04【飛鳥泰明】その弐
「寅瞳が気になる」
と燈月が言い出し、空呈と二人して帝人と沙石に相談を持ちかけたことが発端だ。
「六十年近く付人やってたんだろ? いまさら心配しなくても大丈夫じゃねえ?」
沙石は言ったが、今は立場が違うとして燈月が譲らなかった。そうして部屋へ寄ってみれば、なにやら言い争っている様子だ。やはり見に来て正解だったと勢いよくドアを開けた——までは良かったが。
腕をつかまれ、少し身を引いて長椅子に倒れかけている泰明と、それを必死に逃すまいとする寅瞳……という構図は四人の予想を大きく裏切っていて、大変な衝撃だった。
特に、すっかり前髪が乱れてしまった泰明の妖艶さときたら、すさまじい破壊力だ。もともと美しいと思っていた目に美しい眉がそえられると、いっそう美貌が引き立つ。
「隠すわけだな」
帝人は無意識にしみじみと呟いてしまった。
「うむ……いや、そんなことより何をしている」
思わず同意した燈月が、慌てて状況説明を求めた。そんな隙をついて泰明は立ち上がり、寅瞳の手を逃れた。
「何もしていない」
泰明は言う。これには全員が呆れた。
「この状況でシラを切る気か」
「なんでもないんだ」
「切るつもりらしいな」
燈月は寅瞳を見た。寅瞳は少し泣きそうな顔をしている。やはり相当なことは言われたのだと思った。
「なにを言われた?」
すると寅瞳は思い切り頭を横へ振った。
「違うんです! 私はただ、飛鳥様の腕を見ようと思って」
みなが顔をしかめた。
「腕?」
「はい」
「なぜだ」
「手の甲に朱の紋様が……。どのくらい請け負ってるのかと思うと、心配で」
空呈以外の全員が目を丸めた。
「朱の紋様だと?」
帝人が低い声で反復し、泰明を見据えた。泰明は舌打ちした。
「寅瞳、余計なことを言うな」
「余計じゃありませんよ!」
泰明の言葉に寅瞳が反論すると、沙石がニヤリと笑った。
「そーだよな。余計じゃねえよな。見せてみろよ、腕」
燈月、沙石、帝人の三名が力強く歩を踏んで距離を詰めた。泰明は後ずさりした。らしくなく動揺しているようで、寅瞳はいっそう不安を募らせた。六十年も付人をしていたのだ。飛鳥泰善が強気でない時はどういう時なのか、心得ている。ならば泰明も同じだろうと思った。
「人に見せられないほど請け負っているんですか?」
燈月らの後ろで寅瞳が言う。声は悲しみに満ちていた。
泰明は前に立ちはだかる三人の隙間から寅瞳の姿を確認して、静かに息を吐いた。
「これを見せて、おまえが気を失わないという自信はない」
寅瞳は目に見えて分かるほど震え、「やっぱり」と小さく呟いた。
詰め寄っていた燈月らも思わず引いた。
「よく平気だな」
沙石が驚いて言うと、泰明は皮肉げに笑った。
「許容量が違う」
「へえ? そうかよ」
半信半疑に笑い返す沙石の肩を、寅瞳は軽く叩いた。
「飛鳥様は核を治癒できる能力者です。その分、多く請け負えるのでしょう」
「——!」
「なんだって!?」
沙石も燈月も帝人も驚いたところで、寅瞳は泰明に歩み寄った。顎を上げ、凛とした眼差しでまっすぐに立った。
「見せてください」
寅瞳は覚悟を決めていた。何を見ても気を確かにしていようと。
泰明はその覚悟を受け取り、しぶしぶ袖口のボタンを外して袖をまくり上げた。
長く美しい腕だ。筋肉の乗り具合も絶妙で、彫刻でもここまで表現できまいと思われる。朱の紋様さえ残酷に覆っていなければ……
びっしりと蔦が絡み、花が咲き乱れ、葉が生い茂っている。皮膚の上にだけ現れるはずのものだが、おそらく骨に達する勢いだろうと確信できる濃さだ。
めまいを覚えたのは寅瞳だけではない。燈月も帝人も沙石も一瞬、目の前が真っ暗になった。腕だけでそれならば、おそらく朱の紋様が刻まれるとされる肩も背も胸元も埋め尽くされていることは間違いないだろうと思うからだ。
空呈だけは意味を解さなかったので正気だったが、それでも目を見張った。
「じょ、冗談だろ、おい。そんなの一生かかっても消化しきれないぜ」
わき上がる怒りを声に込めつつ、沙石は泰明を睨んだ。
「なに考えてやがるんだ」
「許容量が違うと言っただろう。こんなもの五年もあれば消化できる」
「そんだけ請け負ったら五年でも一生分苦しむぜ! バカだろオマエ!」
沙石は涙目で怒鳴った。
治癒能力は慈愛の深さと関係している。痛みを請け負って他人の傷を治すというのは、自己犠牲の精神にほかならない。自己犠牲は慈愛の深さがもたらすものだ。それなくして治癒能力は発動しない。
寅瞳は飛鳥泰善のことを「優しい」と言った。そんなことの証明が朱の紋様に表れていて、沙石はなんだか悔しいような、つらい気持ちになってしまったのだ。
泰明は袖を戻して溜め息ついた。
「見せろというから見せたのに、文句を言われたんじゃ割に合わんな」
「うっせー! てめえのそういう態度、あんなの見たあとじゃあ説得力ねえっつーの! 損得とか、ぜってー考えてねえだろチクショウ!」
「じゃあ見なかったことにしろ」
「できるか!」
沙石は声をからしゼエゼエと肩を揺らした。それから寅瞳の様子をうかがって毛を逆立てた。立ったまま気絶していたからだ。
「うおーっ! 大丈夫か!?」
***
「飛鳥様が核を治癒できるのは本当ですよ。私も治してもらったことがあります」
ベッドに横たわり、額に冷やしたタオルを乗せられながら、寅瞳は言った。ベッド脇に立って様子をうかがっていた泰明は、腕組みしてそっぽを向いた。
「また余計なことを言ってるな」
タオルを絞ってやった沙石が思わず拳を握って泰明を睨んだ。
「余計じゃねーよ! 超重要事項だぜ!」
「おまえはうるさいな」
「誰のせいだよ!」
「まだ怒っているのか?」
「あったりめーだろ! あんなに請け負うなんて許せねえ!」
「優しいんだな」
泰明は穏やかに笑った。憤慨していた沙石は、急に顔を真っ赤にしてうつむいた。
「な、なに言ってやがる」
「そんなに心配して怒ってくれなくても大丈夫だ」
沙石は目を見開き、次の瞬間には爆発した。
「分かってんだったら、とっとと部屋へ戻って寝やがれ!」
沙石の一喝で泰明が引き上げると、部屋にいたほかのメンバーはどっと疲れたようにソファへ腰を下ろした。
空呈はといえば、治癒能力についてひと通りの説明を受けたので沙石が泰明を叱るのも理解できたが、本人があまりに平然としているので、やや信じられない気もしていた。
「痛みを請け負うというのは、そんなに大変なんですか?」
「あんた骨折したことある?」
沙石の質問に空呈は明るく笑って答えた。
「あります。子供の頃、木から落ちて……」
「その痛みがまんま移るんだぜ? あいつの場合、そんなのをいくつも請け負ってんだ。今は、腕を切断するくらいの激痛が間髪いれずに走ってる状態じゃねえかな?」
空呈の顔からサッと笑みが消えた。
「大丈夫なんですか? 彼」
「知らねえよ。本人は平気だっつってるけど、かなり痛いはずだぜ?」
***
彼らの心配をよそに、泰明は部屋へ戻ったと見せかけてフラリと外へ出かけて行った。行き先は、四キロほど離れた場所の繁華街にある酒場だ。
酒場には荒くれ者らがたむろしている。酒を運ぶ美女にちょっかいを出す者の下品な笑いと、陽気なオルガンの音と、グラスを合わせる音と……すべてが無秩序な雑音でありながら、ひとつの世界を作り上げていた。
それを破るような沈黙を生み出したのは泰明だ。何かをしたわけではない。ただ足を踏み入れただけだ。
世を蹂躙してなお枯らしてしまうような絶望と、一切のしがらみを消し去るような至福——賛美の言葉のかぎりを尽くしても語りきれない美貌に、誰もが唖然とした。息をのみ、立ち尽くし、オルガンさえも寝静まった。
泰明はその様子を少し怪訝そうに見やったものの、さほど気にとめず、目的のテーブルに向かってまっすぐ進んだ。先には一人で酒を飲む男がいる。亜麻色の髪と紺青色の瞳。イスに腰かけていても背が高いと分かる彼は、そばで足を止めた泰明をゆっくり見上げた。