01【カーンデル】その壱
界王こと飛鳥泰善が初めて天位制度を敷いた世界。それはサルビアである。その名が示す通り、サルビアの花が咲き乱れる美しい世界だ。民はみな純真で争うことを知らず、日々穏やかな時が流れていて、理想郷確立以前からほとんど理想郷として成り立っているような、そんな世界である。
泰善はこのサルビアを、こよなく愛していた。
サルビアの核はローレンという女性である。彼女は優しく美しく、民らに慕われ愛されていた。茶髪まじりの金髪で、縦巻のゆるいウェーブがかかっている。そして瞳は青く、星を宿しているのではないかと思うほど、キラキラと輝いている。
そんな彼女に恋をした者がいた。若くして宣教師の職についた男、カーンデルである。雌黄色の髪と菖蒲色の瞳をしている。
カーンデルは、この頃すでに天位五を授かるほど優秀であり、非常に天位と相性のいい人物だった。職務に忠義であり、人々への献身を忘れず、実直で愛情にあふれた人格者だったのだ。
おまけに長身で男らしく、端正であり、恋の相手にもあまり不自由はしない青春時代を送った。人生は順風満帆であったに違いない。
ローレンに対しても、彼の自信は揺るがなかった。だが告白を早まるような失態はおかさなかった。相手は核である。釣り合いを取るために最低でも二位を授かる必要があると考えたのだ。
だからといって、恋愛成就のために二位を目指すという愚かなこともせず、何事にも純粋な心で向かい、誠実に努めた。
小さな村で疫病がはやれば己の命も顧みず行って看病をし、日頃は子供たちの教育に心血を注いだ。そんな時は愛しいローレンのことも天位のことも頭にはなく、一心に民の幸福を願っていた。
やがて人々は彼を「パレス・アラウンドの宣教師」と呼んで大変に敬った。泰善が天位一位を授けることに、ためらうはずもない男だったのである。
カーンデルは三十歳の誕生日を迎えた年に、天位二の神となった。三十と言っても、見た目は天位を得た二十二の頃の風貌だ。若く凛々しい彼は自信に満ちあふれていた。前途は明るく、恐れるものなど何もなかった。
それゆえ、悲願の二位を収め、胸を躍らせながらローレンのもとへ向かう足も自然と駆け足になった。
一刻も早くこの気持ちを伝えたい。
カーンデルはその想いだけで、彼女が待つ神殿の門をくぐったのである。
***
帰り道の彼は痛々しい姿であった。すっかり消沈し、とぼとぼと歩く様は、まるで別人である。みなぎる自信も、凛とした姿勢も、天位二の誇りさえも、失ってしまっていた。
〝私とお付き合いをしてほしい〟
そう言ったカーンデルに対し、ローレンは困ったように目を伏せた。
〝ごめんなさい。あなたを尊敬しています。でも……〟
ローレンは顔を上げて、澄んだ瞳にカーンデルを映した。
〝わたし、界王様以外の人は考えられないの。もちろん叶わぬ恋だと分かっているわ。それでも彼がいいのよ〟
相手に少しでも気があるなら決して諦めないカーンデルだが、界王と聞いてはさすがに精彩を欠いた。しかし片思いだとハッキリしているなら隙があるはずだ。と、彼は失恋の痛みに狼狽しながらも気力を振り絞った。
〝か、界王ですか。参りましたね。ですが貴女は美しい。叶わぬ恋などと諦めなくとも、おそらく……〟
〝いいえ。わたしではとても。あなたもお会いすれば分かるわ。本当に素晴らしい方なの〟
そんなはずはない。
カーンデルは声には出さず否定した。ローレンほど美しく清らかな女性はいないと信じているからだ。彼女を見初めぬ男などいるものか。たとえ界王だろうと例外ではない、と。
だがカーンデルは、そうは言わなかった。
〝叶わぬ恋と分かっているなら、憧れは憧れのままにして、ほかの伴侶を求めようとは思いませんか〟
いったんは引き、今度は軽く攻める。彼はそんな駆け引きをうまくやるつもりでいたのだ。少しずつでも距離を縮めてゆけば、恋は必ず叶うと疑わなかった。ところが。
〝あら、うふふ。そうね。そう考えられたら幸せでしょうね。でも界王様をひと目見たら虜になってしまうわ。ほかの人なんて目に入らなくなってしまうの。でも不幸とは思わない。だって見つめているだけで幸せなんですもの〟
答える彼女の瞳は、すでにどこか遠い空の彼方である。カーンデルは、つけいる隙などどこにもないのだと思い知らされただけだった。
***
カーンデルは長いこと、傷心と苛立ちの中にいた。ローレンの心を完全に奪ってしまった界王が許せなかったのだ。天位二を得るほど努力し忠誠を誓って来たというのに、ひどい仕打ちだと逆恨みさえした。
だがこの天位というやつは、一度手にすると手放せなくなるからタチが悪い。ゆえにカーンデルは、恨み言のひとつもこぼせない状態で悶々とした。
(このような暗い感情は完璧に隠しておかなければならない。せっかく得た二位という名誉のためにも、これから得るはずの一位のためにも)
だが結局、考えれば考えるほど太刀打ちできない恋敵を憎まずにはいられなかった。
「ああ。私はどうすればいい」
しかしそんな悩みも、いよいよ一位を授けに来るという鳳凰の告げがあって界王が目の前に現れると、一瞬のうちに消え去った。
それは静かな夜だった。月明かりが道を照らし、微風もない。そこへ降り立つ界王のたえなる姿は、地上にあるすべての美を冒涜した。
教会のベランダで待ちわびていたカーンデルは息をするのも忘れるくらい驚愕し、感動に震え、いっさいの思考を停止させた。
神々しい光を放ちながら現れ出でたる界王の姿は、見た瞬間に魂をもぎ取られるほど衝撃的な美しさである。優しく輝く淡い緑の右目と、始点界の青にきらめく左目。艶やかな臙脂色の髪。長い肢体。驚くほど均整の取れた身体。シルエットだけでも非の打ち所のない肉体美を誇っていると分かる。
カーンデルは口を半開きにしたまま固まった。男に欲情などしたことのない彼だったが、界王は別物であった。気品とともにある妖艶さに目を奪われ、見れば見るほど美しい容姿に放心した。究極と言わざるを得ない美貌を前にカーンデルが思うのは、底知れぬ闇の感情である。
誰にもくれてやるべきではない美。それを我がものにして乱すことができるのは、今まさに一位を得ようとしている自分ではないのか。己がこれまで独りでいたのは、今日のためではないのか。
そんな勘違いをした。
この世が誕生する以前から存在し、すべてが終わってしまっても永遠にあり続ける男、界王。不老にして不死。全知全能であり究極の存在。常軌を逸する美貌——カーンデルは多大なる欲望をかき立てられた。
独占したい。界王の横に並び立つのは己しかいない……と。
もはやローレンへの想いは、カーンデルの心になかった。あれほど清らかで美しいと思い恋焦がれた乙女も、界王の前では小石同然になってしまったのだ。指先で弾き飛ばすことも造作ない。
界王の前に、カーンデルはゆっくりと跪いた。すると界王が口を開いた。
「カーンデル」
カーンデルはゾクッとした。己の名を呼ぶ界王の声もまた、官能を刺激するような心地よさだ。身体の中心から自然と湧き出る歓喜に、震わずにはいられなかった。
界王は手の平を軽く返すと、天位一位の宝玉を現した。
「これには理想郷を確立するための力と英知がある。不動の心で受け止めるがいい」
「は、ははーっ!」
カーンデルは深く頭を下げた。その頭部に一位の宝玉が落ちる。
この瞬間にも彼の中には邪心が渦巻いていた。が、長年に渡る努力や献身が支えとなり、一位の宝玉はカーンデルの内へ入ってなじんだ。
カーンデルは、顔を伏せたまま口の端を上げた。
善行の貯金はしておくものだ、と。