24.盟約
帝人が神々の道を指し示した頃、空を見上げていた泰善は、視線を落とした。
神々が望みを果たすための世界を築いた。綻ぶことを知らぬほど完璧に。肉体の死をもって捻じ曲げた世界さえ、抗うことはできなかった。それは泰善が願いを真摯に受け止める以上に、神々の立てた誓いが本物だったのだ。
死に怯え、生きることに執着し、欲に惑わされ、道を大きく踏み外したとしても、信念は貫かれたのだ。
「……もう迷うことはない」
泰善がそう呟くと、左目に始点界の青が蘇った。天上界にいた泰明が瞬時に時空を越えて戻ったのだ。
神々が初めに指し示した道をゆくというなら、泰善は他にしなければならないことがある。それは始点界の創造だ。究極浄化により隔絶されているとはいえ、現始点界が大昇華に巻き込まれるのは必至である。ゆえに、影響を受けないこの場所から新たに創造する必要があるのだ。
自分だけなら問題ない。が、シュウヤが共にあるので、おざなりにはできない。
「唯一の救いとはよく言ったものだ」
と、泰善は自嘲の笑みを浮かべた。
シュウヤがいなければ、大昇華の後のことなど考える気力も湧かなかっただろうと思うからだ。ただ息をして存在するだけの毎日になど、何の価値もない。そんな世界で創造することほど虚しいことはない。だがシュウヤがいれば、造る意義を見出せる。それはとても貴重なことだ。
大空を描いて左目の光を宿し、海原を整えて右目の光を映し、愛の元に大地を紡ぐ——必要最小限のものしかない世界。
泰善は究極浄化の中にその世界を閉じ込めて、遠くの宇宙に浮かべた。そこから見える世界はない。星もない。シュウヤが望めば夜空に描くこともあるかもしれないが、今は始点界以外のものを創造する気分ではなかった。
***
突然泰明が消えたかと思ったら、浮かない顔で帰って来た泰善を見て、シュウヤもつられて浮かない顔をした。
「本体に戻るなら戻るって言っていけよ。心配しただろ?」
「悪い」
「どうしたんだ?」
泰善はシュウヤをじっと見つめた。これからの途方もない時へ道連れにするのかと思うと、少々胸が痛んだ。
「大昇華に備えて来た」
短い答えと表情から何事か悟ったシュウヤは、泰善を抱き寄せた。
「……そうか」
「申し訳ない」
「いいんだ。もう充分やったよ」
叶うことなら真の理想郷を築いて欲しいと願っていたシュウヤだが、泰善が自身を犠牲にするようなことになるのなら諦めて欲しいとも思っていたので、半分だけ安堵した。
「残された時間を、みんなと悔いのないように生きよう」
シュウヤの励ましに、泰善は小さく溜め息ついた。
「付き合わなくてもいいんだぞ?」
「え?」
「お前まで、俺と一緒に地獄へ落ちなくてもいい」
シュウヤは手に力を込めて泰善の肩をつかみ、体を少し離して顔を見据えた。
「何の冗談だ?」
「始点界という狭い世界で永遠に生き続けるのはつらいだろう。もし望むなら……」
「いい加減にしろ!」
シュウヤは腹の底から声を上げた。超越者たる界王に叱責の意を込めて怒鳴ることなど後にも先にもないだろうから相応の勇気もいったが、それを上回る感情がそこにはあった。
理想郷時代、泰善は「調査」と称して定期的にシュウヤを天上界へ送っていた。それが「ずっと始点界に籠りきりでは息が詰まるだろう」という配慮だったことをシュウヤは知っている。泰善は一度も言わなかったが、聞かなくても分かっていた。そしてシュウヤを通してしか天上界の様子を知ることのできない泰善の寂しさを、常に感じていた。決して表には出さなかったが、四六時中そばにいて、飽きることなく見つめていれば、心は知れる。どんな気持ちで今の台詞を吐いたのか、一瞬で悟れるほど、二人は共に過ごしたのだ。
だからこそ、シュウヤは怒った。
「俺は自分の宿命に不満を持ったことなんかない。地獄だろうが世界の果てだろうが、ずっと一緒だ。そう誓った」
熱くなるシュウヤの瞳を、泰善は静かに見つめた。
「……不思議だ」
ふと泰善の口から漏れる。思ってもみなかった返答に、シュウヤは目を点にした。
「はい?」
「お前はどこから来た? 心のどこかでお前のような存在を求めていたとしても、俺が真の超越者として目覚めてからは、自分のために何かを創造することなどできなくなっていた。一体なんの力が働いたんだ?」
「えっ……?」
困惑するシュウヤを置いて、泰善はあらゆる記憶と知識を脳内に巡らせた。だがシュウヤの生誕に関するものは見つかりそうもなかった。
「神は俺よりずっと後に発現したというだけで、その存在は別物だが似たようなものだろう。俺が作った場を利用して誕生した思念だ。思念は肥大し、やがて分裂し、個を意識する魂となった。しかしお前はそれとは別に発現した思念だ。神とは異なる。俺とも違う」
「ちょっ、ちょっと待て! なんで急にそんな話? てか今更?」
「分からないから単純に保留していたんだ。だが今、急激に疑問に思えてきた」
「ぎ、疑問に思ったら負けだ! 現に存在してるんだ! それでいいだろ? つーか、お前に分からないものは俺にだって分からないよ」
「しかしな」
「しかしもヘチマもない! とにかく!」
シュウヤは再びグッと泰善を抱き寄せた。
「俺はお前と別れる気なんてないからな!」
そこでバタンと音を立てて、けたたましく扉が開いた。
「おい、見つかったのかよ!」
飛び込んで来たのは沙石である。シュウヤに頼まれて、突然消えたという泰明を探していたのだ。
沙石はシュウヤと泰善を見て、すばやく身を翻した。
「くっそ! 取り込み中かよ! つか見つかったんなら先に報告しろよな! 人に捜索頼んどいて、イチャついてんじゃねえ!」
「悪い! 忘れてた! 後でなんか奢る!」
シュウヤが走り去る沙石の背に声を投げると、
「当たり前だ! バカヤロー!」
という返事が返った。
「相変わらず元気だな」
泰善が冷静に述べると、シュウヤは気の抜けた笑みを浮かべた。
***
神々の進むべき道が示されると、最下位に至る神々の心にも変化がもたらされた。この世に魂が現れた頃の記憶とともに、界王との盟約も思い出されたのだ。
世に発現せし時、神は巨大な無の空間に浮かぶ己の魂の大きさを誇らしく思った。外側の輝きは鈍いが、芯にある光の強さは比類ない。限りなく純粋に近い中心の輝きを外へ向けて増幅させていけば、最高の存在になれるという確信があった。しかしすぐに、同じ空間に偉大な存在があることに気が付いた。己が現れた空間そのものを創造した人物だ。
その者は絶大なる愛に満ちていて、神の中心にある輝きなど消し飛ばしてしまいそうなほど強烈に、一点の曇りもない光を放っている。神の魂は震えながら、その者に接触を試みた。しかし完全な浄化を果たしている清らかな魂には、近づくことすらできなかった。外側にある穢れが障害となって行けないのである。
そこで神は最も輝ける中心の魂を切り離し、その者のもとへ向かわせた。そして、中心の目を通して伝えられるその者の姿形に驚愕し、愛の深さに震えた。また全ての穢れを払うだけでは到底触れられるものではない、あまりにも尊い存在だと思い知った。ゆえに願った。
あの眩さに一歩でも近づきたい。あの素晴らしい御姿を少しでも見ていたい。その側にあっても恥じぬ己でいたい。
神はそれらの願望を叶えるために、人となって壮絶な修行の旅に出る決意をした。どのようにすれば魂を磨き、より清らかにし、輝きを増せるのか知っていたからだ。が、実行に移す術は持っていなかった。穢れの多い始めの魂は、修行を可能にするための神聖な力に欠けていたのだ。
すると神の意を汲んだかの者——界王が手を差し伸べた。
「魂を昇華するまで磨き、清めることを願うなら、力を貸そう。ただし、貫徹する覚悟でなければ与えてやることはできない。中途半端な気持ちでは、神を支える小さき者たちの命が無駄に犠牲となる」
小さき者とは、草木など自然界を形成するのに必要な生命の魂のことである。神とは違う、界王の力によって生み出された魂だ。
無論、神の意志は固く、是も非もなく承諾した。そして界王は神が必要としているものを完全な形で世に現した。
修行の場であるから、もっと地獄のような場所でも文句はなかった。しかし界王の描く世界は美しく、神への愛に溢れていた。
とはいえ始めは誰も未熟であるから、そんな美しい世界を台無しにしてしまうこともあった。が、界王は何度でも作り直し、根気よく神の修行の手助けをした。そこに見返りはなかった。界王は自身の与える世界を神が自由に利用することを望んだ。神は愛を受け取るだけで良かった。それが界王の喜びであったからだ。
だが修行を積み、穢れを払い、与える愛の素晴らしさを知った神はやがて、いつまでも授かるばかりが良いことではないという悟りを得た。
まずは身近な者に愛を与え、徐々に遠くの者へも想いを馳せた。いつか界王のもとへも届けられる愛の形に成ることを願って、精進した。
そのうち本当の意味で神が神として大成するようになると、界王は次に己が持つ力を個々の特性に合わせて分け与えた。火や水、土や風を生み出す力を与え、邪を滅する術を与えた。初歩的な創造と破壊の力も、神が扱いやすい形にして授けた。まだ神性に目覚めぬ魂を導く者として。
しかし修行の道のりは長く、いつ終わるとも知れぬものだった。悠久の時が流れるうちに、神は本来の目的を忘れ、目に見える世界と手にした力に執着するようになった。一時期はそれらが全て界王に与えられたものだということも忘れ……
だが神の英知に触れる時、彼らは思い出さざるを得なかった。神の目は真実を見る。ゆえに界王の絶大なる愛の下にいる己を誤魔化すことなど不可能だった。そうして再び元の道へ戻る時、己が発現した時の感情を呼び覚ますのである。
なんとしても、側に仕えたいのだと——そのために必要なものが「昇華」だ。いつしかこの「昇華」が最終目標のごとく掲げられてしまったが、本来は目的を果たすための手段に過ぎない。
ところが、その目的があまりにも高く、成し難いことだったので「もっと容易く叶える手立てはないものか」と愚かにも考えたことが過ちの発端だ。結果、理想郷を目指し、やはり途中で目的を履き違え、最後には界王を神代の世界から排除してしまった。
このように決定的な間違いを犯してしまったにもかかわらず、界王は全てを許し、尚も手を差し伸べた。界王は神が失敗から学び、立ち直ってまた歩むことを願っているのだ。その愛は揺るぎなく、延々と続いている。
それを神々は今、身と魂でもって確かに感じ取ったのである。
神が昇華してしまえば、界王はまた自分が孤独になると知っていながら、神の望みのままに愛も力も惜しみなく注いだ。その自己犠牲に報いなければ、神も真に神とは語れまい。今度こそ、迷いも間違いも許されないのだ、と。