04【燈月】
燈月が捕われたのは、キッカリその三日後だった。
燈月には記憶がない。書斎に一人でいたところまでは覚えているが、あとは気がついたら牢獄にいたのだ。
否、一瞬背後に気配を感じた。しかしそれだけだ。自分を捕らえた者の顔も見ることなく鉄鎖につながれている状況を、彼はひたすら恨めしく情けなく思うばかりだった。
とにかく判明しているのは、ここが魔族の領地内にある牢獄ということだ。牢を構築している石材が、その特徴を示している。黒光りする表面の奥に、コバルト色の砂が無数に散らばっている。
(あれから半月は経ったように思うが……)
左右の壁に固定されている鎖は腕を広げさせる形で燈月をつなげており、両膝は立ち上がれないよう特殊な印が刻み込まれた石の上につかされている。天位三の神である彼にとっては、かなり屈辱的な格好だ。おまけに食事まで給仕しにくる若い娘に頼るしかない。
(せめて片手だけでも自由であったらな。誰が刻んだ印か知らないが強力だ。俺の力をしても解けぬ。魔神か、あるいは大魔王の一人か)
「どちらもハズレだ」
不意に声がして、燈月はビクリと身体を揺らした。さらに鉄格子の向こうに声の主が現れると、息をのみ、目を見開いた。
「気分はどうだ」
問いかける男は、いろんな意味で見たこともない人物だった。一九四ある身の丈の中に備わるすべてが、絶妙にして究極の比率で、真の美というものを惜しげもなく費やしている。恐ろしく美しい男だ。
「おまえは誰だ」
「飛鳥泰善」
「飛鳥——泰善だと? 封術師の?」
「よく知ってるな」
「名前ぐらいは聞いたことがある。そのように美しいとは知らなかったが」
燈月のいらぬひと言に、泰善は苦笑いした。そんな表情さえも絵になる男である。燈月は気を取られまいと咳払いした。
「さきほど俺の疑問に答えたな。この印はおまえのものか」
「そうだ」
燈月は目を細めて泰善をみつめた。
「天位は見えない。いかに高名な封術師とはいえ、ただの封術師がこれほどの印を結べるのか」
「技術と天位は関係ない。それより神族の公約は真実どうなんだ」
「なに?」
「おまえ達も魔族や使族のように、結局は主導権を握りたいだけなんじゃないのか」
「俺たちは真実に力の均衡と異種族の平等を願っている」
「それが嘘でないとしたら、おまえは魔神が魔族の長として立派に成長するのを待たねばならない。このままでだ。耐えられるか」
燈月は訝しげにして、声を落とした。
「——なにが目的だ。ここにいるということは自由に魔族の領地内を出入りしているということだろう。なにをした」
「魔神が魔剣を所有できるよう教育している」
「魔族につくのか」
「形式上は」
「いくら積まれた」
「なにを?」
「金だ。人の身で、それ以外のなにがある」
泰善は笑った。
「一銭も。しいていうなら寝る場所と付人の食事は保証してもらった」
「なんだって?」
燈月は唖然として泰善の顔をみつめた。見れば見るほど秀麗だ。自然とため息がもれる。
「なんの得がある」
「さあ。ただ、おまえが求めている理想の世界には近づくんじゃないのか?」
「どういうことだ」
「力の均衡と言ったな? だが今のままでは使族が力を持ちすぎる。十年先には神族が優位に立つだろう。そのうち魔族は天上世界から離脱する可能性もある。これを避けるには、魔神が相応の力を得るしかない。できなければ、おまえの目指すものとはほど遠い世界になってしまうだろう。魔族にただ一人の天位三。幼い肩には重すぎる荷だ。それでも闇王がついているかぎり倒れたりしないと思っていたが……」
「違うのか」
「現段階ではなんとも言えない。とにかく近い将来に、うわべだけでも力の差を埋めなければならない」
「おまえは魔族に籍を置きながら、神族の思想に票を投じるというのか」
泰善は笑みを浮かべた。妖しくも美しく、気品に満ちている。本当に我を失わせる美貌だと、燈月はせつなくなった。
「おまえがこの苦難を耐えるというなら、それもよし。神族のために危険をおかしてみるのも悪くない」
燈月の胸は熱くなった。なんと魅力的な台詞を吐く男だろうかと、ときめいた。
「本当か」
期待を込めて問いただすと、泰善は静かにまばたいた。
「ただし、途中で弱音を吐いた場合はその限りではない。ここで耐えることが俺を動かすための代償だと思え」
「高い代償だ。もう少し安くならないか」
「値切るな」
軽く言い捨て、泰善は立ち去った。
残された燈月は、数ヶ月に渡ってあった苦痛と屈辱がともに消え去ったことに気づいた。完全に敵の手に落ちたのではなく、いたずらに捕獲されたのでもないことを知ったからだ。自分の置かれている状況が不確かなことほどの恐怖はない。
(それにしても、俺としたことが酔狂な。たった今、初めて逢ったばかりの男の言うことなど信じて……仲間たちが知ったら、さぞ呆れることだろうな。気がおかしくなったのかと思うだろう——いや、自分が気づかないだけで、すでに乱心しているのかも知れぬ。あの男の虜にされてしまったのかも、わからない)
「だが」と燈月は目を閉じた。最大の目的を果たすためには、どんな犠牲を払ってでも障害を排除してみせる、そう固く心に誓った。
最大の目的とはもちろん、理想郷の確立だ。理想郷を目指さねば世界が滅びるということを天上人は漠然と信じているが、燈月は違った。彼は信じているのではなく、知っている。その身をもって経験している。理想郷を目指せなかった世界の成れの果てを……
グラン・シール
それが、かつて燈月の生きた世界。そして滅びた世界だった。