01【大龍神】その壱
今でこそ神界の核として役目を果たしている大龍神だが、はじめからそうだったわけではない。
はるか昔は天位制度がなく、神通力を持って神界に住むか、核である者が、いわゆる神だった。そして現在も神界は、天位にかかわらず崇高な神々が寄り集まる世界としてあり、核の魂を祀る場所であるわけだが……
霊験あらたかなここでも、規律あるいは禁忌とされることがいくつかあった。この禁忌のひとつに「神と人とが交わり合うことなかれ」という掟がある。婚姻を結んではならないということだ。が、その昔一度だけ、犯した者がいた。
白龍神と呼ばれる龍神の娘と、地上で百姓をしている名もなき人間の男である。二人は周囲に引き裂かれたが、子を授かっていた。
子の名は「龍巳」。のちの大龍神である。
少年は罪の証であった。しかし肉体を持たず、直接罪を犯したわけではないので、仙界や地球への流刑を免れ、神界にとどまっていた。身分は当然のことながら最下位である。さらに、神界人の容姿には一見して人ならぬ者と判断できる特徴がなくてはならなかったが、まったく人間の姿をしていた少年は誰からも蔑まれた。
黒髪に黒目。ほかにも際立ったところはない。霊体で神界に暮らしていなければ、本当に人間としか思えなかったのである。
これに関しては本人も重々承知しており、つけ込まれると返す言葉もなかった。したがって、冷遇も甘んじて受けた。己の宿命を恨むこともせず、父と母の罪を一身に背負う覚悟を決めていたのだ。
神界の下層域に広がる海原の、小さな岩の島。そこに建つ古い東屋が、龍巳に与えられた住処であった。いわゆる寄せ棟造りの家ではない。四方の柱と屋根だけで構築される、庭などに休憩所としてあるほうの東屋である。しかも朽ちかけていて、いかにもみすぼらしいものだった。
だがそれは、屈辱と思えば屈辱であり、結構と思えば結構なものである。
神界は嵐が来るわけでも雨が降るわけでもなく、気温の変化も風もない。野蛮な獣も盗人もいなければ、虫もいないのだ。
「地球のような場所であれば、それなりの住処を与えてくださったはず。ですから、ここはこれで良いのです」
と、龍巳は達観していた。しかし着用するよう義務づけられた衣装が黒なのだけは、どうしようもなかった。
神界人の着物や羽織袴はほとんどが白い。まれに桔梗色であるが、それはより崇高な者が身につけることのできる色であり、白はそれに仕えるにふさわしい神の証だ。一方、墨染めの黒は仙人以下の修行僧が身につけるため、不浄なる者という看板をぶら下げて歩いているようなものである。ゆえに龍巳は、人前に出るときなどは心底肩身が狭く、みじめな気持ちにならざるを得なかった。
そんな少年には仕事があった。地球を眺めつつ、退屈ながらも優雅な日々を送る神々とは違う。
神界下層域に散り積もる葉や花びらを掃き集めて燃す仕事。仙界へ続く道の断崖絶壁に生えているチャノキより茶の葉を摘む仕事。四神の世話、の三つである。
本来なら仙人の仕事であり、神界に住む者がやるべきことではなかったが、龍巳は命じられるままにやっていた。あからさまなイジメにほかならなかったが、文句は言わず、手抜きなどもせず、心を込めて務めた。
ただ、霊体でも疲労する。一日十二時間の労働は、少年の身ではつらかった。寝屋は冷たい翡翠の岩の上であり、どうにも休まるものではない。せめて寝具のひとつもあればと思うのだが、龍巳は申し出る勇気を持たなかった。文句があるなら仙界へ行け、と言われるのは目に見えていたからだ。
神界にある者が仙界へ行く——すなわち流刑だ。そして一度なりとも下の世界へ行けば、再び上がってくるのは困難である。
天位制度のある時代ならいざ知らず、これをもって神となすという明確な基準のない時代。神界へ上がる資格を得るのは曖昧で、雲をつかむようなものだったのである。
「容姿だけでも母様に近ければ、なんとか良かっただろうに」
龍巳はたまに思いながらも、詮なきことと諦めていた。
ところが、齢十一頃から髪の生え際が白くなり始め、十五になる頃には黒かった面影は微塵も残らず、眉や睫毛に至るまで真っ白になった。成長するにつれ、母・白龍神の血が強く働いたのである。
龍巳は喜んだ。おまけに、黒目の中にうっすらと金の輪が浮かびはじめ、二十歳頃にはクッキリと現れた。金環日食のような不思議な印象は神秘的で、龍巳はどこから見ても人ならざる様子となったのだ。
おかけで、それまで蔑んでいた神界人も、一目置いて眺めるようになった。しかし衣装は相変わらず墨染めの衣で、罪から生まれた身であることまでは払拭できなかった。
青年となってからも、龍巳は神界と仙界の境にある絶壁で茶摘みをしていた。一応、つま先が乗る程度の足場はある。体重がないため難なく立っていられるし、万が一落ちても、下降が緩やかなので衝撃もない。そもそも肉体がないので死ぬこともなければ、ケガもしない。霊力の消耗によって疲労するということを除いては、それほど過酷というわけではないのだ。
そうして、早朝から積みはじめ、四時間ほど経ったところで「そろそろ切り上げよう」と考えていると、不意に声がかかった。
「もし! そこのお方!」
遠くから声を張り上げる相手を、龍巳は振り返って見下ろした。笠をかぶった僧侶がいた。仙界で修行をしている者だろう。
僧侶は片手で笠を持ち上げ見上げていた。龍巳があまり上方にいるせいか、目を細めてしかめ面をしている。おそらく豆粒ほどしか見えてはいまいと龍巳は思った。それほど距離があったし、人影を見つけただけでも奇跡と言える。
だが龍巳には僧侶がよく見えていた。目がいいのだ。僧侶は中肉中背で、さしたる特徴もない男である。歳の頃は三十代前半。ぎりぎり仙界側の道にたたずんでいる。
「なにか?」
龍巳は答えた。声は普通に発しても届く。神界とはそういう所だ。僧侶は、知らぬこととはいえ大声を出してしまったことを恥じ、少し頬を紅潮させた。
「申し訳ない。竹神様を訪ねて参ったのだが、誰にお願いすれば目通りをお許しいただけるだろうか」
龍巳は無言のまま、素早く絶壁を下りた。龍巳を間近に見た僧侶は驚き、慌てて笠を取ると、急ぎ跪いた。茶摘みなどしているので、同じ仙人かと思ったのだ。
「失礼を。それがしは法力師の杉沢英路と申す者。訳あって竹神様にお会いしたく、不躾ながら押し掛けて参りました。が、これより先、不浄の身では通れぬ道。なにとぞ竹神様にご足労いただきますよう、お願い申し上げます」
「ただ来いというだけでは無理でしょう。どうか訳をお話ください」
「実は、疫病が猛威をふるっておりまして。このままでは町も村も全滅です。なんとかしていただけぬものかと」
「なぜ竹神様を?」
「比較的、地上の者に友好的で慈悲深い方だとお伺いいたしております」
龍巳はうなずき、英路に待つよう言いおくと、絶壁にそうようにしてある道をのぼって行った。
実のところ、龍巳が竹神を訪ねるのは初めてである。竹神は身分の高い神だ。龍巳のような者が目通りできる相手ではなかったし、逆もまたしかりだ。そんなわけで龍巳は、おもに竹神に仕えている下々の神の前で跪いた。
「竹神様にお目通りしたいという人間が参っております。名は杉沢英路。いかがいたしましょうか」
するとその神はわずかに目を見開いた。
「杉沢英路とな? 待っておれ。竹神様にお伺いを立てる」
なかば「すぐに追い返せ」と言われることを覚悟していた龍巳は、驚いた。そして意外に名の知れた僧侶なのかも知れないと、少し羨ましく思った。
もし自分が目通り願いたいと申し出ても、伺いを立てる前にはねのけられるのが常だ。そう考えると、僧侶の身である英路のほうが、ただ神界にいるだけの自分より、よほど徳が高いということになる。
返事を待つあいだ、龍巳は居たたまれなかった。神界に生まれ育ったというだけで、その資格もないのにしがみついている自分が恥ずかしく思えたのだ。
まもなくして、竹神が姿を現した。竹神は十六、七の風貌で、美しい顔をしている。金銀に輝く髪はまばゆく、若竹色の瞳は優しい。
「案内していただけますか」
と竹神は言った。
「それは我々が」
と下々の神は進み出たが、
「ことづかって来たのは彼でしょう? だったら彼でよろしい」
と返して断った。
そんなわけで、龍巳は竹神を先導しながら、もと来た道を下った。その道中、竹神は龍巳に話しかけた。
「龍巳というのは、君でしょう」
「は、はい」
「噂には聞いていました。なるほど、その瞳には一見の価値がありますね」
龍巳は動揺した。蔑まれることはあっても、褒められることはなかったからだ。
「そのようなことはございません」
「そうでしょうか。私はね、龍巳。生まれや育ちは関係ないと思うのですよ」
「え?」
「魂の価値は、いわば経験の積み重ねと清らかさ。どこでどのように生まれ、どんな暮らしをしようと、それは真価を問うものではありません」
竹神の言葉は、龍巳の胸にしみた。
魂の価値を問うならば、自分はいっそ仙界に身を落として、等身大の己と向き合うべきではないかと思ったのである。
やがて仙界と神界の境へ着いた。竹神を見ると、英路は深く頭を下げた。
「いらしてくださったか。ありがたい」
「道中、おおかたの話は聞きました。なんとかできるでしょう」
「おお、左様ですか」
英路は目を輝かせて、竹神をあおぎ見た。しかし竹神は、
「でも、条件がありますよ」
と言った。英路はとたんに暗い顔をした。
「なんでしょう」
「私はあなたについて行きます」
「は?」
「私も地上へ降りてみます」
これには英路どころか龍巳も驚いた。
「お、お待ちください。そんなことをして、もし戻れなくなったら」
龍巳は忠告したが、竹神は涼しい顔で笑った。
「大丈夫ですよ。英路は高名な法力師。地上から仙界を渡り、無事にここまでたどり着いたのです。きっと私を守り、また連れ帰ってくれるはずです」
「それは、そうかもしれませんが」
「一度でいいから降りてみたかった。こんな機会は二度とないかもしれません」
「ですが」
「君が案ずることではないよ、龍巳」
竹神は言いつつ、英路に向いた。
「いいですね」
英路は再び頭を下げた。
「は、ははっ」