07【魔物編】その壱
とりあえず双子の能力については居合わせた面々の胸の内に置き、公にしないということになったが、それから幾日も、永治の心は居たたまれないままだった。
この世が理想郷に変わると、四季折々の美しさは消え、一年中安定した気温と澄んだ空気が、明け方の空を包むという。つまり星の輝く夜も来ないのだ。
死や崩壊を逃れる代わり、これまで愛でてきた多くの美が失われるのである。しかもその代償だけでは飽き足らず、万物を築き見守り続けてきた者の目を塞ぎ、忘れ去ってしまうというのだから、やりきれない。だが言い換えれば、「生きる」とはそれほどまでに重いのだ。
永治は過去の人生において、最悪の時に味方となってくれた界王への恩を忘れていない。最終的に死を迎えたが、こうして弟と共に新しい世界へ送り出してくれたことにも感謝している。だからこそ悟った。界王は生や創造を司る反面、死や崩壊をも操っているが、流転の理と称す通り、いつでも新しい命と世界を用意している。その素晴らしいサイクルを愛という名のもとに徹底しておこなっているのだ。
ゆえに、何をどう考えても流転の理から独立するなどという話は馬鹿げたこととしか思えなかった。確かにすべてと言えるほど多くの者が、死を恐れ、崩壊に怯えている。永治自身、たとえ輪廻転生の理屈が分かっていても、その恐怖を完全に払拭できているわけではない。
だが、死への恐怖なくして生きていることへの有り難みを感じ続けることが果たしてできるのか。憂いなくして真の喜びは得られるのか。はなはだ疑問であった。
弟を失った深い悲しみがなければ、再会した時の感動もなく——むろん、大抵は始めから最後まで不幸に見舞われず平穏に一生を迎えたいと願うのだろう。しかしそれでは何の刺激もない退屈な人生になってしまうことは容易に想像がつく、と永治は思いにふける中で溜め息ついた。
振り返れば幸も不幸も良い波風となって人生を豊かにし、心を成長させてきた。波風の立たぬ人生を考えると、たいした悲しみもないかわり、たいした喜びもないように思えてならない。それが永久に続くと言うのだから、もう今からウンザリするような気分だった。
そうしてベランダで一人、永治がボーっとしていると、光治がやって来た。
『兄さん、これ見て』
光治は抱えていた箱を少し傾けて見せた。横五十センチ、縦と深さ三十センチ程度の箱の中には、黒い砂のようなものがギッシリとつまっている。
『なんだ?』
『砂鉄——みたいな?』
『は?』
『鉄みたいなものだけど、酸化しない。でもステンレスとは違うんだ』
『それで?』
『なにか作れない? まだたくさんあるよ?』
永治は唖然としながら光治と砂鉄もどきを交互に眺めた。
『なにかって?』
『いまから練習しておくといいと思うんだ。俺は地球にいた頃さんざん訓練したからいいけど、兄さんはしてないでしょ?』
『それはそうだが、急に言われても何を作ればいいのか分からない』
『うーん。ここはやっぱり、一番身近にあってよく見ていたものがいいんじゃないかな? 失敗が少ないよ』
永治は眉をしかめた。過去、身近にあってよく見ていたものなど限られているからだ。
『やめよう。物騒だ』
『え? なんで?』
『細部まで形や仕組みを覚えているものなんて、武器弾薬の類いしかない』
すると光治は唇をとがらせた。
『使わなきゃいいんだよ。使うにしても用途を間違えなきゃいいんだし、基本もとの砂鉄に戻すから』
『……そうだな。それなら大丈夫だろう』
***
兄弟で話がまとまった頃、神族の事務室にシュウヤが訪れた。本日は燈月、沙石、寅瞳、安土の四名がいる。室内に足を踏み入れたとたん安土から睨まれた理由を、直感的に悟ったシュウヤは苦笑いして寅瞳へ向いた。
「無事にやってるみたいだな。じゃあ俺はこれで」
「待てよ」
早々に引き上げようとする露骨な態度のシュウヤを、沙石が引き止めた。
「なんだよ」
「いや、帝人が気にしてたから聞こうと思って。この前の界王、機嫌悪かっただろ?」
「ああ、あれか。大丈夫だ、気にすんな」
「いや、気にすっだろ。なんでだよ」
「泰明が請け負ってたやつを消化するのに、思ったより時間がかかってるからイライラしてんだ」
沙石は一瞬キョトンとし、寅瞳が勢いよく本を閉じると、燈月が作業中の手を止めた。
「あの時のあれ、まだ消化してないんですか!?」
今も強烈に印象に残る朱の紋様を思い出した寅瞳は青ざめていた。
「五年で消化できるっつってたじゃねえかよ」
沙石が指摘すると、シュウヤは困ったように頭をかいた。
「その場はそう言ったほうが、みんな安心すると思ったんだろ」
「……ふざけやがって」
口調は静かながらも、怒り心頭な様子で沙石が呟く。シュウヤはどうしたものかと首を捻った。しかし良い言葉も思い浮かばなかったので、お茶を濁して帰ることにした。
「まあ、たぶんすぐ良くなるって。じゃあな」
「あっ、おい、こら!」
引き止めるのも聞かずシュウヤは扉の向こうへ消えた。沙石は半分あきれ顔で机を叩いた。
「いいかげんな奴だな!」
そこへ入れ替わるようにして珀画が駆け込んで来た。燈月の下に仕える天位四の神で、薬草の専門家である。髪は白、目は青だ。淡白な顔だが、それなりに整っている。今では神族のみならず、使族や魔族まで世話になるほど頼りになる男で、上位天位者かかりつけの医師と称してもいいくらいだ。ゆえに天位者としての執務は休業中であるわけだが——
事務室へやって来たということは、何を差し置いても天位者としての仕事を優先せねばならない事が起きたのだろう。燈月らは反射的に背筋を伸ばした。
「大変です!」
中にいた四人の視線が集まると、珀画はひと呼吸おいて言った。
「み、妙なものが……じ、地面から」
***
地表から這い出るものは、静かに現れた。黒い皮膚は爬虫類のような質感で、目は赤褐色である。四つ足で駆けるものもあれば、腹を引きずって歩くものもあり、中にはコウモリのような翼で飛ぶものもあった。犬くらいの小型のものから、五メートルを越えるような大型のものまでいる。
それらは地表を荒らすことなく霊体のように現れながら実態を有し、花壇や街路樹を破壊した。周辺の住人らは奇怪な生き物の不意な出現に驚き、凶暴な行為に恐怖して逃げ惑った。
突然、街から聞こえてくる悲鳴に気づいた大講堂内の天位者らは、すぐさま駆けつけ状況を把握すると、住民を救助するために奔走した。珀画が燈月のもとへ報告に来たのは、すべての避難が完了したあとである。報告に走る間もないほど緊急を要する出来事だったのだ。
異形のものは強靭な肉体をしていて、鋭い牙や爪を持ち、頑丈な塀さえ一撃のともに破壊してしまうという報告を聞いて、沙石が真っ先に思い至ったのは、前世の記憶にある魔物たちである。
「帝人は?」
とっさに居所を尋ねたのは、こんなとき最も頼りになる相手が彼だと知るからだ。
「ここにいる」
帝人はそう答えて珀画の背後から現れた。彼もまた、騒動を聞きつけてすぐに沙石を頼ったのだ。
「あいつらか?」
「間違いないだろうな」
帝人と沙石は短い言葉を交わして、一瞬沈黙した。その二人を燈月は交互に見たあと、尋ねた。
「どういうことだ?」
簡単に言ってしまえば「魔物」であるが、元は人間という、なかなか厄介な代物だと帝人は説明した。沙石とともに世界の終息の日まで戦い、倒し尽くしたが、ここへ来て地獄から復活してきたと考えるのが妥当だと言う。
しかし燈月には解せないことがあった。
「世界が閉じられた時に消滅したのではないのか」
すると帝人は伏せ目がちに答えた。
「魂は不滅のものだ。よほどのことがないかぎり、たとえ魔物でも抹消されることはないだろう。形は違えど、閉じられたはずの天上界も復活したのだ。私や沙石がこの世に転生したのと同じように、さまよえる魂が故郷の地を求めてやって来たのだとしたら——あり得ない話ではない」
「今になってかよ」
沙石が吐き捨てる声に、帝人は目を向けた。
「今だから、かも知れん」
「え?」
「理想郷を確立する上で、過去の清算が必要だとしたら……いや、彼らもかつては同じ地に生きる人々だった。その魂を救わずに我々だけが理想郷へ到達するなどということが許されないのだとしたら」
「て言ったって、どうすんだ。前も散々悩んで、苦しんで、結局戦うことしかできなかったんじゃねえか」
「まあ、もっと前向きに考えよう。今は私たちだけじゃない。核も神も、一人きりじゃない」
沙石はまばたきした後、寅瞳を見つめた。
「そっか。そうだよな」
ヒースとアンバーがいないのは残念だけど、と心で呟いたのを、帝人は聞いてしまった。おかけで胸に刺さっていた小さなトゲが息を吹き返した。
不思議でならないのだ。
こうしてサンドライトと転生を果たしたというのに、自らの魂を焼いて剣や盾となり、共に戦った二人はいない——そのことが。しかし界王には聞けなかった。なんとなく恐ろしい気がするのだ。魂を焼いてしまったことが救われない原因だとすると、二度と会えないのではないか。それをハッキリ宣告されてしまうのは、断腸の思いである。
「とりあえず対策を練ろう」
燈月の言葉に皆がうなずくと、上位天位者はすぐさま招集された。
だが結論から言えば、解決法は討伐しかない。帝人と沙石の経験上、魔物の肉体を破壊して魂を解き放つよりほかないのだ。その魂が再び魔物と成り果てるか否かは、誰にも分からない。ただ成仏することを祈って呪われた身を断つ以外ないのである。
上位天位者はそれぞれの配置を決めると、手に剣を握った。ただし帝人だけは弓矢である。最も得意とする武器だからだ。
「おまえがそれ持ってる姿見るの、久しぶりだな」
沙石がそんなことを言うのを、帝人は苦笑いで返した。武器を手にする機会など、ないほうがいいに決まっているからである。
「今度こそ、終わりにしよう」
帝人の言葉に、沙石は神妙な顔つきでうなずいた。