03【古代編】その参
沙石は青ざめた顔で、座っていたソファから立ち上がった。
「じ、じゃあ、今でも?」
「分からん。グランシールの時代には、ラズヴェルトのことがなければ確立するつもりだったのだろうし」
「でも、しなかっただろ?」
「うむ」
帝人は顎をつまんでいっとき考え、寅瞳の心情を記憶から探った。だが、胸が押しつぶされるような悲しみを抱いていたらしいこと以外は、何ひとつ分からなかった。
***
懸命な看病の甲斐もなく、寅瞳は死の印章を残して魂の世界へ旅立った。電報を受けて駆けつけた清玲長とレイルは、印章を見て茫然とした。多くの者から理解を得られぬまま、神は去ったのだ。しかし加護は今も降り注いでいる。柔らかく、暖かく、人々を包み込んでいる。そのことが二人の悲しみをより深くした。
「最期はどのようなご様子だった?」
清玲長に聞かれ、帝人は迷ったが答えた。
「名を呼ばれていた。アスカ様、と。誰だろうな、アスカ様とは。神王が敬称で呼ぶということは、相応の者だろうが……とても悲しそうだった」
それから数年経つと、帝人は他の者と同様に、神王の名も顔も忘れてしまった。
ところが数百年後。死の印章が消え、神王が転生したことを知らされた時。
各所の旅を終えて別荘へ戻った帝人を待つ者がいた。白い髪と黄色い瞳の少年である。年は十ばかり。帝人はそれが、かつて失った神であることを瞬時に悟った。少年も賢者と過ごした海辺の別荘を覚えていたらしく、頼って来たのだと言う。
異変が起こり始めたのは明らかだった。忘却の世界で前世を覚えているというのは、非常なことである。
「まさか、この世の行く末を決めてしまわれたのでは」
帝人の問いに、少年はうつむいた。その表情に答えはあった。だが責めることは誰にもできない。蘇る記憶の中に、まっとうな死に方をした彼の姿はどこにもないからだ。
「個々の魂に刻まれたすべての記憶が蘇ります。その時は苦しみと悲しみが、この世を地獄に変えるかも知れません。ですがそれを乗り越えた時、民は神格を得られるはずです。神格を得れば世界ごと昇華し、穏やかな光となって、未来永劫、至福に包まれるでしょう」
帝人は畏れと緊張に息をのんだ。
「理想郷を捨てるのですか」
少年は悲しみに満ちた目で帝人を見上げた。すべては苦渋の決断なのだ。民を見限ったのではない。注がれる加護の中には、確かに愛を感じる。神王は間違いなく民を愛しているのだ。しかしそれらをどうしても昇華せねばならない事態が起きているのである。
「申し訳ありません」
少年は呟き、帝人は片膝ついた。
「いいえ。我々のほうこそ、申し訳ありませんでした」
神王である少年を連れて清玲院へ行くと、人々は神妙な顔つきで出迎えた。過去にどれほど傷つけたか、思い出したのである。中には感極まって泣き、嗚咽する者さえあった。
忘却は苦痛だと、誰もが思っていた。しかし覚えていることは、さらに苦痛だった。
何千年も前の痛みが、昨日のことのように痛い。その苦しみは想像を絶する。
加護の中にある慈愛に触れ、神の愛が何たるかを教えられて来た者が覚えているのは、その神を蔑み、清玲院から追い出した記憶である。与えられる愛に応えようと神学校へ通い、精進していたにもかかわらず、現実におこなったのは真逆のことだったのだ。
人々は己の愚かさを恥じると同時に未熟さを憎んだ。ゆえに、いまさらだが神王をこれまでになく大切に祀った。おかげで神王は、初めて成人を迎えた。
いままで一度も大人になりきれず死んでいたというのも衝撃だが、そこまで酷い扱いを受けていたにもかかわらず、民を守ろうという精神が少しも揺らがなかった神の心は奇跡である。
だが、せっかく授かったその慈悲もこれで終わりなのだ。
その昔、民は熱望した。神のある世界を。
我々こそ神を祀るにふさわしい民だと宣言し、地上に神を欲した。
応えたのは神王だった。しかし神王は憂えていた。
〝ここは忘却の支配する世界です。神を祀るのは困難でしょう〟
民らは一様に、首を横へ振った。
「我々は決して見誤りませぬ。どうか信じてくだされ」
〝でもあなた方は忘れてしまうのですよ? この顔も、声も、名も。記録さえ残せないこの世界で、目立たぬ私を見出すことはできないでしょう〟
「しかし我々は貴方様の加護を感じ取れる。これほど深い愛をいただいていて、見失うなど考えられませぬ。どうか我々の切なる願いを叶えてくだされ。我々と共に、この地上で生きてくだされ」
民の懸命な説得に、神王はやむなくうなずいた。
が、残念なことに、神王の懸念は現実となった。
最終的に神王の側近として置かれたのは、帝人だけである。ほかはみな左手の甲にあった紋章を剥奪され、聖職者としての地位を失った。神を祀るにふさわしかったのは賢者ただ一人だったというわけだ。
それでもまだ清玲院に務めることを許された者もいた。元清玲長の男と、玲官長のレイル。そして以前、賢者と共に出て行こうとした神王を引き止めた数人の者である。
しかし元清玲長の男は旅に出た。かつて賢者がそうしたように、あえて神のもとを去り、修行に励んだのだ。
長い旅から帰還した彼は精悍な顔つきをしていた。すべてを捨て、何かを悟り、神格を得たのだろう。だがその手に紋章を取り戻すことはできず、世界が昇華する時、自らも昇華した。
***
「え? じゃあ紋章持ってたら神格とか関係なく昇華しねえってこと? まあ実際、オマエも寅瞳もここにいっけど」
話を聞き終えた沙石が問うと、帝人はうなずいた。
「そういうことになるな」
「それってどういう条件?」
「知らん。だが昇華してしまう神と別扱いなのは、なんとなく、みな分かっていた」
「なんだそれ。けどまあ良かったぜ」
「なにが?」
「オマエが昇華しちまってたら、誰がオレの守り手になったんだよ?」
帝人はやや目を丸めた。
「そうは言っても、前世の記憶など一切なかった私の幼少期はかなり荒んでいたし、憎しみに駆られてもいた。いくらお前に抜擢されたとはいえ、あんな精神状態でよく側近になれたものだと思う。今考えても恐ろしいことだ」
「なに言ってんだ。お前くらいオレのこと理解できる奴なんていなかっただろ? 寅瞳にとってもさ、きっとお前くらい分かってくれる奴なんていなかったんだ。記憶なくしたって、根にあるものは変わってなかったってことだ。超自信持っていいぜ?」
ニカッと笑ってサラリと言ってのける沙石を前に、帝人は笑った。
その頃、部屋でうたた寝していた寅瞳は夢を見た。
少し長めで癖のある山吹色の髪を後ろで束ねた男が、目の前で跪いて涙を流している夢だ。
「私は光となり、貴方が次に訪れる世界を照らしましょう。それが私にできる唯一の償いです」
そして男が昇華していく姿を見届けると、不意に後ろから肩を持たれた。
「もうすぐここも昇華します。離れましょう」
振り返ると、氷霜のような銀髪と碧眼の美しい男がいた。寅瞳は驚いて目を見開いた。
「……帝人様?」
寅瞳はハッとして目を覚ました。起き上がるといつもの部屋で、長椅子で寝てしまったことを思い出す。夢の中では大人だったが、床に下ろした足も、開いてみる手も小さい。
自分は生まれ変わったからまだ小さいのだという自覚がじわじわ沸いてくるものの、どことなく地に足がつかない感覚もある。そうこうするうち、額がじんわりと熱を持っていることに気づいた。
寅瞳は立ち上がり、洗面台へ向かった。少し汗ばむ顔を洗って、鏡を見る。そして息を止めた。青い紋様が、額にクッキリと現れている。文字のようにも見えるし、ただの絵のようでもある。
寅瞳は言い知れぬ不安を感じ、急いで燈月がいる隣室へ駆け込もうと身をひるがえした。が、足がもつれて倒れた。体温が急激に上昇し、目の前がかすむ。
そこへ燈月が現れた。倒れた時のかすかな物音を聞き分け、念のため様子を見に来たのだ。
「寅瞳!」
燈月は慌てて抱き起こし、ベッドへ運んだ。額に浮かぶ紋様を見て眉をひそめたが、今はそれどころではない。
「待っていろ。珀画を呼んでくる」
しばらくして、燈月が珀画を連れて戻って来た。珀画は診察しつつ、燈月に質問した。
「予兆はありましたか」
「いや、急に」
「この、額の紋様は?」
「分からん。見聞きしたことはない」
「そうですか。とりあえず身体を冷やすための氷と解熱剤を用意しましょう」
「頼む」
それから間もなくすると、帝人と沙石がやって来た。
「先ほど神族の事務室へ寄ったら、おぬしが珀画殿を呼びに来たと聞いたので、もしやと思ってな」
沙石は寅瞳のそばへ駆け寄った。
「お、おい、大丈夫かよ」
「今、解熱剤を飲ませたんだが」
燈月が説明し、帝人が寄った。そして額の紋章を見た。
「——神王の紋章が出ている。どういうことだ?」
「え?」
燈月は眉をひそめ、沙石は帝人を睨んだ。
「どういうって、賢者だろ? 分かんねえの?」
「大昔の話だ」
帝人は答えて顎をつまみ、しばし思案した。動揺したのは燈月である。大昔で賢者といえば、思い当たるのはひとつしかない。グランシールに神が降りると聞いた時、東主教を務める上で手本にしたいと思った大人物である。
しばし沈黙が漂っていると、不意に寅瞳がうっすらと目を開けた。帝人が視線を合わせると、寅瞳は無意識に微笑んだ。
互いが妙に懐かしいと感じているのは気のせいではない、と思いつつも、帝人は声をかけた。
「それは元来あるものだ。あまり気にする必要はないと思う。しかし熱は心配だ。しばらく薬で様子をみよう」
寅瞳はコクリとうなずき、再び目を閉じた。刹那、寅瞳の脳裏によぎった記憶に帝人はギクリとした。それは海辺にある、あの別荘だ。寅瞳は今、夢うつつの中で賢者と過ごした場所にいるのだ。
帝人は背筋を伸ばして踵を返した。
「沙石、行くぞ」
「え? ちょ、ちょっと!」
そして去り際、燈月の肩を強く叩いた。
「寅瞳殿の側から離れないように。目を覚ました時は、必ずおぬしが声をかけろ」
「あ、ああ、分かった」