01【サンドライトとグランスウォール】その壱
「闇王たる者」と言われた帝人だが、闇を制御する力を得たのは昨今だ。そう、ほんの二千年前である。
帝人の齢は五二六三。そのうち無天位者だった時代が二六〇年ほどで、天位者となってからも二十位を得るまで特にこれといった称号もなかった。つまり闇王という地位は二十位とともに授かったのだ。
帝人にはそれが良いことか悪いことか分からない。闇王の称号を得ると同時に失ったものがあるからだ。
それは前世から引き継いだ力——透視能力である。
透視能力とひと口に言っても、働きはいくつかに分かれる。いわゆる千里眼的なものから、人の思考を読むものまでだ。
帝人の場合は究極の後者である。遠くで起きていることなどはさっぱり分からないが、近隣にいる人の意識は勝手に見えるし聞こえる。
相手が想像するものは実在しているかのように目に映り、心の声は会話をするかのように聞こえ、無意識下にある事柄は囁きのように感じるのだ。
脅威ではあるが慣れてしまえば便利な力だった。帝人は人に騙されることもない代わり誰かを信じることもなかったが、すべてを許すことができた。
人はみな善と悪からできており、誰もがその根底では己の内から悪を追い出したいと願っている。それが手に取るように分かるあいだは憎しみなどわかなかった。
だが今は分からない。すべては過去なのだ。遠くても近くても、あらゆることは過去に葬り去られる。
そんなことを考えていたものだから、帝人はいまさらのように滅び去った故郷の最後を思い出してしまった。
***
旧天上界。
そこにはヒースとアンバーがいた。金髪で背が高くハンサムなヒース。黒髪に黒目、一見して南国育ちだとわかる風貌のアンバー。
ヒースは鍛治師で、アンバーはその見習いで。
その日もいつものように他愛もない話をして笑っていた。
するとほどなくサンドライトがやって来て、「西は落ちた」と告げた。
サンドライトは旧天上界の核だった。つまり唯一絶対神である。プラチナの髪とエメラルドグリーンの瞳をした美少年で、心のありようも美しい奇特な存在。
当時キール・マークレイと名乗っていた帝人が「神とはこんなに美しいものなのか」と感心したほどだ。
それからヒースとアンバーは消息を絶った。
数日後、帰って来た二人はもう人ではなかった。ヒースは剣、アンバーは盾へと変化してしまっていた。
当時の鍛治師は魂を焼くことができた。実力のある者にかぎってだが、人の魂を焼いて最強の武器と防具を創造できたのだ。
ヒースは友の魂を焼き最強の盾を作った。ついで自分の魂をも焼き、最強の剣を作った。そうしてキールのもとへ戻って来たのだ。
キールは剣と盾をサンドライトに託した。
世界は紅蓮の炎と黒い煙に覆われている。滅亡へと突き進む中、最強の剣と盾はサンドライトの力になってくれるはずだと信じたからだ。
「これで身を守ってくれ」
サンドライトは悲痛に顔をゆがませながら受け取った。
「二人の友情を無駄にはしない」
だが世界は終わってしまった。
衝撃的な大地震が起こったあと、周りが急に暗くなった。目を凝らして見ると、眼下には壊れ行く世界があった。
恐ろしい呻き声と悲鳴。聴覚が麻痺しそうなほどの轟音と軋む音。天上界は血を流しているように見えた。焼き尽くされ、炭化してボロボロと崩れてゆく山脈と大地。濁りきった川が反乱し、逃れた先の暗黒の海に没してゆく。
サンドライトはキールの左肩に顔を寄せ、泣いた。キールはただただ、滅び去ろうとする故郷をみつめていた。
〝閉じるぞ〟
どこからか声がした。耳に心地良い声だ。キールもサンドライトもその声の主を知っていた。
界王。
万物の超越者に彼らの故郷は引導を渡されたのだ。
***
「サンドライトはどうしているだろう」
泰善の部屋から自室に戻った帝人は、ふと考えた。おそらく神界の神々に祀られ心穏やかに過ごしているはずだと思うのだが、確信はない。たとえ確信を得られたところで、納得のいくものでもない。
(私だけが新世界へ転生を果たし、サンドライトが眠ったままであるのは、あまりにも理不尽だ。最後の最後まで戦った。サンドライトは諦めなかった。核としての役割を果たした。それなのに……かといって界王に申し立てすることは叶わぬ。誰も近づけぬ始点界にいるのなら、なおさら)
帝人は天井を仰ぎ見た。どこからか界王が自分を見ているのなら、このやるせない気持ちを察してほしいと思うのだ。
「私はサンドライトに見せてやりたい。この新しい世界を。理想郷を共に目指して行きたい。もしご慈悲をくださるのなら、どうか叶えてください。彼は一度もあなたを裏切りませんでした。それはよくご存知のはずです」
***
頬杖ついてうたた寝していた泰善は、不意に目を開けた。
「……そう言われてもな」
彼はイスから立ち上がり、グラスに葡萄酒を注いでひと口飲んだ。
「サンドライトは魔族じゃない」
それからグラスをテーブルに置くと、部屋を出て地下牢へ向かった。神族代表の燈月と話をするためだ。
「元気か?」
声をかけられた燈月は、不満そうな顔を向けた。両手を鉄鎖につながれ、床に膝をついた姿勢で長い時を過ごしている。そんな男にかける言葉はもっとほかにあるだろうと思ったのだ。
だが、そうあっても病気にもならず清潔さを保っていられるのは、ひとえに天位のおかげである。天位を授かった者は不老になるだけではなく、口にしたものをすべてエネルギー転換するため排泄をしない。唯一の老廃物である汗も美しいものだ。菌を繁殖させることもなく、衣服にシミも作らない。
「情勢はどうなっている。均衡は実現しそうか?」
燈月の質問に、泰善は苦笑した。
「悠崔がなかなか上達しないので苦しいところだ。魔族が神族の手を借りる気になってくれればいいのだが」
「そんな気になるはずがない。神族の手を借りるくらいなら滅びたほうがましだと考えるだろう」
「どうしてそう仲が悪いのか、俺には理解できん。同じ世界に暮らしているんだから、もう少し助け合おうという気になってもいいだろう」
「究極の理想だな。現実的ではない」
「鷹塚の人間は種族の垣根をとうに越えている。天位者であるおまえ達が実現できないというのは、甘えにしか聞こえん」
燈月は唸った。泰善の言うことがもっともであるからだ。しかし……
「それは、きれいごとと言うものだ。力の根源が異なる者というのは脅威となる。簡単に心を許し合えるものではない」
「では何があれば脅威と考えず、心を許し合えるのだ」
「——天位一、その神が現れるかどうかだ。何族であろうと天位一位の神には逆らえん。だがそうなると、一位を獲得した神の種族が全権を握ることになるだろう」
泰善は肩で大きく息を吐いた。欲しい答えを燈月の口から得られなかったからだ。
「一位を授かるような神ともなれば、それこそ種族の垣根を越えている必要がある。互いが互いの信頼を得ようと努力することこそ大切だ。そう思わないのか」
「口で言うのはたやすい。だがそれさえも界王の一存にかかっている。一位が定まる時は界王がこの世の方向性を示す時。俺たちには真の正しさを見極めることなどできない。従うよりほかないのだ」
「間違っていてもいいから、少しは逆らったらどうだ」
燈月は目を丸め鳥肌を立てた。
「そんな恐ろしいことを、よく平然と言えるな。信じられん。おまえは界王という存在をどのように考えているのだ」
泰善は「ふむ」と顎をつまんだ。
「崇める必要はない。人々が互いを高め合い、理想郷で暮らせば良い。ただそう考えているだけの夢想家だ」
燈月は情けない顔をして泰善を眺めた。せっかく美しいのに残念な男だと思ったのだ。
「おまえは理解が浅い。天位を得ろ。神の英知によって界王への理解が深まれば、そんなことは言えなくなる」
「では、おまえはどう理解しているのだ」
「おおかた、ほかの天位者と変わらん。界王とはこの天上界を創造した大いなる存在。すなわち究極だ。我々は界王の愛によって生かされているのだ」
「壊すこともある」
思わぬひと言に、燈月の表情は凍りついた。彼にはその言葉に相当する苦い過去がある。理性的に受け流せるものではなかった。
無天位者に対してムキになるのは心外だと思いながらも、燈月は静かな怒りを込めて低く唸った。
「壊すのは界王ではない。世界が壊れるのは、そこに住まう者が愚かだからだ」
泰善のほうは冷静だった。軽く首を横に振る仕草も、次にもれる声も、激情とは無縁の静けさだった。
「違うな。有限世界は愚者が賢者となるために存在している。善に愛を学び、悪に痛みを教わる場所だ。この世は学び舎なのだ。人が愚かであればあるほど必要となってくる」
燈月は訝しげに泰善を見つめた。いま彼が綴ったのは、まさしく英知のひとつだったからだ。
「悟っているではないか。不思議だな。どうして天位を得ていない」
泰善は苦虫を噛み潰すような表情で、かすかに笑みを浮かべた。これは答えるつもりはなさそうだと察した燈月は、英知を外して主観を述べた。
「おまえには信じられないだろうが、俺は世界の崩壊を体験している。それだから言えるのだ。人々が愚かでなければ……この俺が愚かでなければ、世界を救えたのに、と」
「それも違う」
「なんだと?」
「人に世界を滅ぼすだけの力はない。無論おまえにも。世界を救えたかもしれないと思うのは驕りだ」
燈月は唖然としてから失笑した。
「はっ……言ってくれるな。だがまあ、そのとおりだ」
語尾は力を失っていた。思い出したくない過去世へと意識が向き、虚しさに襲われたのである。
(確かに、あの世界を動かしていたのはグランスウォールとラズヴェルトだ。俺が立ち入る隙など、少しもなかった)