01【古代編】その壱
帝人は静かに燈月の肩を叩いた。
「心配はいらない。寅瞳殿が頼りにしているのだから、自信を持て」
「しかし」
「ここでは核も神も一人ではない。三種族も手を取り合った。もう昔とは違うのだ」
そうだ、昔とは違う。
帝人は心の中で、己に言い聞かせるように呟いた。
燈月はやや安心した様子を見せると、会釈して、隣接する自室へと戻った。一人残った帝人は、ゆっくりと視線を動かし、寅瞳の部屋の扉を見つめた。
「皮肉なものだ。人の記憶を解こうとして、自分の記憶が解かれるとは」
己に透視能力があることの真意は結局、今日この日に燈月の記憶を読むためだったからではないのか。そこから自身の記憶を蘇らせるためだったのではないのか——そう思えてならなかった。だが、帝人は眉をしかめた。
古の時に呼んでいた寅瞳の名が、どうしても思い出せないのだ。禁句であるかのように打ち消された名は、どんなに記憶をたどっても蘇ってこないのである。
***
その当時。寅瞳は「神王」という称号を持っていた。人々に加護を与えるという役割は後の核と変わらないが、理想郷を叶える義務などはなく、生命に危機が訪れても世界に影響を及ぼすことはなかった。ただし、死ねば死の印章は描かれる。
死の印章は人々に祀られ、見守られた。そして消えると、神王探しが始まった。死の印章の消滅は神王の転生を意味していたからだ。
神王を中心で守るのは清玲長という、グランシールの時代なら大司教の立場に置かれる聖職者を筆頭に、玲官長、玲官、精諒、元糧という階級にある者たちだった。
帝人はいずれにも属していなかったが、清玲長と肩を並べる立場の「賢者」と呼ばれる者だった。しかし実態は、神殿にあたる清玲院には在籍せず、年に一度訪れるだけの存在である。グランシール時代の燈月と似たような境遇にあったと言えるだろう。ひとつ違うのは、やむなくその状況に身を置いていた燈月と違い、帝人は自発的にそうしていたということである。
「いいかげん清玲院に腰を落ち着けないか」
訪れるたび清玲長から言われたが、帝人が従ったことはない。
「清水もひと所にとどまっていれば腐る。私はせいぜい、遠くから見守るさ」
「しかしなあ」
「そんなことより、今年の候補生はどうだ?」
清玲長は渋い顔をした。山吹色の髪は少し長めで癖がある。それを後ろで束ねるのが彼のスタイルだ。見た目の年は二十代後半。というのも、神王は普通なら千年生きる長寿の身体をしているため、それを守る者も長寿の恩恵を預かり、死ぬまで若さを保てるのだ。ゆえに実際の年などは分からない。
「一人、それらしいのはいるんだが」
候補生というのは、元糧以上の地位に就くであろうと思われる有望な子供たちのことである。彼らは清玲院に隣接する神学校へ通うが、待遇は一般生徒と一線を画する。教室はむろん別で、寮が清玲院内にある点も大きく違う。何より常日頃、清玲長を始めとする階級持ちの聖職者に見守られているという環境にある。それは格別なことで、殊に大事にされているということの目に見える証だった。
帝人はため息ついた。
「迷っているなら、いっそ候補生などという制度は廃止してみるといい」
「馬鹿を言うな。候補生に選ばれた者はたいてい元糧以上の地位を授かってきたし、神王が紛れていた史実もある」
「聖職者はともかく、神王が紛れていたのは数えるほどだ」
「それでも可能性があるなら廃止すべきではない」
「こちらの都合だ」
帝人が厳しく返すと、清玲長は言葉を詰まらせて目をそらした。
「……もちろん、安易に神王を探し出そうとする手段ではあるが、成果がある以上、廃止はありえない」
苦渋に歪む清玲長の顔を見つつ、帝人は向かい合って座っていた椅子から立ち上がった。
「それらしいという子に会いたい」
すると清玲長は、ホッとした表情でうなずいた。
「ぜひ会って確かめてくれ」
厄介なことに、加護をもたらす神王の姿や名は、その死と共に人々の記憶から消える。かつて肖像画や書籍に残そうとした者もあるが、それも共に消滅してしまうのだ。
これは神王を祀ろうとする者の試練であると、誰もが知って理解していたが、忘却とはやはり耐え難い悲しみだった。降り注がれている加護が神王の愛だと分かっているのに、名も姿も思い出せない。知っているのに分からない。分かっているのに思い出せない。なんとももどかしく、発散しようのない苦しみである。
だがそれゆえに、探し出せた時の喜びも凄まじい。その感動は、神王の慈愛を感じたことのない者には分からないだろう。しかし心配はいらない。神王のある世界でそれを感じない者など存在しないからだ。誰にも等しく、満遍なく加護をもたらすのが、神王なのだ。
「せめて本人に自覚があればいいんだが」
清玲長がぼやくのも仕方ない。転生した神王は、覚醒の時期を迎えるまで己が神王だという自覚がないのだ。つまり、本人も忘れてしまうのである。
大いなる忘却の力に支配された世界——それが古の世界だった。
「それらしい」という少年は、金髪に茶色い瞳の、見目のいい少年だった。素行はむろん申し分なく、成績も優秀だという。素直で優しく、活発で明るいため友達も多い。
玲官か玲官長にはなれるかもしれないが、果たして神王か否か、ということに関して、帝人は首をひねった。どのみち確認するには十三の誕生日を待たねばならないのだが、神王がパッと目立つ容姿をしていたら、探すのが容易で試練にならぬと思うからである。
ちなみに十三の誕生日を待つのは、その日に神王なら額に、聖職者なら左手の甲に、証である紋章が現れるからだ。
「どうだ?」
「さて」
清玲長に聞かれて、帝人は困った。お互い記憶はないのだし、直感が働いたこともない。曖昧な感じで曖昧な返事は少し危険である。
「私もうっかりしたことは言えない。もしかしたら全く別の場所で暮らしている神王を見過ごしてしまうことになるかもしれん」
無難に返すと、清玲長は肩を落とした。
「そうか……そうだな」
そんな清玲長の横顔を帝人は何気に眺め、やや危機感を覚えた。清玲長が目の前の少年を「探し求めるそれと信じたい」という顔をしていたからだ。だが違った時のことを考えると、取り返しがつかなくなることもある。
帝人は腕を伸ばし、清玲長の肩をつかんで自分へ向けさせた。
「焦るな。心の焦りは過ちを生む」
清玲長は驚いたあと、目を泳がせた。
「ああ、分かっている」
そのあと清玲長はごまかすように微笑んだ。
「もうすぐ祭りだ。参加して行くだろう?」
「ああ」
「よかった。今、一般生徒が準備をしている。見るか?」
「そうしよう」
祭りの準備には活気があった。学生たちは皆、その日を楽しみにしているのだろう。なにしろ聖職者のお偉方や候補生が校内を見て回り、共に楽しい時を過ごすのだ。交流する滅多にないチャンスである。
「なかなか頑張っているな」
「そうだろう?」
一方、清玲長と賢者が見物に来たというので、生徒たちは緊張した。
「わわっ! 清玲長様と賢者様だ!」
「えっ! まだ本番じゃないのに!?」
清玲長は軽く手を上げ、彼らを宥めた。
「まあまあ。我々のことは気にせず、準備に集中しなさい」
「は、ははは、はいいっっ!」
声などかけたら、ますます意識するんじゃないかと帝人は思ったが、注意はせず苦笑いでやり過ごした。その際、廊下の隅でじっとこちらを窺う視線に気づいた。見ると、十くらいの少年が立っている。白い髪と黄色い瞳で、顔立ちはそう悪くないが、いかにも平凡で目立たないタイプだ。様子はといえば、初めて目にする高位者に見とれ、体が硬直してしまったという感じである。
否。そんな様子なのは何もその少年だけではない。ちらほら、あちらこちらに点在する。だがどういうわけか、帝人にはその少年だけが目に止まったのだ。
祭り当日にも、少年を見かけた。少年は建物の影にひっそりと佇み、祭りの様子を眺めている。微笑みを浮かべる瞳は幸福そうだが、目の前を通り過ぎる灯りには触れようとしない。引っ込み思案と言ってしまえばおしまいだが、それでは楽しさも半減だろうと、帝人は声をかけてみた。
「楽しんでいるか?」
少年は当然のごとく驚き、しどろもどろに答えた。
「え、ええ。は、はい」
「あちらで競技をやっていた。君は参加しないのか?」
「い、いや、僕はとろいし、なんていうかその、疲れるし」
帝人は眉をしかめた。
「疲れる?」
「あ、あのっ、あんまり、人に知られたくないんですけど、その」
「なんだ?」
「丈夫じゃなくって。すぐ風邪引くし、怪我も治りにくいし……」
「なん……だって?」
帝人が絶句しかけると、少年は悲しそうな目で見つめた。
「やっぱり僕、変ですよね? きっと、神様に愛されてないんです。本当はここにいることもいけないんじゃないかって、時々思うんです。だから、あの」
「……どうした?」
「賢者様から見てどうですか?」
「は?」
「賢者様から、僕がここにふさわしくないとおっしゃってくださったら、とっても出て行きやすいんですけど。人から薦められて神学校に通い始めたから、辞めるに辞められないっていうか、向いてないって分かってるのに決心つかなくて。でも賢者様のような方に言われたら、心がハッキリ決まるかなって。……すみません。勝手なこと言って」
数日前、そんな期待を込めてこっちを見ていたのかと気づいた帝人は、一瞬めまいがした。そしてある確信を持って、少年の肩に手を乗せた。
「疲れやすく病弱なのは、君が加護を受けていないからだ」
少年はサッと青ざめた。やはり神に愛されていないのだと思ったに違いない。しかし帝人はその間違いをすぐさま正した。
「君はいただく立場ではなく、与える立場にある。すなわち、神は自身に対して加護を与えられず、すべては人に向けてあるものなのだ」
少年は徐々に目を見開いた。いままで悩み続けたことの答えが帝人の口から綴られるのを真剣に聞き、見入った。
帝人は少年の手を引いた。
「こちらへ。清玲長に紹介しましょう」
ところが、清玲長は怪訝そうな顔をして迎えた。傍らには例の候補生がいる。清玲長はどうでも自分が選んだ少年こそ神王だと信じたいのだ。ましてなんの取り柄もなさそうな少年が対抗馬である。
「貴殿の見る目も相当衰えてきたのではないか」
清玲長ともあろう者が発するには驚くべき暴言である。帝人は売り言葉に買言葉で答えた。
「いいだろう。この子は私が連れて行く。後悔するなよ」
そんな争いを諫めたのは他でもない。白髪黄眼の少年だ。
「いけません。お二人が仲違いなさっては、皆様が悲しまれます。どうか僕のことは放っておいてください」
「しかし!」
「テイト様!」
***
記憶の中で呼ばれた名に、帝人はハッと背筋を伸ばした。文字こそ違うが同じ響きを持つそれは、今ここにある名だ。ならば寅瞳も——
そう思ったが、やはりどうも違うような気がして、首を横へ振った。時計の針は深夜を指した。帝人は寅瞳の部屋の前を離れ、ぼちぼち自室へ向かって歩いた。