03【サンドライトとグランスウォール】その参
竹神を祀る者とは、杉沢英路という法力師だった。年は三十あちこち。特筆するところのない平々凡々な容姿である。だが人は見た目ではない。法力師としての腕前やその他がよほど確かなのだろう。竹神は信頼しきっている眼差しで、男の顔を見るなりこう告げた。
「神界にある者は、地上の者を滅そうとしています」
あまりのことに英路も朔撚も愕然とした。竹神は申し訳なさそうにして朔撚に頭を下げた。
「飢饉から救うというのは建前で、実は、それを阻止する術がないものか英路と相談がしたくて降りたのです。申し訳ありません」
「まさか、この大飢饉も神界の者が招いた災厄だと言うのか」
「そうです。愚かな民を見るに耐えなくなったとかで」
「愚かなばかりではない。あの村の娘を見ただろう」
「ええ。だからこそ私はこうして来たのです。どうにかして彼らを説得できないものでしょうか」
朔撚は英路とともに唸った。そして英路が言った。
「神界を相手に我々ごときが何を言っても無駄であろう」
竹神はため息ついた。
「私なら、それなりの地位を得ています。説得するのは大御神だけでいいのです」
「一番上ではないか」
朔撚は神界に精通した二人の会話を聞き興味をそそられたが、質問は控えた。今はそれどころではない。この世界の民が滅ぶかどうかの瀬戸際だ。
堕ちたことを嘆くこともあったが、善良な民も見てきた。グラン・シールでの自分を救えなかった分まで、彼らを救いたいと思ったのだ。
「俺がしてみよう」
朔撚は言って、立ち上がった。英路と竹神は、ぎょっとして見上げた。
「どうやって」
「とにかく乗り込んでみる」
「そのようなこと、できるはずがありません。できたとしてもただではすみませんよ」
「できるとも」
断言した朔撚の目はみるまに黄金に輝き、髪は象牙色に染まった。その様子に竹神と英路は畏怖した。
「お、おぬし! 人ではないのか!?」
英路の言い様に、朔撚は苦笑した。「そういえば昔は狼だったな」と。
朔撚は神界へ上がった。本来なら神格を得た霊魂でなければ行くことのできない世界へ、肉体を持って上がったのだ。
この驚くべき行動に神界の者は動揺した。あまりに異例なことなので、普段は姿を見せぬ大御神も奥間より出てきた。大御神は後光を背負った美しい女である。
「地上より参られた者よ。神界に肉体を持ってくるとは、いかなる事情でも許されることではないぞ。肉体のある場所は穢れておる。ゆえに身体も穢れておる。汝は穢れを神界に持ち込んだのじゃ。許すわけにはいかぬ」
「では、いいようにするがいい。しかし地上の者を抹殺することは決して認めぬ。おまえたちがそれをするなら俺は抗う」
「愚か者を救ったところで益にはならぬぞ」
「いつか愚かではなくなる。見ているがいい」
大御神は訝しげに朔撚を眺めた。地上に生きていることは確かなはずだが、目は人ならぬ者の色をしている。それが不思議でしかたなかったのだ。
もしや過去に神界にいた者だろうかと勘ぐってもみた。だがほとんど創成期から存在している大御神がいくら記憶を掘り返してみても、まったく心当たりがなかった。
(我の知識がおよばぬところの者だろうか)
大御神は悩んだ末「よかろう」と言って、一枚の札を差し出した。和紙の短冊に呪文が連ねられたものである。
「これは来世、汝を畜生へ落とす。神界を穢した罪はそれで償うがよい。さすれば我らは地上に手を出さぬ」
朔撚は札を受け取ると、穏やかに笑んだ。
「感謝する、大御神——あなたに幸あらんことを」
こうして朔撚は人としての短い一生を終えると、畜生に転生した。種は狼。
彼はおかしくて笑った。
銀の毛並みは美しく、黄金の瞳は輝き、身体は通常の狼の二倍ある。勝手知ったる姿だ。ひとつ違いをあげるなら霊体ではないことだが、さして問題にはならない。いや、むしろ喜びだったかもしれない。
「もう一度やり直せる」
そんな希望がわいたからだ。
荒野を駆ける銀狼は、群れをなさない一匹狼だった。狩りをせず、水と果実だけで命をつないだ。森に迷う者の道しるべとなり、山で遭難する者を助け、傷を負った動物たちの世話をする——銀狼はやがて、地上の民から神として敬われるようになった。
彼は獣でありながら高潔さを失わず、美しく、たくましかった。
これを上から見ていた大御神は、
「なんとしたことだ。あれは落とすべきではなかった」
と嘆いた。
その後悔は、銀狼の魂を上へいざなった。命尽きるころ、静かに眠った銀狼は人の形を成して、再びグラン・シールの地へ戻ったのである。
***
あれから俺は何をしただろうかと、燈月は記憶を探ってみた。が、なにも見出すことはできなかった。地上で得たものも台無しにしてしまうほど、ただラズヴェルトを妬ましく思っていた自分しか浮かばないのだ。
どうして、あまたのものをあるがまま受け入れられなかったのか。なぜラズヴェルトの力になれなかったのか。なにゆえ大主教になる夢を捨て切れなかったのか。そんな問いだけが脳裏を駆け巡る。
燈月は苦笑した。
(俺は清廉潔白であるためにグランスウォールのそばにいたかった。それだけのために大主教になりたかったのだ)
恥じ入る目には涙が滲んだ。なにもかもが遅いからだ。グランスウォールが守った世界は滅びてしまった。取り返しはつかない。
(怠惰だった。俺も民も、みずからをみずからの力で高めようする本来のありかたを放棄していた。グランスウォールのそばにいれば簡単に清められたからだ。だが所詮は応急処置。離れてしまえば魂はすぐに穢れた)
真の清らかさとは結局のところ己の努力の積み重ねでしか定着しないのだ。しかし、そう悟った時は間に合わなかった。
世界が滅亡した本当の訳など燈月は知らない。だが自分が愚かだったことはよく覚えているのだ。それがグランスウォールを追いつめたのではないかとさえ思っている。
とはいえ泰善の言うようにそれが驕りだとしたら、界王が世界を閉じた理由は想像もつかない。
「なぜ世界は滅びる」
泰善に尋ねるのは筋違いだろうと感じながらも、燈月は問うた。そうせずにいられなかったのだ。だが答えられはしないだろう。偉そうなことを言っても一介の封術師にしかすぎないのだから。
案の定、泰善は何も言わず静かに立ち去った。
燈月はうなだれ、かすかなため息とともに呟いた。
「グランスウォール……あなたは神界にあるのか?」