26.神が見た夢
理想的な昇華のためには、個々の精進だけでは足りない。上位の神が下位の神を導いてやることも大切である。基本的には身近な者同士で切磋琢磨し、天位の近い者が協力して上げてやることが望ましい。が、時には天位十以上、あるいは五位以上の最上位が直々に赴いて指導することも必要だ。
その日も、最高位である帝人は神々の指針としての義務を果たすべく、各居住区へ赴くための身支度を整えていた。天位ごとの居住区は相変わらず存在するが、天上界の浄化が進んだことと、結晶石が戻ったことで、守護石がなくても往来に不自由しなくなった。そのため、昨今では頻繁に行き来することもある。これは大きな進歩と言えるだろう。
「あ、巡業ですか?」
玄関先でバッタリ会った寅瞳が声をかけた。帝人は微笑んでうなずいた。
「一緒に来るか?」
「ええ、是非」
二人は大講堂前で馬車に乗り込み、下位居住区へ向かって出発した。馬車に乗っている時の寅瞳は楽しげだ。何も気にせず自由に出かけられるのが嬉しいのである。
「今日はどちらまで?」
「第五居住区だ。底上げをしないとな」
「今、最下位は何位でしたっけ?」
「三千四百四十一位だ」
「うわあ、だいぶ上がりましたね」
寅瞳は感動したが、帝人はため息ついた。
「ひとえに界王の死の印章のおかげだ。しかし願わくば、年内に全員一千位以上を目指したい」
寅瞳は目を丸めた。
「それはいくらなんでも、難しいんじゃないですか?」
「いや、それでも遅いくらいだ。天上界の浄化は加速している。昇華に取りこぼしがあっては目的を達成できないし、乗り遅れた者がどうなるかも分からない。私の予測では、最低でも全ての神が五百位以上を手に入れる必要がある。だが天位は上位に向かえば向かうほど得難くなる。短期間で一千位に達せないようでは、昇華までに五百位を得るのは不可能だ」
寅瞳は深刻な表情で息を飲んだ。
「……予測、とおっしゃいましたけど、五百位以上でいけそうですか?」
帝人はやや返答に詰まって、寅瞳の顔を見つめた。胸の内を告げて不安にさせはしまいかと気に病んだのだ。しかしすでに誤魔化しのきかない世である。帝人をしっかりと見据える寅瞳の瞳がそれを教えていた。
帝人は膝の上で拳を握った。
「欲を言えば——三百位だ。五百位の人数にもよるが、それでは成功の確率が格段に下がる」
「自信が持てるのは三百位以上ってことですね」
帝人はうなずいた。
「私から見ても界王は遠い。奇跡の鍵をもってしても、結果は昇華の精度に左右される」
透視能力なくしても他者の内面が知れる世の中になってから、もともと不可視で計れなかった界王の内なるものも視えるようになり、帝人の苦悩は増していた。それによって衝撃的な事実を知るに至ったからである。
当時の神の目測が完全に誤りだということは、すでに承知していた。ここへ至るまで神に時間があったように、界王にも時間があったのだ。向上する余地があれば当然、向上するだろう。しかしすでに限界に近いほど崇高であったから、伸び代はしれていると思っていた。ゆえに昇華に奇跡の力を加えれば悲願達成は可能だと考えていた。だがそれも誤りだったのだ。
帝人は改めて寅瞳を見つめた。かつてこの目を通して界王を見ていたという記憶に、心がざわめいた。
「本当に、私たちは愚かだったな」
帝人は呟くように言った。寅瞳は唇を強く結んだ。
「あの時は確かに届くと思っていた。いや、あの時に今のレベルなら昇華するだけで届いただろう。だがそこから無償の愛に生き、ありとあらゆる自己犠牲を払った界王の魂は、さらなる向上を遂げた。もともと究極に浄化されていたものが、それを超えた高みに到達したのだ。もうどう足掻いても追いつけない。我々には界王と同じ質量の愛を誰かに与える器もなく、あれほどの自己犠牲も払えない。私は……己の未熟さが憎らしくて仕方がない」
帝人の頬に涙が伝うのを見て、寅瞳も泣いた。
大講堂最上階の一室で、穏やかな顔をして椅子に腰掛けている泰善の姿が思い浮かんだ。部屋を訪ねるたび見る姿だが、日毎に眩しく感じられるようになり、寅瞳でも直視することが困難になりつつある。
寅瞳は馬車の窓から外を見て、空に祈った。
(貴方の愛が無限であるように、どうか私たちの愛も無限でありますように。そして私たちの愛が貴方に返る時は、御魂の近くにあらんことを……)
***
目的地に着いた二人は、一千位に満たない神々の前で教えを説いた。その群衆の中に一人、寅瞳を見て静かに泣いている男がいた。第七回理想郷創立祭のおり、第五居住区へ赴いた寅瞳の手から守護石を奪った男である。彼の目から滲み出る後悔は、寅瞳の胸に痛いほど刺さった。
あの日は、六億年の時を経て再び界王が天上界へ現れた特別な日だった。誤った道を歩き続けていた神々の粛正の日と言ってもいい。
界王は、可能な限りの犠牲を払って理想郷の維持を計った。停止の理の崩壊を望まない神の意思を守る目的もあったが、現時点での崩壊は完全な昇華を成し得ない危険がはらんでいたためでもあった。
そして理想郷確立のため、すでに万物の死を請け負って命を捧げている界王の更なる犠牲は、神々との魂の差を決定的にした。もともと遥かに遠い存在が、仰ぎ見ることすら叶わぬほど完全に離れてしまったのだ。
その決別を一番恐れていたのは界王だろう。だが界王は神々のためにためらわなかった。常に苦痛と悲哀を呑み込んで愛の名の下に消化し続けてきた者に、躊躇などあるわけがなかった。
そして今、昇華の道を歩むと決めたのなら、完璧な昇華を目指せるようにと、天上界を維持しつつ見守っている。誰一人、昇華からこぼれぬように。
男にも、それが分かっているようだった。男は界王に殴り飛ばされたが、あれは痛みも怪我も負わない状況下だったからであり、流転の世なら別の手段で戒められただろう。寅瞳が神々の指針であるなら、男にとっても指針である。その指針を傷つけることは己を傷つけるのと同じだ。界王は寅瞳が傷つくことも、男が傷つくことも、等しく望んでいない。それゆえの戒めだったと。
神王に注がれる愛と同じ質量の愛が自分にも注がれているのだと気付いた瞬間に、男は己の愚かさを知り、恥を知ったのだ。
寅瞳は帝人が説教を行っている壇上から降り、男のもとへ歩み寄った。男が驚いて片膝ついたので、寅瞳も膝を折った。
「二千九百五十六位……よく、ここまで頑張りましたね」
寅瞳が労うと、男は深く頭を下げた。
「は、はいっ、有難うございます!」
「ですが、修行はまだまだこれからです。貴方と共に無事昇華を迎えられる日が来ることを、心より願っています」
男は顔を上げ、寅瞳を見て目を潤ませ、また頭を下げた。
「……はいっ」
帰り道、男との経緯を帝人に聞かれて答えると、帝人は目を丸くして何度か瞬いた。
「そんなことがあったのか」
「ええ、すみません。なんだかあの後の騒動で話しそびれてしまって。というか、怒られそうで話しにくかったんですけど」
「当たり前だ。あの時分、下界も同然だった第五居住区へ一人で行くなんて。身の安全の保障もないうえに、人に罪を犯させる危険だってあった。現に……」
「あーっ、はいはい! 分かっています。本当に猛反省しています!」
帝人はまだ言い足りない顔で腕組みし、渋々口をつぐんだ。寅瞳はそれを見てちょっとおかしそうに笑った。
「でも、それがあったからこそ、あの人の魂も急速に成長できたんだと思います」
帝人は呆れたように肩をすくめた。
「ああ。界王に殴られるなど、天地がひっくり返るくらいの衝撃だ。心が入れ替わらないほうがどうかしている」
それから寅瞳を見つめて微笑んだ。
「あの男は、貴重な体験をしたな」
寅瞳もそれに応えて微笑んだ。
「ええ」
***
大講堂へ戻った寅瞳は帝人と別れ、シュウヤの部屋を訪ねた。泰善は窓辺の椅子に腰掛けていて、傍らにシュウヤが立っている。眩しいのは窓の外が明るいからではない。
寅瞳は少し目を細めながら、二人に歩み寄った。泰善はそんな寅瞳の手を取った。
「いいことがあったようだな」
「はい。おかげさまで」
微笑む寅瞳を見つめ、泰善は遠い昔に思いを馳せた。寅瞳が地上で幸福を感じられる世になったことを喜ぶ反面、自分の手から離れていく寂しさを噛みしめる。
泰善は無論、神々の真の目的を知っている。だが当初からそれが限りなく不可能であることも知っていた。どれほど愛情を注いでも、そう簡単に浄化できないほど、神の魂は穢れていたからだ。そしてここへ来てようやく、心から己の魂の大きさと美しさを誇りに思って遜色ない輝きを得た。喜ばしいことであるが、あまりにも時間がかかりすぎている。ゆえに、それ以上を望むのは難しい。そもそも神の幸福は、彼らの限界点までの魂の浄化と、昇華による心の平穏である。初めからそれ以上などない。神は神自らのためにあり、至高の輝きを目指して生きるよう定められた魂なのだ。界王に出逢ったからといって、覆るものではない。
ただそんな宿命にあっても、泰善が幸福な気持ちでいられるのは、神々が自分と生きる未来を思い描いてくれたという事実があるからだ。それがあるだけで、これまでの犠牲が全て報われる。愛は充分に返って来たと思えるのだ。
「寅瞳」
「はい?」
「お前たちを見ていると、自分のしてきたことに大きな意義があったという確信が持てる。だから迷うことはない。悲しむ必要もない。神々の愛はすでに受け取った。本来得ることのないものを得たのだ。俺はもう満たされている」
寅瞳はグッと息を止めて、溢れそうになる涙をこらえた。
「……ダメですよ、もっと欲張ってくれないと」
しかし泰善は首を横へ振った。
「お前たちの目的は昇華することのみにある。その先の望みは、お前たちを苦しめるだけだ。後悔を残すような昇華をして欲しくない。だから俺のことは考えるな」
寅瞳は拳を握って奥歯を噛んだ。
「ダメですよ! 私はっ……そんなことが聞きたくてここへ来たんじゃありません!」
「寅瞳」
「絶対に、絶対に諦めたりしませんから!」
寅瞳は泰善の手を払って部屋を飛び出した。泰善は椅子から少し腰を浮かせたが、再び腰掛けてため息ついた。シュウヤはその肩に手を置いた。
「あんまり悲しいこと言うなよ。大体、またお前のことを考えないで何か成そうなんてしたら、あいつらはまた間違う」
「昇華に間違いなどない」
「たとえそうでも、希望を持たせてやれよ」
「叶いそうな希望ならな」
「おいおい」
「昇華の先に何かを求めて得られなかったとしたら、待っているのは失望だ。永遠の平穏をもたらすはずの昇華で、そんなことになって欲しくない」
「まあ分かるけど、あいつらは足掻きたいんだ。だから足掻かせてやれよ。ていうか、お前のために何の努力もしなかったら、それこそ後悔するんじゃないか?」
結局どちらを選んでも俺のせいで後悔するんじゃないか、という顔で泰善がシュウヤを見ると、シュウヤは困ったように笑って泰善を抱きしめた。
「お前のために精一杯やったことなら、どんな結果になっても後悔しないさ」
「……そうだろうか」
「ああ。信じてやれよ」
泰善はシュウヤの腕の中で目を閉じた。レモングラスの草原の真ん中に立ち上る黄金の螺旋がまぶたに浮かんだ。あのまま何の形も成すことはない理の核。神々がこの世界のどこかで個の輝きを放ちながら存在する世を想像し、描くことなく終わった残骸。あれはきっと未来永劫、胸の奥を突き刺す棘となって残るのだろうと思い、泰善はそっと泣いた。