01【寅瞳】その壱
帝人はその日、家移りの作業に追われていた。大講堂よりほど近いところにある、空呈の屋敷へ引っ越すのだ。
「息子の将来のためにと建てておいて正解でした。お役に立てて光栄です」
空呈は言ったが、帝人は苦笑いである。本当は役に立たないほうが良かったからだ。
「資産家はやることが違うな。まあ、おかげでこちらは助かるが」
半分いやみのこもった台詞を空呈はやり過ごしつつ、荷造りを手伝った。
「しかし、過半数は核の役目を重視してとどまるよう申し出たのでしょう? それなのに出て行くんですか?」
「少しでも反対があれば出るつもりだった」
「なぜです?」
「寅瞳殿の身の安全が最優先だ。まあ、滅多なことはあるまいが、精神的なダメージを負うリスクはある。そんなところへ置いておけない」
空呈は「やれやれ」と肩をすくめた。
「天位者かどうかはさして問題ではないと思いますがね」
「まだそういう発展的な思想は少ない。連中の気持ちも分からないではないしな。長年天位者をやっていると忘れがちだが、天位とは実に得難いものだ。死に物狂いで得た者も多いだろう」
「ここは、そういった中央政権の象徴的な場所ですからね。天位の責務がない者の存在を受け入れがたいというのは、確かに分かる気がします。ですが……」
何か言いかかる空呈の前に、帝人は手をかざして止めた。
「みなまで言うな。少なくとも神族の連中は過去の苦い経験から、核の摂理を深く理解した。その理解が他へ広がり、真に理解される日が来ることを、私は信じている」
空呈は真剣な眼差しの帝人を見つめ、ふと笑った。
「ええ、そうですね。では、息子共々よろしくお願い致します」
帝人はいっとき間を置いて、目を丸めた。
「共々?」
「はい」
「何故おぬしまで」
「いいじゃありませんか、細かいことは。子供もまだ小さいですし」
「二位だという自覚はあるのか」
「それを言ったら貴方も同じじゃありませんか。すでに三位、いずれ一位ですよ?」
帝人は呆れたあと、眉間を険しく寄せた。
家移りのメンバーは、寅瞳を始め、燈月、沙石、帝人、鷹塚の双子、雲春咲迦丞麗、桜蓮の八名である。燈月は守り手なので当然として、沙石ももともとそのつもりだった。麗は沙石が出るならとくっついて来た。双子は無天位者なのでついでであり、桜蓮は「帝人様が行くなら私も行く〜!」とわがまま言って入ってきた。このうえ鷹塚夫妻が入れば、十人の大所帯である。部屋数があり屋敷も広いので余裕ではあるが、問題は中身だ。
「それだけのメンツがそろえば、公然たる抗議だな」
「ああ、まあ、そういうことになりますかねえ。でも寅瞳殿はしっかり守らせていただきますよ。ご安心ください」
「期待しておこう」
帝人が指摘したとおり、核全員と唯一の二位保持者と、長の地位にある者三名、そして四位の女神二名が大講堂を出るという異例の事態に、世間は注目した。収拾の責任はむろん、大講堂における上位天位者にある。
「何故いまさら核を受け入れないのだ」
と神族の長が問えば、反対派の上位天位者らは、
「沙石様と桜蓮様には天位があり、核の役目と共に天位者としての責任も負われている。それを核の役目のみで、しかも何分の一かを担っているだけに過ぎない寅瞳殿を同等に扱えというのは、無理があります」
と答えた。
どちらの意見にもついていないのは、魔族と使族の四位以上である。反対派は上位天位者新参組と、魔族、使族の八位以下が中心で、その他は賛成派だ。
勢力図は位の高い天位者で占められる賛成派が優位だが、権力に物言わせる風習は元来持たないため、互いの意見は平等である。
「そちらの主張は充分に理解できるが、我々はそれで過去に失敗している。たとえ何分の一かの加護を担っているに過ぎないとしても、また死に至らしめるようなことがあれば、拡大し続ける天上界を沙石殿と桜蓮殿の二人で支えるのは困難だ。そのリスクを避けるためにも、寅瞳殿は受け入れてしかるべきだ」
「現状は平穏です。なにも大講堂に置く必要はありません」
話は平行線だった。
***
「問題は天位者の矜持にある」
結論を述べたのは帝人である。いかに加護を体感し、核の摂理を理解したとしても、天位制度にどっぷり浸かって来た天上人にとって、それ以上の名誉はない。ゆえに、どんなに核が重要だろうと、天位より上は界王以外にあり得ないのだ。
「どうすりゃ分かってもらえるんだろうな」
沙石は言いつつ、寅瞳をじっと見つめた。
最初にして最古の神——それだけで充分に崇高である。これから一位を得ようとする帝人でさえ、その前に跪いていたのだ。天位を持たないだけで中央政権の拠点から外して考えるというのは、バチ当たりな気がしてならなかった。
「天位一位ってさ、核の代わりに理想郷を確立させるって目的で生み出されたんだろ?」
「ああ。そう言っていたな」
「んじゃ核って実質一位ってことじゃん。そこんとこ、うまく分かってもらえねえかなあ」
帝人はため息ついた。
「まあ、説明してみる価値はあるかもしれないが、どうだろうな」
「なんだよ」
「とらえようによっては、核になせないから天位制度が生まれたと考えられる。そこをハッキリ否定できないかぎりは、やめておいたほうが無難だ」
「ちぇーっ。オレだってその気になりゃ……あ、やっぱダメか」
「ん?」
「オレたち核は請け負う苦しみを知ってる。だから何万年苦しむか分かんないやつを界王に請け負わせるなんて、絶対にできねえ」
「私を責めているのか」
「そーじゃねえよ! むしろ、すまねえって思ってる。オレたちにできねえこと、背負わせちまって」
沙石がうつむくと、寅瞳が帝人の袖をつかんだ。
「本当に、申し訳ありません」
幼い眼差しは悲痛にゆがんでいる。かつてもこんな目をしていただろうかと、帝人は沈痛な面持ちで寅瞳の手をそっとほどいた。
「私が自分で決めたことだ」
思い起こせば、天位制度など影も形もなかった頃から、寅瞳は周囲の理解を得難い運命にさらされていた。魂の崇高さは比類ないはずだが、周りがそれを見出すまで耐え難いほどの時間を要し、気がつけば手遅れという事例ばかりである。
帝人は気になって、グランシール時代の寅瞳がどうだったのか、燈月に尋ねることにした。
燈月は多少、困った顔をした。
「年に一度しか会えませんでしたから、参考にならないかもしれません」
帝人はやや目を丸めた。内容に、ではなく口調に反応したのだ。
「普通に話してくれて構わないが?」
「え、あ、いや。賢者に向かってそんな」
「昔は昔、今は今だ」
「それを言うなら、なおさら。一位は目前だとお伺いしておりますが」
帝人はこめかみを押さえた。
「まあ、好きにするがいい。で、おぬしから見てどうだった?」
燈月は視線を横に流して顎をつまんだ。
「さて。なにしろ総神殿から一歩も出ない生活で、転生してもただちに神殿入りです。守りは固く、それこそ滅多なことは一度も起きなかったと断言できますから」
「転生はどうやって確認していた?」
「死の印章の上に直接降臨していましたので、確認もなにも」
「直接だと!?」
帝人はつい声を上げた。燈月はそれに驚いて視線を戻した。
「そんなに珍しいですか?」
「ああ——そんな生易しいことなら我々の苦労はなかっただろう」
「そ、そうですか」
「しかし、どんなふうに?」
「大きな光の塊が現れて、その中から。親という媒体は持たないと聞いたことがあります」
「なるほど。人間だったことがない、というわけか」
帝人が呟くと、燈月は眉をひそめた。
「と、言いますと?」
「親がいれば、少なくとも生まれる瞬間は人間だろう。沙石がいい例だ。あいつの場合は核として覚醒するまで人間として過ごす時期がある。つまり、寅瞳殿と基本的な性質は同じでも、天位を持てるか否かを分かつ違いがそこにあるというわけだ」
燈月は唖然とした。
「待ってください。それじゃあ親なくして生を受け、神格を有していても天位を持たないというのは……」
帝人は目元をしかめた。燈月が何を言い出そうとしているのか、いっとき分からなかったのだ。だがふと、ほぼ同じ条件に当てはまる人物を思い出し、青くなった。
「似ているな」
言える言葉はそれだけだった。すべてをハッキリと口に出せないのは、対象が対象だけに、軽率な発言ができないからだ。
「最初で最古の神——それが生命の起源だとしたら、誕生の方法はほぼ同じはず。純粋に理と思考だけで形成されたとなると、我々とは根本的に違う」
「そういえば異常に気にかけていますね。毎週シュウヤ殿を寄越すほど」
帝人は腕組みして唸った。
「単純に虚弱体質というわけではないのかもしれないな」
数日後。
帝人と燈月は互いに話し合ったことをシュウヤに尋ねた。界王の腹心とはいえ、究極浄化を使えるということ以外は凡人だ。さほど期待はしていなかった。が、シュウヤは意外にも厳密に答えた。
「空気だろ?」
「空気?」
「天上界なんていっても下界は下界だから、居心地悪いんだ。崇高な魂は上に浮かぶ性質を持っている。特に寅瞳は、神界の聖域が底辺だからな。普通は決して降りられない。そこを曲げてるんだから、ロクなことないって」
「なるほど。しかし、どうしてそんな?」
「どうしてって……寅瞳にいて欲しいんだろ?」
帝人はハッとした。
かつて、神王を地上にと望んだのは誰か。その望みは今、心の奥底に隠れて見えなくなってしまったが、形を変えずにあるのではないか。たとえ世界が変わろうと、核が何人現れようと、人々の潜在意識に刻まれているのではないか、と。
「寅瞳は民の望みに応えているだけだ。けど忘れちゃいけない。あいつが浄真界の神だってことは」
「じょうしんかい?」
「始点界と神界の間にある世界だ。始点界の影響で常に浄化されているけど、究極浄化の被害は受けない位置にあって、完璧な四季がある流転の理の最高峰。泰善ご自慢の庭だ。だから神界の神を降ろすのとはわけが違う」
「しかし、死後は神界の聖域にあるのでは」
「浄真界からは天上界に降りていくことができないからだ。だからって、神界にあれば簡単に降りられるってわけでもない。たくさんの重りと足枷をはめて、地上にある負を塊にして飲み込む。それをして初めて降りることができるんだ。費やされるエネルギーは莫大だし、苦患にも耐えなきゃならない。五体満足に生きられるはずはないってわけだ」
帝人と燈月は言葉を失った。その愛と犠牲が天位に勝らぬはずはない。しかし誰もそれを知ることなく拒絶しているという事実の罪深さは計り知れない。
黙りこくってしまった二人を前に、シュウヤは困ったように鼻頭をかいた。
「まあ、天位者なら言わなくてもいつか分かる時が来るって、泰善が言ってたし、大丈夫じゃないかな?」
二人は静かに顔を上げた。が、シュウヤは視線をそらした。そんな心の機微を、たとえ不可視にされていようとも見抜けない帝人ではない。
「何を隠している」
シュウヤはビクリと肩を揺らした。笑ってごまかそうとする頬は引きつっている。隠し事のできない性格というのは褒めるべきだろうが、界王にとっては頼りない腹心だ。
聞き出すべきだろうかと帝人は躊躇した。が、いくらなんでも絶対に言えないようなことなら言うまいと思い、決意した。
「何かあるなら教えてくれ」
シュウヤは視線をそらせつつ、額に汗をかいてぎこちなく答えた。
「まあ、なんつーか、痛みは分け合おうってことでヨロシク」
「は?」
「寅瞳と核ばっかり辛いのは不公平だろうってことで話がまとまったんだ」
「つまり?」
「天上界が上昇する」
帝人と燈月は、頭の中が真っ白になった。
「なんだって?」
「上に上がるんだよ。そうすりゃ少しでも寅瞳は重りを外せる。その代わり天上人は少し身体が重くなる。より清浄化されている空気にさらされるから、魂に不浄な部分が多い奴はきついだろうな」
「そ、そうか。確かに負担は分け合うべきだ。少しぐらいなら仕方あるまい」
「そうそう。衝撃はあるだろうけど、建物、頑丈に造ってあるんだろ?」
軽く笑ってシュウヤは言ったが、帝人と燈月は再び固まった。
「あ、あれ? どうした?」
「衝撃、とは?」
「いや、だから、上昇するだろ?」
「ああ」
「上には神界があってだな」
「うむ」
「必然的にぶつかる」
二人の顔から血の気が引いたことは言うまでもない。