25.愛は顕現す
七万四千八百六十九年。
それは何十億年と生きて来た神々にとって、矢のごとく過ぎ去る年月である。殊に限られている時間の中で、定まっている目標に向かい、すべての者が心をひとつにして歩んでいると、日々の思い出は瞬く間に光の中へ溶けていく。
それぞれがそれぞれの夢を追いかけていた時代は終わったのだ。多くの者が様々な人生を経験し、大きな夢を成就した者もいるだろう。しかし神が目指すべきは、それとは比較にならないほど尊く果てしない夢である。今こそ力をひとつにして一斉に飛び立たねば、叶えられはしない。
その夢を見ている神の一人、鷹塚永治は、前世の仲間とお茶をしながら空を見上げた。まばゆいほどの青い空は、穏やかで澄みきっている。いつの日だったか「これを美しいと感じる心は神性を宿す人間の特権なんだって」と光治が言った。育ての親の博士がそう教えてくれたのだと。神となれば、地球で見るよりも更に美しい空を見上げることができるだろう、とも。
当時の永治は半信半疑だった。だがそれは本当だった。地球人でいる時は考えもしなかったし想像もできなかった現実が、天上界にはあった。界王に近づけば近づくほど、世界はより鮮明に、より美しくなる。振り返ってみれば、あれほど綺麗だと思っていた地球世界の木々や花々も、ここにある自然を見た後では、モノクロも同然だ。
「ラウ・コードは、どうして知ることができたんだろうな」
永治はふと呟いた。横で紅茶を飲みかけていた光治がややむせた。
「ぐっ、ケホケホッ。どうしたの、急に」
「いや、不意に思い出したんだ。神になればもっと美しい空が見られる、と言っていたってことを」
「ああ——博士はね、時々不思議なことを言う人だったよ。科学者なのに、非科学的なことを言う人だった。研究してて、何かを見たか見つけたかしたんじゃないかな?」
「人間が神性を宿す存在だってこともか?」
「うん。主に生物が専門だったしね。シーランのことに関しては、本当に右に出る者はいないってくらい詳しかった。シーランの兄弟姉妹に見られる関係は、魂の問題だってことも当ててたし」
「……ほとんどのシーランの魂は、こっちへ来てひとつになったんだろう?」
「そうみたいだね。一人一人確かめたことはないけど、ルークとマデリーンは魂がひとつになって転生してた」
永治はわずかに目を丸めた。
「会ったのか?」
「うん。女の子だったから、最初わからなかったんだけど」
すると唐市が割って入った。
「女の子お!? そういやアイツ、泣き虫だったしな」
「え? それ関係なくない?」
「あんだろ? 男であんなメソメソしてたら舐められる。でも女なら慰めてやろーって気になるじゃん。だから女で正解」
「それは偏見じゃないかな」
「そうか? でもちょっぴり残念だな。俺なら男でも慰めてやんのに」
「なーに言ってんの、男じゃなきゃ慰めてやらないくせに。っていうかね、あなたが言うとやらしいのよ。口を慎みなさい」
梓は横槍を入れながら、テーブルの下で唐市の脛を蹴った。
「いって!」
光治はそれを呆れ顔で眺めた。
「こんなので昇華できるのかなあ」
「おあっ! 俺を見て言うなよう!」
「だって、なんか不安。失敗したら将軍が可哀想」
「……可哀想ってタマかよ」
唐市が沈痛な面持ちで頭を抱える一方で、光治は表情を明るくした。
「あれ? 思い出したんだ」
「あ、ああ、まあ」
「どれくらい思い出したの?」
「超絶厳しい鬼将軍で、超絶美人だったってとこまで」
「アハハ、じゃあほとんど思い出したんだね。でも特別厳しかったのは精霊だったからで、本体は激甘なくらい優しいよ」
「うえっ、想像つかねえ」
「する必要ないよ」
「あ?」
「もうすぐ来るよ」
「——はあ!?」
唐市は驚きのあまり椅子を倒して立ち上がった。それを周囲の友は冷静に見つめた。
「相っ変わらず落ち着きねえな」
束尚が新聞を眺めながら言い、成々はなんとなく鏡を見て身だしなみを整えはじめた。梓はジュースを飲みつつ、時々永治とイチャイチャしている。
「お、おまえら、みんな知ってたな!?」
「俺が頼んだからな。昇華の前に会っておきたいってよ」
「束尚! てめえっ……俺の心の準備っ!」
唐市が一人で騒ぎ立てていると、やや遠くから声が上がった。
「おーい!」
視線を送ると、片腕を上げて手を振っているシュウヤの姿が見えた。そのすぐ後ろに見える人影が将軍こと界王、飛鳥泰善である。シュウヤは唐市らのほうへ近づくと、泰善に前へ出るようさりげなく促した。その瞬間——唐市はあんぐりと口を開け、束尚は新聞を落とし、梓は瞬きも忘れたように惚け、成々は硬直した。
その男は紛うことなき思い出の中の将軍だが、髪の色、瞳の輝き、ありとあらゆるものが段違いに素晴らしく、光治の言う通り、優しく穏やかな表情をしている。
太陽より眩しく、鮮やかな景色より華やかで、神よりも神々しい。これこそが理の支配者であり、万物の創造主であると疑いの余地もない妙なる姿だ。なによりも、内側から溢れ出る慈愛の心が、手に取るように感じられる。この世にこれより崇高なものはなく、これより深い愛はない。それがハッキリと分かるのだ。
鷹塚の兄弟は席を離れてお辞儀をし、他四名は慌てて片膝ついた。
「ご足労いただき、申し訳ございません」
永治が言うと、泰善は軽く手を上げた。
「構わん」
そして唐市、梓、束尚、成々をそれぞれ見つめた。その天位と、魂の輝きを。
「よく精進したな。さすが元グラウコスの軍人だ」
泰善の言葉に四人は至極恐縮し、深く頭を下げた。
「は、はい! 有難うございます!」
そんな四人の様子に少し苦笑した泰善を見て、光治は唐市の背を叩いた。
「緊張しすぎだよ。気持ちは分かるけど、将軍そういうの好きじゃないから、もうちょっと普通にしなよ」
「んなっ!? 無茶言うなよう!」
「そうよ、貴方たちほど天位高くないから無理よ」
梓が唐市をフォローしたが、光治は肩をすくめた。
「天位四でもそんな変わらないよ。たぶん三位になっても二位になっても、すっごい緊張すると思う。みんなが昇華に向けて心をひとつにしてから、界王の存在ってますます大きくなったし、見ただけでどれだけ凄いのか本当によく分かるようになったから、余計に気後れしちゃうし。でも、俺はそんなことで距離作って悲しませたくないんだ」
頭を下げていた四人は顔を上げ、目をしばたたかせながら光治の顔を見た。すると光治はニコッと笑った。光治は地球において特別だった。だからそのつらさを分かっているのだ。特別であるがゆえの疎外感、特別であるがための孤独を。
だがしかし、と束尚は眉間にしわ寄せた。
「言いたいことは分かった。頭でも理解した。けどな、無理なもんは無理だ。少なくとも今はな」
「なんで?」
「足に力が入らねえ」
光治は目を丸めた。
「え?」
「魂レベルで萎縮しちまってる。本当は両膝ついて額突きたいくらいだ。今日のところはこれで勘弁してくれ」
「ええ〜っ!?」
驚いて他を見ると、唐市と梓と成々も同意見の意思をうなずいて示している。
「そうなの!?」
そんな光治の肩に、永治が手を置いた。
「まあ、やっぱりそれなりに天位が影響している。仕方ない」
「そうなんだ」
光治はややガッカリしながら、泰善を見た。悲しませたのではないかと心配してのことだが、あまりに眩しくて、頻繁に瞬きをしてしまった。
神々の魂が向上し、昇華の時が迫るにつれて、真実は現実味を帯びていく。相対する者の姿も、自然の摂理も、何もかもが明るみになって、隠すものも隠れる場所も、すべて取り払われる。浄化が進んだ世界では体裁も建前も意味をなさず、素がさらけ出されるのだ。ゆえに界王を直視するのは難しい。
その魂は万物を照らす愛の根源で、究極の光を放つ究極の美である。界王がいなければ、神は未だ愛を知らずにいただろう。
光治は目を伏せた。まぶたを閉じてもまだ眩しいと感じた。
界王は与え切れぬほどの愛を与え、神は受け切れぬほどの愛を受け取った。それが今この世を輝かせている。一人一人の魂に触れ、昇華を促しているのだ。
だけどまだ早い。
光治は心の中で呟いた。目を覆うものがなくなって、界王の真の姿が表れるほどに、存在が遠いことを思い知らされる。昇華の果てに永遠の別れが来てしまったら、二度と彼のもとには行けなくなってしまう——そう信じられるほど、遠い。
光治はまぶたを上げた。泰善の側にはシュウヤがいる。最も界王に近いのは究極浄化を生命力の根源とする彼しかいない。つまり神は究極の神になるより他に、界王のもとにいる資格を得られないのだ。
「あんまり長居すると、こいつらの精神保ちそうもないみたいだから、そろそろ引き上げるぞ?」
シュウヤが断りを入れると、永治がうなずいた。
「すみません。今日は有難うございました」
泰善とシュウヤを見送った後、光治は永治の袖を引っ張った。
「兄さんは、つらくない?」
永治は苦笑した。
「眩しくて目がどうにかなりそうだ」
「アハハ、やっぱり」
「いやいや、立っていられるだけでも凄えよ、おまえらは」
束尚はやっと立ち上がって椅子に体を預けつつ言った。
「俺たち、あれと同じ次元で生きてこうとしてんの? 自信ねえなあ」
唐市はそのまま地面にへたりこんでぼやく。その横でホッと息をついた梓が、長いブロンドの髪をかきあげた。
「とりあえず天位上げるくらいしかできないわよ、ねえ?」
話を振られた成々は、やや引きつった笑みを浮かべた。
「えへへ、そうね。でもそれもキツイ……」
情けないこと言わないでよー、と光治は内心思って、フウッとため息ついた。
「それでも、やらなくちゃ」
光治の重いセリフに、一同はシンとなった。
魂はもう同じ方向を向いている。決まった未来へ進み始めた歩を止めることは許されない。前を見て行くしかないのだ。その愛のために——