22.本当の理由
「少しは何か思い出したのか?」
唐市にそう聞いたのは、晴天の空色の瞳をした男、鷹塚永治である。唐市が梓や束尚、成々らと、いつもたむろしているカフェテラスに再びフラリとやって来た永治は、至極自然に向かいへ腰かけた。
唐市は目を丸め、ついで頭を抱えた。
「まあ少しは——つかお前、こんなとこにいて大丈夫なのか?」
「どういう意味だ?」
「いろいろ……大変なんじゃないのか? その、こうなった原因なんだろ?」
「……俺は流転の世界を謳歌できれば未練はないし、幸い七万四百年余り保証されている。それに理想郷を実現した神々のおこないは過ちだったと証明された。だから責められる筋合いもないだろう?」
「いやまあ、そうだけど」
唐市は足下を見つめて頭をワシャワシャとかいた。金色に輝く繊細かつ絢爛豪華な紋様。それは地に果てしなく広がり、愛の深さや犠牲の大きさを思い知らせてくる。この重さに耐えられる者は皆無だ。永治が言うように、責められるべきは理想郷に固執してきた神々なのだろう。
そんなふうに渋い顔をしている唐市を、永治は見やった。過去に苦楽を共にした友人だが、ここまで来ると腐れ縁なのかもしれない、と思いつつ。
「梓は?」
「すぐ来るよ」
「そうか」
永治はテーブルに片腕を置いて視線をそらせた。目的は完全に梓なのだろうと察し、唐市は不機嫌そうにメニューを突きつけた。
「なんか頼めよ」
「そうだな」
永治はコーヒーを注文して待つあいだ、地に死の印章が描かれるまでの経緯をざっと説明した。
「それで思い出したんだが」
「なに」
「元帥は——界王の精霊は、ロスト・フィラデルフィアの時にも、地球が壊滅するのを阻止するためにいろいろ請け負ったんだ」
「ああ、やっぱりそうだったのか。で?」
「どうして請け負ったと思う?」
「はあ? そりゃあ、あれだろ、普通に」
しどろもどろに答える唐市を見やって、永治は不敵に笑った。
「普通に? 星の一つや二つ壊れたって、本来ならささいなことだろう、界王にとっては。作り直せばいいんだからな。だけどそこには民がいた。地球の存続と平和を願う民が。界王は正義感で請け負ったんじゃない。人々の願いを聞き入れた結果だ。そして、今回も」
唐市は口元をゆがめて肩をすくめた。
「何が言いたい」
「界王は神々の願いに忠実なんだ」
思いがけない言葉に、唐市は目を見開いた。
「え?」
「理想郷にしても何にしても、神や人の願いに耳を傾け、叶えてきた。だから間違いない」
「ああ、言われてみりゃそうかもな」
「なのに妙なんだ」
「はい?」
「印章が描かれたとき、誰もが界王を救うためなら魂を捧げると祈った。だったら己が救われる道を探すべきだろう? でも相変わらず神々が昇華を免れるための策を講じている」
先の見えない永治の話に、唐市は眉を左右ちぐはぐに歪めた。
「……なんで、なんだ?」
「見ているんだ。魂を捧げる覚悟の裏にある、もうひとつの心を——逃れられる運命なら逃れたい、という本心を」
永治は言って、人の悪い笑みで唐市を見据えた。
「界王は表も裏も見ていて、裏側を尊重している。それが嘘偽りない心だと分かっているからだ」
「お、表だって! ……嘘じゃねえ」
「もちろんそうだろう。だが表以上に、裏の心理は本物なんだ。悲しいことに」
唐市は反論の余地もなく黙り込んだ。永治の言うとおり、神々は強欲だ。この印章の上にあってなお、保身を捨て去れない。だがそんなに簡単に捨て去れるものなら、とっくに昇華もしていただろう。人が神ほど洗練されていないように、神も理想に描くほどには洗練されていないのだ。
「……いつか、いつか表のほうが本物になるかも、しんないだろ?」
どうにか言い返した唐市に、永治は寂しそうに微笑んだ。
「そうだな。そうなるといい」
その顔を見た唐市は、永治の心を知った。
この男は昇華など恐れないのだと。界王の支配する美しい流転の世に生きることができるなら、融合という代償を払うことに何のためらいもないのだ。
それは羨ましくもあり、理解しがたい感情でもあった。
***
闇に浮いては沈むもの。それは泰善の思考の中にあった。描きかけては消し、消しては描こうとする。しかし定まらない形に深い溜め息がもれる。
その宇宙はこれまでと変わらず完全な球体でなければならないだろう。しかし理は根本から変えなければならない。あの球体の中にどんな理を組み込めばシュウヤの求める理想郷が成り立つのか。もし成り立つものがあるとするなら、それは流転を超えるものになる。だがそんなものが生み出せるだろうか——
長椅子の端に足を組んで座り、肘掛にもたれるようにして頬杖をつきつつ、泰善はいつになく悩んでいた。その様子を見ていたシュウヤは何を思ったか、ふいに隣へ腰掛けると、泰善にもたれるようにして抱きついた。
「えらく色っぽいな。どうした?」
「悩んでるんだ、お前のせいで」
少し苛立った声に、「まずった」という顔でシュウヤはやや身体を離した。
「悪かったよ。でも出会った時から思ってたことなんだ。仕方ないだろ?」
「分かっている。分かっているからこそ無視してきたんだ。それなのにここへ来て向き合わなければならないなんてな」
「どうしてそんなに自分のために世の中動かそうとか考えられないんだ?」
「悲しいからだ」
シュウヤは「は?」と言って目を丸めた。
「なにそれ」
「子供の頃は何を作っても楽しくなかった。どんなに大きな物を作っても、どんなに精密な物を作っても、虚しかった。そして苦しかった。絶対的に行き場のない愛を抱えた孤独のせいだ。この愛が育つほどに虚無も膨らんだ。そして暇つぶしのために作った物たちを眺めていると、己がいかに孤独なのか思い知らされて、とても悲しかった。だからもう、やめてしまおうと思った。自分の心を癒そうとすればするほどつらくなるから、やめてしまえと。それ以来、考えられなくなった」
シュウヤの目から自然と涙がこぼれた。その孤独や悲しみを知っているからだ。始点界の空や海を眺めていると胸にしみてくるあの想いだと。
「でも今は、孤独じゃないだろ?」
泣きながら問うシュウヤの顔を見て、泰善はふっと微笑んだ。
「ああ」
そんな会話をしたばかりだったので、シュウヤは天上界の加護を再び担うことになった核たちの様子を見に行った先で、寅瞳の顔をしみじみと眺めてしまった。
泰善が生まれて初めて出会った他人である。その時の想いは何にも変えがたいものだったに違いない、と。
部屋は昨今新たに建設された『加護の間』と言う場所で、クリスタルの床と柱で構成され、全体的に虹色に輝く幻想的な間である。加護に集中しやすいようにと、余計な物は一切置いていない。
しかしそれだけに、普段いないシュウヤは目立った。かつ、あまりにも寅瞳をじっと見つめているので、輪をかけて異様に映ったのだろう。数分後、ついに文句を言われた。寅瞳本人ではなく、周囲に、である。
「おい、寅瞳が困ってんだろ? 何じろじろ見てんだよ」
「そーよ、やらしい」
沙石と楼蓮の注意にハッと我に返ったシュウヤは、聞き捨てならないセリフを吐いた楼蓮を一睨みしておいて、咳払いした。
「ちょっと感慨に浸ってただけだよ」
「なんで寅瞳の顔見て浸んだよ」
「いやー、泰善がことさら大事にする気持ちが分かるなーって」
「あ? なんだそれ」
「うん、実は……」
シュウヤは感慨に浸るに至った経緯を話して聞かせた。まだ全てを思い出せない彼らに少しでも泰善を理解してもらいたいという気持ちもあった。
「だからさ、寅瞳に会った時、すげー嬉しかったんだろうなって思って。な? 泣けてくるだろ?」
同意を求めて面々に目を向けると、すでに三人は声を失ったように泣いていて、シュウヤは慌てた。
「うわっ、ちょっ、と、おい」
そこへ妝真と大龍神が入って来たものだから、事態がややこしくなった。
「あ、泣かせてる」
「何かあったんですか?」
「い、いや、ちょっと泰善の昔話をしただけで」
「昔話?」
仕方がないので同じ話をすると、妝真と大龍神も目に涙をにじませた。結局五人の核を泣かせてしまったシュウヤは、彼らを落ち着かせるのに手間取って、いらない時間を費やした。そしてそのせいで帰りの遅いシュウヤを泰善が迎えに来るという、最悪な事態を招いた。悪い偶然は重なるものである。
「いつまで話してるんだ? 油を売っている暇があるならちょっと頼みたいことが……」
言いつつ部屋へ入って来た泰善に、全員の目が向けられたことは言うまでもない。腫らしてはないが、明らかにさっきまで泣いていたという目だ。
泰善は眉をひそめた。
「どうしたんだ?」
シュウヤは逃げる用意をした。
「悪気はないんだ。お前のことをもっとよく知ってもらおうと思っただけで、つまり善意だ」
言い切って、シュウヤはダッシュした。勢いよく横を駆け抜けたシュウヤを振り返り、泰善は手を伸ばした。
「おい! 待て!」
「待てと言われて待つ馬鹿はいない!」
つまらないセリフを吐いて一目散に逃げるシュウヤの背を呆気にとられながら見送ったあと、泰善は改めて寅瞳らに向き直った。
「で? 何があったんだ?」
経緯を説明したあと、寅瞳はまた泣き始めた。記憶が全てあるだけに、胸が痛いのだ。
「本当にすみません。あの湖を覗いてしまったこと、今でも後悔しているんです。飛鳥様の苦しみを、知っていたのに」
「そんな大昔のことを今さら気にしなくてもいい」
「でもっ……」
「いつかお前が旅立つことを知っていた。俺はそれを少し遅らせたかった。だが世界は神の望むまま、人の望むままに動く。止められはしなかったのだ」
寅瞳は涙を拭いて泰善を見上げた。
「そのように、お造りになられたのでしょう?」
泰善は微笑んでうなずいた。
「自分ではない誰かのために成すものは、常に素晴らしい。だから俺は幸福だった。たとえ別れが悲しいものであったとしても、その代償を払う価値はあったのだ」
「飛鳥様……」
寅瞳はもう一度涙を拭いて、にっこりと微笑んだ。
***
「ってことがあったんだけど」
沙石が帝人の部屋にお邪魔して言うと、帝人は「ふむ」と顎をつまんで関心を示した。
「それで?」
「アイツいい奴すぎて、オレ、なんかつれえ」
「そりゃあ、いろいろあったからな」
「なんだよ、もうちょっとこう、なんかねーの? つか反応冷たくね?」
「そんなことはない。これでもいたく感動している」
「うっそ、マジ?」
「もちろんだ。幼い頃の話とはいえ、界王にもそんな一面があったとはな。なんとなく安心した」
「は? 安心? なに、安心って」
「少しは共通した負の感情があったってことだ。過去形なのが残念だが——まあ、当時のそれも欲と言えるほどの欲ではないが」
帝人が何を言っているのか理解できずに、沙石は首をかしげた。
しかし帝人には良い情報だったようだ。「ちょっと一人で考えたいことがある」と言われ、沙石は早々に追い出された。
帝人は一人部屋にこもってソファに深く腰掛け、宙の一点を見つめながら沙石から聞いた話を分析した。
暇つぶしという自身の癒しのために物を作り出したのは幼少期のうえ、愛を与える対象が何もなかった時のことなので参考にはならないが、その孤独ゆえに寅瞳を引き止めたという話には一縷の望みがある、と。つまり、真の理想郷がまったくの絵空事ではなくなる可能性だ。
昇華は望むところである。もともとこの世はそう向かうように造られた。それが神々の願いだったからだ。だが目的はあくまで昇華の先にある。界王と生きるという未来だ。
「難解なのは奇跡だが」
帝人は指を組んだ手を額に押し当てた。奇跡の鍵となりそうなものを掴めそうな気がするのだ。
意識を集中し、界王の遥か昔の物語を紐解く。そこに必ずヒントがあるという直感を、帝人は信じて疑わなかった。そしてある言葉に注目した。
〝自分ではない誰かのために成すものは、常に素晴らしい〟
「そうだ、素晴らしい」と帝人はうなずいた。
この世は界王が神のために用意した〝物〟に溢れている。そして神々が成さねばならないのは、もらった愛を返すことだ。
「返す……」
帝人は勢い良く立ち上がった。
「——ギフトだ。我々が界王のために作り出した〝物〟がいる。しかし」
それは何だ、と帝人は胸中で問うた。
すべては界王が人や神々のために作り出したものだ。だが人や神々が界王のために築いたものなどない。神々は人のために何かを成し、人は己のために成してきた。形ある物もない物も、界王のために存在する〝物〟は見当たらない。
帝人は行き詰まって息を止めた。他に何かないかと模索した。界王が作った物ではない物、神々のためでも人々のためでもない物。誰が作った物でもなく、神が界王に贈ることができる物。
帝人はふっと視線を流した。肉体的な動作にともなって思考の視点を変えたのだ。
「形があって、ない物。界王が作った物でない物。神に所有権がある物」
やや間があって、帝人はその答えに行き着いた。魂だ。
魂は誰の創造物でもない。もしこの魂すら界王による創造なら、孤独に苛まれていた時分に作れば良かっただけのこと。そして所詮、己のために作ったものなら、他の物たちと同様、悲しみを誘っただろう。しかし魂は界王の愛を受け取る器と成り得た。それは界王の創造物ではなく、また界王とは違う何かであったからだ。
「だが、魂を渡す……? どうやって」
帝人は眉をひそめた。祈りはしたが、捧げる方法など分からない。昇華は神々の願いであり、界王に捧げる儀式ではない。また界王も、神々から魂を奪うような男ではない。これはただの誓いで、現実味のない祈りだ。
またふりだしか、と思ったその時、帝人は寒気を覚えた。どこからともなく冷たい風が吹いてきたのだ。風は細く、胸に突き刺さるように筋を描いている。かすかに魔力を纏う冷気——帝人は脳裏にある者の顔を思い浮かべて、背筋を凍らせた。
ワグナー・リスキンス。
スノーフィールド全住人の魂と共に魔剣となる決意を固めた男だ。魂を焼いて魔剣にしたのは界王だが、それは今でも「魂」だ。つまり誰の創造物でもない。そして「人霊に戻りたがらない」という話。
帝人は目をじわりと見開き、次の瞬間、駆り立てられるように部屋を飛び出し、宝物庫へ向かった。ワグナーが魔剣になることを望んだ、本当の理由を悟ったのだ。