすぎぬというのに、試練がなんたるかも解せず安易に逃れた代償は大きいと肝に銘じよ〟
初対面でいきなり叱責されたわけだが、誰も反感は抱かなかった。頭上にある女神が、天位を持たずとも崇高な神であることは本能で悟ったからだ。
〝我らには、こたび与えられた試練を真摯に受け止め、迎える準備があった。にもかかわらず、汝らは自らの勝手な判断で退けた。ならば、それに代わる試練が与えられるのは当然のことであろう。じゃが、それすらも逃れようと我に縋りつくとは、浅ましいかぎりじゃ。なにより、恐れ多くも界王の意思に背いたということを、汝らは自覚しておるのか〟
みなはギクリとして冷や汗をかいた。大御神はため息ついた。
〝助かりたい一心で忘れておったようじゃな。残念ながら、我に縋りついたとて、どうにもしてやれぬ。汝らの問題は汝らで解決してこそ、次の未来があるというものじゃ。さしあたり、今一度お戻りいただくよう、神王にお詫び申し上げよ〟
すると、いつのまにか元の姿で帰ってきていた燈月が質問した。
「お戻りいただけるだろうか」
大御神は軽く目を伏せた。
〝さてな。地上にあろうとするため、長いこと穢れを着ておられた。が、浄真界へ戻れば、一切の穢れを脱いで自由となられる。ひとたび穢れを払って、清々しく身軽な気分を味わえば、離れがたくなるのは必至。お戻りいただくのは困難であろう〟
「その場合はどうすれば……」
〝我の力を借りたいのであれば、当初の予定通り、二世界をぶつけるしかあるまい。さきほども申したが、こちらの光はこちらのものじゃ。異世界に届ける余裕はない。じゃが、一つの世界になれば届けることは可能になる。よくよく考えて決めることじゃな〟
大御神は言うと、光とともにスッと姿を消した。
みな、その辺りをしばし呆然と見つめたあと、やがてサワサワと囁いた。
お詫びといっても、どうやればいいのか分からないうえ、たとえ戻って来てもらえても、またそうでない場合も、「天上界の上昇と神界との衝突」という事態は免れないからである。
「とどのつまり、界王はどうでも二世界を一世界にする計画だったってことじゃねえか」
沙石が言うと、みなシンとした。
確かに、何がどう転んでもそういう結末になる。しかしいらぬ抵抗をしたため、問題がややこしくなってしまった。
青ざめる者たちを眺めつつ、沙石がふと帝人を見ると、気づいた帝人は目を合わせて笑った。
「してやられたな」
沙石もつられて笑った。
「だな。どうりでアッサリしてたわけだぜ。寅瞳のことなのに、お小言なしなんてよお。で、どうする?」
「大昔のやり方が通用するかどうか分からないが、やってみよう」
「どんなこと?」
「祭壇を設けて、祈祷する」
沙石は目元をしかめた。
「誰がやんの?」
どうやら「祭壇や祈祷」というものに、奇怪で堅苦しいイメージを抱いているらしい。
帝人は苦笑した。
「そんな顔をするな。私がやる」
「あっそう」
沙石は露骨に安堵した。そんなに怪しいものではないんだが、と帝人は思いつつ、改めて大御神が現れていた辺りの天井を見つめた。気分が良かった。高い席で季条が血色をなくしていることも要因のひとつだが、なによりも、また神王を迎えることができるかもしれないという希望が、明るく心を照らしたからである。